フローズン(3)
(1)
この街は東西南北及び中心地を含めた五つの地区に分かれ、各階級によって住む地区がそれぞれ決められている。
この街を統治するファインズ男爵家や、大規模な製糸工場を経営するメリルボーン家等の上流階級の者はサウス地区、シャロンのような、裕福な中流階級の者はウエスト地区、余り裕福でない中流階級、清貧の下層階級の者はイースト地区(この街で最も区画が広く、人口が密集しているのはイースト地区である)、日雇い労働者や移民、浮浪者等最下層の者はノース地区、歓楽街や教会で働く者はセントラル地区、といったところだ。(ちなみに、シャロンとグレッチェンは薬屋の二階で生活しているので、セントラル地区が居住地だ)
更に、同じ地区内であっても、家柄や職業によって居を構える場所が微妙に違ってくる。
身分や地位の高い者程、地区の中でも奥まったところで暮らしているので、家系柄、代々銀行員を務めているというジョセフ・パイパーの住居は、同じウエスト地区でもシャロンの実家よりもずっと西方の場所――、ウエストエンド地区に位置していた。
ジョセフ・パイパーの妻であろう貴婦人が薬屋に訪れた翌日、グレッチェンとシャロンは婦人が落としたとみられる指貫を返すため、ウエストエンド地区へと向かっていた。
セントラル地区からウエストエンド地区まで徒歩で行くのに相当な距離があるので、二人は馬車を利用することにした。
店から南へ歩いて五分、オブライエン通りまで出て行くとすぐに、馬車の車輪の音と蹄が地面を踏み鳴らす音が背後から迫ってくる。人通りが少なく、大半の店舗がまだ開かれていない昼間の歓楽街では客が捕まらないことから、午後になったばかりのこの時間帯で辻馬車が通りを走るのは珍しい。
辻馬車が二人の後ろまで近づいたと同時に、シャロンは片手を大きく振って呼び止め、グレッチェンと共に馬車に乗り込む。
「教会や広場の近くまで出てから馬車を捕まえようと思っていたが……、これは運が良い」
車内のそう広くない座席に腰を下ろすと、シャロンは軽く息をつく。
いつもと変わらない、仕立ての良い高級スーツ姿のシャロンの隣で、オリーブ色のベルベッド地で作られた訪問用ドレスを纏ったグレッチェンは、返事を返す代わりに曖昧に微笑んでみせる。髪型こそ、伸ばし掛けのおかっぱ頭でやや幼い印象を与えるものの、落ち着いた物腰は何処から見ても『裕福な中流家庭の若奥様』と言った雰囲気だった。
ウエスト地区に近づくにつれて道なりもきちんと舗装されているからか、車体の揺れが次第に小さくなっていき、目的地付近に辿り着く。
馬車から降りた二人は、デタッチド・ヴィラと呼ばれる高級一軒家やタウンハウスがずらりと連なる中を、住所を記したメモ書きと地図を頼りにパイパー宅を目指す。
やがて、パイパー宅と思しき屋敷の玄関前まで来ると、シャロンは扉のすぐ横の呼び鈴を押した。程なくして扉が開く。
中から突然の訪問者を出迎えたのは、あの貴婦人だった。
シャロンとグレッチェン、貴婦人双方が驚きの余りに目を瞠る。
婦人の方が驚くのは当然のこととして、二人が驚いた理由――、使用人ではなく女主人自らが客を出迎えたことにあった。
明らかに、戸惑いと警戒心をないまぜにした顔付きで絶句する婦人に、シャロンは恭しげな口調で尋ねた。
「突然の訪問、失礼します。ここはジョセフ・パイパー氏のご自宅で宜しかったでしょうか??」
「……は、はい……」
『ジョセフ・パイパー』という名を聞いた途端、婦人の顔色が一気に青ざめていく。
もしや、昨日の出来事を夫に話すつもりでここに来たのだろうか、と恐れ戦いているのかもしれない。
「実は昨日、この指貫を妻が拾いましてね。これは貴女の物でしょうか??」
シャロンは上着の胸ポケットから小さく折り畳まれたガーゼを取り出し、中を開いて例の指貫を貴婦人に見せる。
「……は、はい!……確かに、この指貫は私がシャトレーヌに取り付けていたものです。昨日出掛けた際に何処かへ落としてしまっていて、困っていたところでした……。でも……、何故、名前を名乗らなかった私の住んでいる場所が分かったのでしょうか??……」
「指貫の裏側に『R・パイパー』と書かれてありましたし、パイパーという姓はこの街では非常に珍しいですから、もしや貴女はジョセフ・パイパー氏の奥方なのでは、と思ったのです。私はパイパー氏とは過去に面識がありましたし、うろ覚えですが彼の住んでいる場所も知っていました。なので勘を頼りに、思い切ってここへ指貫を届けに参った次第です」
「……そうでしたか……。それはわざわざ届けに来て下さって、ありがとうございました……」
