59:君の幸せを願い
「へ、陛下、今、何を」
「何を言ったか? こう言った。『ノリスは私がずっと片想いしていた相手がフローラであると知っていたからな。わたしが大切に想うフローラからの頼みだ。無下にはできなかったのだろう』と」
今はまだガレスの腕の中にいる状態だった。
この距離にて、今の言葉は刺激が強すぎる。
片想い? 片想いというのは、想いを寄せているということ。
え、ガレスが私を……。
「冷静に考えると、これまできちんと言葉にしていなかったな。本当はあの舞踏会で伝えるつもりだった。まさかバルコニーから落ちそうになるとは思わない。ましてや攫われるなんて想定していないからな。改めて言わせてもらおう。新しい皇妃に相応しい女性は、一人しかいない。それは」
「ちょっと待ってください、陛下!」
ぐいっとガレスの胸を押し、距離を取り、その顔を見る。
改めて見た顔に、腕の力が抜けた。
無表情で、雪原のような冷たい眼差しを向けられたら、腕の力も維持できただろう。
だが今は、銀色の瞳は雪解けしており、目元はほんのり春の色。
アイスブルーの髪はサラリと揺れ、その形のいい唇が「どうした、フローラ」と澄んだ声を響かせる。もうそれだけで、今度は全身の力を奪われてしまう。
ガレスは暴君ではないと、こんなにも女子の心を溶かす表情と声になってしまうの……?
もし今の姿を舞踏会で見せようものなら、フロア中の令嬢が失神し、大混乱になりそうだ。
「少し、話をし過ぎたな。喉も乾いただろう。まだザクロジュースがあるから飲むといい」
またもや手ずからでグラスに飲み物を注いでくれると、私に渡してくれる。その際、互いの指が、軽く触れた。
「フローラの手はとても小さく、可愛らしい。親指がわたしの小指みたいだ」
「そ、そこまで小さくないです……」
グラスを持たない方の私の手をとると、ガレスが手の甲に、ふわりと軽くキスをする。一瞬だけ感じた柔らかさとほんのりした温かさに、自分の頬がぽうっと赤くなるのを感じた。
不意打ちでこんなことをするなんて。
とにかく動揺しているのを悟られまいと、ザクロジュースを飲み、一息つく。その瞬間、自分が何をしているのか忘れそうになる。
私は大切なことをガレスに聞こうとしていた。
「皇妃の恩赦のために、新しい皇妃に相応しい相手を見つける件ですが、私は見つけました」
これにはガレスは「うん?」という感じで私を見て「……そうか」とゆったりと返事をして、尋ねる。「その相手とは?」と。
「陛下と変わらない高身長で、アイスブルーのフード付きローブを着ていた令嬢です。フードを被り、ローブも長いので、どんなドレスを着ているは分かりませんでした。でも裾からチラチラ見えたレースを見る限り、とても上質そうなものです。それに肩を抱き寄せ、周囲を伺い、どこかに消えてしまい……。その方ですよね、陛下が新しい皇妃と考えられている方は」
「あの時間に宮殿にいたのか? ナタリアとロスコーと、会っていたのではないのか?」
「会っていました。ナタリアとロスコーと会える機会をわざわざ作ってくださり、ありがとうございました。本来、お会いしてすぐに御礼を言うべきところ、遅くなり、申し訳ございません」
「久しぶりに会えて、ゆっくり話せたか」
ガレスの伸ばした手で頭をゆっくり撫でられると、なんだか自分が猫になったような気分だ。こうやって優しく触れられることが、とても心地良く感じる。つい気持ちも緩んでしまう。
「はい。お互い、離れ離れになっている時、何があったのかを話せました。……後はソークと陛下、どちらが優れているかの論争になり……」
「どちらもわたしなのだが。それで、どちらに軍配が?」
「それはですね……」
ソークが圧倒的に低評価だったと話すと、分かりやすくガレスは寂しそうな顔をしている。毒が残る体で動いたのだから仕方ないと鼓舞すると「そうだな……」と言いつつ、でもしょぼんとしている。まるで雨に濡れた子犬みたいだ。
暴君ガレスのはずが。
まさに別人。
思わず和んで、笑顔になり……。
ち、違う。そうではないの。
ガレスと話していると、つい彼の言葉にのせられ、当初と違う方向へ流されてしまう。
これはガレスの天性の才能ね。
もし暴君ではなく、この国が平和だったら、とんでもない人たらしになっていただろう。
「陛下。ナタリアとロスコーの件は、本当に重ねて御礼申し上げます。……陛下の髪色と同じアイスブルーのローブを着ていた令嬢が、正解なのですよね? 一体いずれの令嬢なのですか?」
「気にする必要はない。フローラが心を乱す程の相手ではないのだから」
「誰なのか、教えてくださらないのですか……?」
するとガレスは一瞬、目が泳いだが「明日の宴の席で発表する」と答えた。
明日の宴。
戦勝慰労の宴で発表する。それはオールソップ公爵の件や皇妃の罪と罰、そして……新しい皇妃のことでは? つまり、その方がやはり新しい皇妃候補ということだ。
