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フローズン(1)

新婚で仲睦まじい筈の二人が「毒」を巡り、起こした行き違いから思わぬ事件に発展していくお話になります。

(1) 

 明け方近くにふと目を覚ましたシャロンは、腕の中で穏やかな寝息を立てるグレッチェンの寝顔を愛おしげに眺めていた。


 彼女と結婚して早二カ月が過ぎ、短かったアッシュブロンドの髪が少しだけ伸びて頬に掛かっている。それだけでなく、シャロンの裸の肩や胸にも彼女の柔らかな毛先が触れていて、何ともくすぐったい。

 そう思ったシャロンは、起こさないよう注意をしながら、彼女の髪をそっと指先で払いのけた。

「……ん……」

 途端に、グレッチェンは不快そうに顔を歪め、シャロンの腕の中でもぞもぞとしきりに身じろぎを繰り返し出した。しまった、と思った時には、すでに淡いグレーの瞳が彼のダークブラウンの瞳をじっと見据えていた。

「……すまない、起こしてしまったようだな……」

「…………」

 申し訳なさそうに詫びるシャロンだったが、グレッチェンは無言のまま、ただ彼の瞳を見つめている。よくよく覗き込んでみると、目の焦点が定まっていない。

(……ひょっとして、寝惚けているのか??……)

 試しに彼女の名をグレッチェンではなく、本名のアッシュと呼んでみたものの、反応が鈍いどころか、極めて無反応である。

(……まぁ、これはこれで可愛いけれど……って……??)

 シャロンの呼びかけに何の反応も示さなかったグレッチェンが、茫洋とした瞳のまま彼の右肩にしがみついてくる。一体何を始める気なのか、と、彼女が次に取る行動を半ば面白半分に期待を込めて静観しようとしていたシャロンだったが、すぐにその思いは取り消さることとなったーー。


 数分後、昨晩も散々睦み合ったにも関わらず、シャロンは夢うつつになっているグレッチェンのか細い肢体を再び抱き寄せていたのだった。




 ――数時間後――




「グレッチェン……」

「風邪薬の漢方薬なら、昨日届いてすぐに棚に補充しました。カナビスチンキがそろそろ品切れになりそうなので、今日中に発注書を書こうと思います。お釣りに使う小銭の両替はすでに一昨日済ませましたし、店内の掃除はシャロンさんが店に下りてくる前にとっくに終わらせました」

 シャロンが尋ねようと思っていた質問事項を先読みしたのか、淡々とした事務的な口調でグレッチェンは答えをまくし立てる。

「他にご質問は??」

「…………」

 思わず閉口するシャロンを尻目に、グレッチェンはふい、と顔を背けて薬品の在庫管理の続きを再開したのだった。

「グレッチェン」

「…………」

「いい加減、機嫌を直してくれないかね」

「……何がですか??」

「何が、って……」

「仕事中に、仕事と関係のない話はしないで下さい」

(……君だって、仕事中に私情を持ち込んでいるじゃないか……)

 そう喉元まで出掛ったが、辛うじてシャロンは言葉を飲み込む。

 言ったところで、彼女の機嫌を益々損ねてしまうのが目に見えている。

 それに、厳しい言葉や態度とは裏腹に、どことなく気怠そうな動きで仕事している姿が、自分が無理をさせたせいだと思うと申し訳ない気持ちに駆られるからだ。

 『朝方に寝込みを襲うのは本当に止めて下さい』とグレッチェンが怒る理由は、身体に疲れが残った状態で仕事をするのが嫌だというのに他ならない。今までも何度となく怒られているのに今朝も懲りずにやってしまったがため、とうとう堪忍袋の緒が切れてしまったのだ。

 お蔭で起きてからずっと、シャロンはグレッチェンからこの調子で冷たく当たられ続けている。

(……元はと言えば、寝惚けていたとはいえ、君が誘ってきたようなものじゃないか……)

 薬品を棚に補充する妻の痩せた背中に向けて、シャロンが小さく嘆息をついたと同時に店の扉が静かに開く音が耳に届いた。



(2)

 中に入って来たのは、ゴールドブロンドの巻毛が美しい貴婦人だった。


 慎ましやかではあるが生地の質が良さそうな、クリーム色の立て襟のドレスといい、楚々とした上品な佇まいといい、上流とまではいかなくとも裕福な中流家庭の奥方といった雰囲気が醸し出されている。

 しかし、品のある美しさとは裏腹に、貴婦人の表情はどす黒いまでの陰鬱さのみを映していた。まるで、死刑宣告の判決を下された罪人のような顔付きに、シャロンも客の気配で振り返ったグレッチェンも声を掛けられずにいたのだった。