貴婦人はシャロンから指貫を受け取り、礼を述べる。そして、「……玄関先で立ち話も何ですから、どうぞ中へお入り下さい……」と、二人を促したのだった。
(2)
「……私は、ジョセフ・パイパーの妻、ロザリーと申します」
貴婦人もとい、ロザリーは二人を応接間に案内すると、「すぐにお茶の用意を致しますから、少しだけお待ち下さいませ」と、すぐに部屋から去って行った。
通常、客人の出迎えやお茶の用意は使用人の仕事である筈なのに、女主人が自ら行うのはパイパー氏の意向によるものなのか、どうやらこの家では使用人を雇っている様子が見受けられなかった。
天板の脇に彫刻が施された長方形の座卓に籐で作られた椅子といい、桃の形を模した博古架と、そこに飾られた花瓶や香炉といい、家具や調度品が全て東の異国風なのは、これもパイパー氏の趣味だろう。見慣れない空間に、グレッチェンはいつになく緊張を覚えていた。
銀製のティーポットとシュガーボックス、異国風の取っ手がついていない白い茶器、月餅をトレーの上に乗せてロザリーが部屋に戻ってくる。
「……主人の趣味でお茶もお菓子も全て異国の物しか置いていなくて……、申し訳ありません……。お口に合わないようでしたら、どうぞご遠慮なく申し上げてくださいな」
しきりに恐縮してばかりいるロザリーにシャロンは、「いえいえ、お気になさらないで下さい。こちらこそ突然の訪問にも関わらず、こんなにしていただけるとは……。お心遣いありがとうございます。あぁ、そう言えば申し遅れました。私はシャロン・マクレガーと申します」
「……シャロンの妻、グレッチェンと申します……」
ロザリーに深々と頭を垂れつつ、グレッチェンは内心ひどく焦燥感に駆られていた。
こんな風に名を名乗り、完全に身元を明かしてしまった以上、この貴婦人に毒を渡すどころか、話を聞くことすら容易でなくなるではないか。
そもそも指貫を返したのなら、今日の所はすぐに帰れば良かったのに。
ロザリーの住居の場所が分かりさえすれば、後日シャロンの目を盗み一人で訪れることが出来たと言うのに。
グレッチェンの複雑な心境などお構いなく、ロザリーは「……もしかして、昨日マクレガーさんと一緒にお店にいた方……、ですわよね??私、てっきり……」と言い掛けて、口籠る。彼女が何を言おうとしたのか、即座に察したグレッチェンは微かに苦笑を浮かべてみせる。
「年若い少年かと、思われたのですね」
「……い、いえ、その……」
「大丈夫ですよ。髪も短いですし、仕事中はあのような男装姿でいますから、よく少年と間違えられることが多いのです」
決して不快に思って等いない、と示すようにグレッチェンは薄く微笑んではみたが、ロザリーはとんだ失言を……と、更に身を縮ませてしまった。
「……で、でも、とてもお若くて美しくいらっしゃいますわ。見たところ、ご主人と少しお歳が離れているように見受けられますから、きっと可愛がられているのでしょうね」
可愛がられている、と言われたグレッチェンは、ふと別の意味合いで言葉を受け取ってしまい、込み上げた羞恥心により口を噤んでしまう。
「確かに見ての通り、妻は年若く美しい女性です」
黙り込んでしまったグレッチェンに代わり、今度はシャロンが口を開いた。
「ですが、ただ若く美しいだけの女性というだけならば、それこそ星の数程いるでしょう。しかし、彼女はそれ以上に聡明で努力家で……、真っ直ぐな生命力に満ち溢れた芯の強さを持っています。私は妻のそういった部分を尊敬していましてね」
「……まぁ、そうですの。……随分と奥様を大切にされているのですね……」
「えぇ、私は妻と、妻と穏やかな生活を送る以上に大切なものなど存在しないと思っていますから」
恥ずかし気もなく語り続けるシャロンに、グレッチェンはただただ疑問を感じていた。
ロザリーの家庭が崩壊しきっていると、昨日の少ない会話からでも充分理解できるはずなのに、何故自身の幸せな家庭についてわざわざ彼女を前に語る必要があるのか。ただの嫌味として受け取られ兼ねないだろうに。
もしくは、あえてそれを誇示することで『やっと手に入れた自分達の幸せに水を差す様な真似をしないで欲しい』と、遠回しに牽制しているのか。
そんなことを思案しながら、シャロンとロザリーの会話を黙って眺めていると、応接間の扉が開くのを視界の端で捉えた。
けれど、扉を開けた人物が中に入ってくることはなく、僅かに開いた扉の隙間から中の様子をじっと窺っているようだった。
ロザリーの夫か娘か、はたまた別の誰か、か。
一人、顔を強張らせているグレッチェンが気になったのか、ロザリーが彼女の視線の先を辿るように、同じく視線を扉へと向ける。瞬く間に、ロザリーの表情は凍り付いていったのだった。