「フローラ、話を戻そう」
「でも」
クイっと顎を持ち上げられたと思ったら、ガレスにキスをされている。
ソークが不意に離れにやってきて、春風のように優しく触れたキスとは違う。
こんな……体の芯に響くようなキスがあったなんて……。
何も考えられない。
ガレスの指が後頭部に滑り込み、その指が首筋やうなじに触れる度に、言葉にできない甘美な痺れが全身を巡る。彼の息遣いと自分の吐息にめまいがして、すっかり心身ともに溶けてしまった時。ガレスの唇が、私の唇から離れた。
息が上がり、ガレスの胸に顔を埋める。
優しく包み込むように抱きしめられ、あまりの心地の良さに、意識が飛びそうになった。
「新しい皇妃はフローラ、君だ。君に皇妃になって欲しい。この離れではなく、皇宮で一緒に暮らそう。君が許してくれて残ったこの命、これからは君のために使うと決めた。もう戦はしない。北の地も治まった。西の地も彼がいれば大丈夫だろう。後は平和な世の中にしていくだけだ。暴君と恐れられることも、そう悪いことではない。みんな大人しくしてくれる」
「……陛下は、どうして……」
「どうしてフローラを皇妃にということか? それともどうしてフローラを好きなのか? どっちでもいい。スペンサー王国の、あの風が抜けて日当たりのいい丘で。フローラと初めて会った時からずっと。君がわたしにくれた笑顔、言葉、思い出。そのすべてがヴィサンカ帝国での地獄の日々の支えになってくれた。フローラがわたしの全てだ。フローラのことを、心から愛している」
私の髪をひと房、手に取ると、優しくキスを落とす。
その姿はやはり秀麗で、ため息が出てしまう。
「……無論、知っていた。リンドン王太子と婚約をしたことを。それでもフローラのことを忘れることは……できなかった」
ガレスの銀色の瞳が遠くを見つめ、寂しさで満ちる。
私の知らない所で、ガレスは独り、片想いを募らせていた。
「不思議だな。男という生き物は、欲しいと思った物も者も手に入れ、征服して満足できるのかと思っていた。だが違う。力で手に入れても、心は空しくなるだけだ。ヴィサンカ帝国の皇帝という地位があれば、フローラとリンドンの婚約など、いくらでも覆すことができた。それは分かっていたが、そうする気にはなれない。そうやってフローラを手に入れても、その心は手に入らない。わたしが欲しいのはフローラの心だ。わたしが想うように、フローラにもわたしを想って欲しいと願っていた」
月光のような輝きを帯びた銀色の瞳に、吸い込まれそうだった。
ヴィサンカ帝国の皇帝という、その圧倒的な地位にあっても、人の心だけは、どうにもならない――そう悟ることができているガレスは、間違いない。暴君などではなかった。この大陸で、最も賢い王になるのではないか。
「……だが婚約してしまったフローラから、もう想いを得ることはできないと、ようやく理解すると……。願うようになった。フローラの幸せを。例えわたしの想いが届かなくても、フローラが幸せでいてくれたら、それでいいと思えた。よってハーティントン国の裏切りを、リンドンの背徳は許せないと思った」
本当に。リンドンはどこで道を間違えてしまったのだろう。
ガレスは、満足できないと悟ることができた。欲しいと思った物も者も手に入れ、征服しても。でもリンドンは違う。征服し、人も物も手に入れたら、満足できると考えた。
「ハーティントン国の野望を阻止したつもりが、まさかわたしにとっても故郷であるスペンサー王国まで……。これから一生をかけ贖罪の必要があると思っている。こんなわたしだが、フローラ、君は」
ガレスの唇に指で触れると、それはベルベッドのような極上の触れ心地だった。しっとりして潤いもあり、艶やかだ。触れている指が、歓喜の悲鳴をあげている。
自分のせいだとガレスは言うが、諸悪の根源はリンドンだ。ガレスはできる限り精一杯で動いてくれた。それでも彼はただの人間。限界がある。最善は尽くしたが、リンドンという悪魔の暗躍を全て阻止することができなかっただけだ。
それでも自身を責め、私の手で死ぬことすら願った。
私が憎むべき相手はガレスではない。それはリンドンだ。自身の両親さえ、駒として扱い、兄を手に掛け、私のことさえ害そうとしたリンドン。私の祖国を、家族を死に追いやったのは、リンドンだ。
罰するべきはリンドンであり、ガレスは――。
「ソークとしても、ガレスとしても、二度も私の唇を奪ったのですから。責任はとっていただきます。勿論、そんな要求をするのは、私もあなたを愛しているからです」
その顔に、溢れそうな程の喜びを浮かべると、ガレスがふわりと私を抱き寄せた。






















































