フローズン(2)
夏の夕立を思い起こさせる貴婦人の来訪から数時間が経過し、初冬の早い夕暮れと共に、常連客である娼婦達がぽつぽつと店に訪れ始める。
「あら??こんなところに何か落ちているわよ」
潤滑剤を買いに来た女が、カウンターのすぐ真下に落ちていた、銀色に光り輝く物――、指貫を拾い上げる。
「はい。これ、グレッチェンの物でしょ??こんなお高そうな指貫なんて、あたし達みたいな貧乏娼婦じゃ買えっこないもの」
女の言う通り、この指貫は純銀で作られ、精巧な美しい細工が施されているので高級な代物だと見て取れる。
服装こそ以前と変わらず男装姿ではあるものの(この方が働く分には動きやすいという理由で)、今やグレッチェンの肩書は『裕福な中流家庭の若奥様』である。だから、女は当然のように指貫をグレッチェンに手渡してきた。
「あの、これは……」
「あぁ、ありがとうございます。昨日から失くしていたらしく、困っていたようでして」
私の物ではありませんーー、とグレッチェンが答えるよりも早く、シャロンが彼女の言葉を遮るようにして、微笑みながら指貫を代わりに受け取る。
グレッチェンはあえて口を噤んでいたが、女と和やかに談笑を交わすシャロンの横顔を信じられない、一体何を考えているのかと言いたげな顔付きで眺めていた。
やがて女が店から去っていくと、シャロンは「……そんな風にいつまでも睨まないでくれたまえ」と、呆れた顔でグレッチェンを嗜めてきた。
「別に睨んでいたつもりはありません。ただ、何故、あのような嘘をついたのですか」
「それはこの指貫はあの貴婦人の持ち物に違いないからさ。おそらく、シャトレーヌにぶら下げていた諸道具の一つだろう」
シャトレーヌとは、中流階級以上の奥方が必要な諸道具――、例えば、鍵、ペン、鋏、印章、ペーパーナイフ、針刺し……等を腰に下げておくための飾り鎖のことである。ただし、実用性には乏しく、どちらかと言えば身分の高い家の女主人というのを誇示するための装飾品でしかなかった。
「高価な物だけにすぐにでも返しに行かなければ……。とは言え、お名前すら知らないようではどこの家のご婦人なのかも全く見当が付きません……」
ただの装飾品とはいえ、シャトレーヌに下げていた道具を失くすことは女主人にとってあってはならない失態だ。グレッチェンはどうしたものかと思案を巡らせる。
「放っておけばいい。大事なものであれば、いずれ取りに来るだろう」
「……そうは申しますが、店主に無慈悲な態度で追い返された手前、指貫を落としたことに気付いたとしても取りに行き辛いのではないでしょうか??」
相変わらず、あの貴婦人に対する冷淡さを正そうとしないシャロンに、いささか腹を立てたグレッチェンはわざと言葉の端々に棘を持たせた。
「それならそれで仕方ないのではないかね??彼女にとってはその程度の代物だった、というだけだ」
「…………」
「グレッチェン、いい加減、あの貴婦人についての話題を持ち出すのはよさないか。私はつまらないことで君と喧嘩などしたくない」
グレッチェンだって、シャロンとわざわざ無駄な諍いを起こそうなどとは決して思ってはいない。
ただ、持ち主が分かっている落し物を拾ったならば、返しにいくのは当然だと思うから何とかならないものかと、相談したかっただけなのに。
シャロンへの苛立ちをどうにか抑えようと、手の中に収まっていた指貫を摘み上げてみる。すると、指貫の裏側、細工が施されていない部分に文字が彫られているのが目に入ってきた。
「R・パイパー……??あのご婦人のお名前かしら……??」
グレッチェンが呟いた言葉に、シャロンが即座に反応する。
「R・パイパー……??……パイパー、パイパー……。うん??どこかで聞いた名前だな……」