「……すみません……。ここで……、『即効性と確実性がありつつ、絶対に証拠が残らない特殊な毒物』を売っている、という噂をお聞きしまして……」

 虚ろな表情を一切変えることなく、唇のみを動かしている様子はどうにも気味が悪い。そんな貴婦人の、生気を失っている青い瞳が見る見るうちに潤んでいく。

「……お願いします……!……どうか、どうか、私に毒を売って下さいませ……!!」

 ドレスが汚れるのも構わず、貴婦人は床に膝をつき、祈りを捧げるかの姿勢で頭を低く下げ、二人に縋りついた。

「……恥を忍んで申し上げますが……、私の夫は多忙な仕事で堪った鬱憤を、私を罵倒したり、時には暴力を振るう事で晴らしている人で……。ただ、それだけでしたら、私が耐えればいいだけの話でした……。けれど、夫は……、私のみならず……、娘にまで手を上げるようになったのです……。しかも……」

 ここで貴婦人は唐突に言葉を途切れさせる。直後、嗚咽を漏らし始め、涙交じりの声で再び二人に向かって訴えかける。

「……これ以上、娘が傷つかないように……、娘を守るために……、夫を始末したいのです……。……お金なら、いくらでも払いますから……、ですから……」

 込み上げてくる激しい感情により、とうとう貴婦人は言葉を続けることができなくなり、頭を下げたままその場で泣き崩れてしまったのだった。


 泣き崩れる貴婦人に、グレッチェンはどう言葉を掛けるべきなのか分からずに、ただ茫然と見守るしかなかった。


 シャロンと結ばれ、妻になって欲しいと請われた際、『毒は二度と売らない』と誓った手前、貴婦人の依頼は当然断らなければならない。

 だが、絶望に打ちひしがれた中で一縷の望みを賭け、縋りつく貴婦人の姿を目の前にして、グレッチェンは断り文句を考えることすらできない程に激しく動揺していた。


「――大変申し訳ないのですが……。誰が流したのかは知りませんが、毒を売っているなど、ただの根も葉もない噂に過ぎませんね」

 すぐ隣から、やけに冷たい響きを含んだ声が突き放した言葉を言い放つ。

 反射的に声の主――、シャロンの顔を見上げ表情を窺うと、いつもの穏やかな表情とは打って変わり、背中にぞくりと寒気を覚える冷淡さをダークブラウンの瞳に浮かべていた。


 それはグレッチェンですら、彼の言葉に口を挟む隙すら与えない威圧感があり、顔を上げた貴婦人も、端正な顏が見せる冷め切った表情に怯えている。

「そういう訳ですから、お引き取り願えないでしょうか。他のお客が来た時に、変に誤解を持たれては店の信用問題に関わりますし、何より妻と私にあらぬ疑いを掛けられたりしたら困りますから」

「……あ……」

 シャロンから浴びせられる無情な言葉の数々が、却って貴婦人に冷静さを取り戻させた。

 貴婦人は音を立てずに静かに立ち上がると、暗い表情はそのままに「……数々のご無礼、大変申し訳ありませんでした……」と、深々と頭を垂れた後、店から出て行ったのだった。

 来た時より一層項垂れた様子の背中をカウンターの中から見送った後、グレッチェンはすぐにシャロンに向き直った。

「私を責めたいのなら、好きなだけ責めればいい」

「…………」

「口に出さなくても、君が私を非難したいと思っているのはその目を見れば一目瞭然だ」

 グレッチェンはあえて何も言わなかったが、淡いグレーの瞳はシャロンを鋭く見据えている。

「冷たい男だと思ってくれて結構。だが、これだけは言わせておくれ」

「……??……」

「あの婦人が娘を守りたいように、私も君を守りたいだけなんだ。これ以上君に罪を重ねさせたくないし、そのことで君を傷つけたくない。それに、近頃ではクロムウェル党による犯罪が多発しているせいで、警察の捜査が厳しいものに変わってきている。万が一、君の罪や特異体質が露見するような事態になったら……。……考えるだけで気が狂いそうになる……。私は、君だけは絶対に失いたくないんだ……」

 言葉を続ける内にシャロンの表情は切なげに歪み始め、徐々に弱々しいものに変化していった。


 それでも潔癖さゆえに、グレッチェンは納得しきれずにいた。

 シャロンが自分を深く愛しているからこそ、手を汚させたくないという想いは痛いくらいに伝わるし、充分理解も出来る。

 だが、裏を返せば『自分達さえ良ければ、他の人間などどうなっても構わない』ということに繋がってしまう。

 果たして、それは本当に正しい事なのだろうか。

 憔悴しきった貴婦人の泣き顔とシャロンの恐ろしく冷酷な顏が、グレッチェンの脳裏をぐるぐると交互に駆け巡り、彼女の繊細な心をゆらゆらと波立たせていた。

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