『パイパー』と言う名を耳にしたシャロンは、先程とは一転、親指を唇に押し当てて何かを思い出そうとしている。
「ひょっとして……、シャロンさんのお知り合いのお名前ですか??」
「あぁ、そうだ……。とはいえ、顔見知り程度の極めて浅い関係の人間だったと思うが……、この街ではあまり聞いたことがない、珍しい姓だったから、記憶に残っていたのだろう……。……あぁ!思い出したぞ!!……」
急に大声で叫んだシャロンに驚いたグレッチェンは、思わずビクッと肩を震わせた。
「あぁ、すまない、驚かせたね。多分、ジョセフ・パイパーのことだ!」
「ジョセフ・パイパー??」
シャロン曰く、寄宿学校生の時分に同じ教室内に『ジョセフ・パイパー』という男がいたという。
「特に親しかった訳ではなかったし、取り立てて目立ったところがない男だったから、正直なところ顔などはうろ覚えだけれど。十年程前に、銀行の頭取だった父親の伝手で銀行員になったという噂を、随分前に小耳に挟んだ覚えはあるよ」
「では、ひょっとしてあのご婦人は、シャロンさんのご学友の奥方に当たる、ということでしょうか??」
「おそらくそうだろう」
「でしたら、その方の家の住所を調べさえすれば、自動的にあのご婦人の居場所も分かるということですね」
「……ちょっと待ってくれ……。確か彼の生家は……」
シャロンは必死になって、十数年前の記憶の糸を手繰り寄せる。
「……これもうろ覚えだが……。……パイパーの生家は、この街のウエストエンド地区にあったと思う……」
「思い出して下さってありがとうございます。では、明日の昼間にでもウエストエンド地区に出向き、ジョセフ・パイパーさんのお宅を探し出そうと思います。そうすれば、指貫をあのご婦人にお返しできるやもしれませんし。ただ、一、二時間程店を開けることになってしまいますが……」
この出来過ぎた偶然に心の底より感謝する一方で、本来の仕事を疎かにしてしまうのが、グレッチェンはどうにも気が引けてならない。何より、グレッチェンがあの婦人と関わることを、シャロンは必要以上に快く思っていないことも気掛かりだった。
「……いいだろう、それ程までに気に掛かるのなら、その指貫をご婦人に返しに行って差し上げなさい」
反対するか、渋るかして、少なからず苦い反応が返ってくると予想していたが、意外にもシャロンはあっさりと許可を下した。
「その代わり、私も君と一緒にジョセフ・パイパーの住まいを探そう。どうせ夕方まで客はほとんど訪れないのだから、平常より二、三時間程開店時間が遅れたとしても、誰からの文句も出ないだろう」
「…………」
「何だね??私がついていくのに何か問題でもあるのかね??」
いつものグレッチェンであれば、恐縮しつつもすぐに「ありがとうございます」と礼を述べるところを、何故か今に限っては戸惑った表情を見せるばかりで黙りこくっている。そのため、シャロンは不審感も露にさせて尋ねた。
「……いえ、そういう訳では……。ただ、あの婦人と私を余り接触させたくなさそうでしたから、反対されるものかと……」
「本当のことを言えば、あの婦人には二度と君を会わせたくなどないがね。だが、指貫を何としても返したい、と君にいつまでも気に病まれる方が私は嫌なのさ」
「……そういうことでしたか……。……お気遣い、ありがとうございます……」
ようやく普段のグレッチェンらしい態度を見せてくれたことで、シャロンは安堵を覚えたが、一方で、シャロンとは反対にグレッチェンはひそかに思い悩んでいた。
(……指貫を返しに行くと共に、ご婦人からもっと詳しいお話を聞き出したかったのだけど……)
自分に関するシャロンの察しの良さはありがたいと思えど、煩わしいと思うことなど今までついぞなかったグレッチェンだったが、今回ばかりは少々疎ましく感じていたのだった。




