顔無し聖女は塩対応。5
気絶していたのは数分の事だったようだ。
地面に大の字で寝転がって、空を見上げている。澄み切った青い空は、先ほどと同じまま。頭と背中と腹と――いや、もう面倒くさい。全身が激しく痛むが、生きていた。
防壁を張ったとは云え、あの激しい力を正面から受けて生きているとは、我ながら生命力が強い。呆れる程に頑丈だ。
身動きが取れない。治癒術を使おうにも、術式が頭の中で上手くまとまらない。どうにもならないとただ空を見上げていると、靴底と砂が擦れ合う音が近づいて来た。乱れた足音は、その人物の心の乱れを表しているよう。
「……大丈夫、です、か」
「……はい」
ふと影が掛かったと思ったら、それはトバリだった。先ほどの激情は失せたのか、途惑った様子でクリストファーを見下ろしている。
彼女は恐る恐るクリストファーの側へ座った。黒い手袋に包まれた指先が、そっと額へふれて来る。
優しい手だと、そう思った。
――この手は、指は、他者を慈しむ事を、優しく愛する事を知っている。
これまでの態度は彼女本来のものではないのだろう。見知らぬ場所、知らぬ人々に囲まれて、警戒心と懐疑心が強くなってしまった。それだけの事だ。
「血が……」
「……汚れます、よ」
「……」
脳天がカチ割れる事は防げたようだが、その代わり額は切れていた。頭の怪我は、些細な大きさでもよく出血する。ふれていては、彼女の手袋が汚れてしまうだろう。
ふれられた事は嬉しかったが、トバリが汚れてしまっては意味がない。だから手を離して欲しいと思った。そこまで口に出来なかったが、伝わってはいるだろう。聡い方だから。
「……」
トバリは察し善く手を離した。自分が望んだ癖に、それを寂しいと思うのは、おかしい事だ。
彼女が右の手袋を外す様が、視界の端に映る。そうして現れた素肌に、目を見開いた。
――火傷の跡だ。
手の全面が、赤黒く引き攣れている。それは湯を被ったとか、熱せられた物にふれたとかではなく――“焼けた跡”だと直感した。
掌が優しく、クリストファーの額にふれる。パキッと短く、何かが割れる音がして――その次の瞬間だった。
クリストファーの全身から痛みが引いた。
「えっ」
驚きと共に起き上がる。トバリも驚いた様子だった。
「治ってる……」
自分の胸や頭に手を当てながら呟く。起き上がれないほどの重症だった。脳と内臓は無事だったが、骨は何本か折れていたと思う。それらが一瞬で癒えたのだ。驚いてしまう。
この世界には治癒術と云う学問がある。誰でも学べば扱える術の一つだ。ただ、力量差は出る。切り傷や打ち身を治すのが精一杯と云う者もいれば、内臓の損傷や骨折を治せる者もいた。凄まじい者であれば、欠損すら治せる。けれど、どれほど上位の治癒術使いであったとしても、一瞬では無理だ。
聖女であれば、と思いはする。とある文献で、過去の聖女が致命傷を負った者を癒したと云う記述があった。しかしそれは、懸命に時間をかけてと記されていた。一瞬で治した、ではない。
見れば怪我どころか、裂けた衣服は新品同然に修繕され、血の汚れまで消え失せていた。これは、驚きと云う言葉だけでは足りない。
衣服の破損や血の汚れも修繕や洗浄の術で直したり落とす事は出来る。しかし修繕と洗浄では術式が全く異なる。普通は一つずつ行うものだ。同時に展開出来る技量の持ち主など、クリストファーとて数えるほどしか知らない。
トバリへ視線を向けると、彼女はじっと己が右手を見ていた。握ったり開いたりしている手には、強い困惑が見て取れる。
けれど、治癒、修繕、洗浄、三つの術を同時に展開したのが彼女である事に間違いはない。術を受けたクリストファーが一番よく分かっていた。
「トバリ様」
「……」
「怪我を癒してくださって、ありがとうございました」
「……」
礼を述べて頭を下げる。無言のまま、彼女は手袋を付け直した。
「……わたしは」
「はい」
「ふつうの、にんげん、です」
「……はい」
「こんな……」
また彼女は、両手で顔を覆う。俯いて身を縮ませて、小さく震えた。
「こんなの、うそだ……」
怯えている。普通の人間のように。
異世界には魔力がなく、クリストファー達が当たり前に使っている魔術が使えないと聞く。自然の現象を操る術がない世界で、それを当然として生きて来た人間が突然その能力に目覚めたとして。
――果たして、無邪気に喜べるのだろうか。
その答えは目の前に。訳の分からない力が身の内にある事にトバリは恐怖していた。
クリストファーから見れば『聖女の奇跡』に違いないが、彼女からしたら意味が分からないだろう。突然巨大な力を授けられて、持て余している。その力でクリストファーを傷付けた事を、後悔している。
なんと声を掛けるべきか。「気にしないで下さい」? 「素晴らしい力です」? 「大丈夫ですよ」?
どれも違うように思う。
(……こう云う時、父上なら、トバリ様になんと声を掛けるのだろう……)
ふと、気さくで楽しい父を思い出した。あの父ならこの状態のトバリにも、素敵な言葉をかけてくれただろう。トバリを怯えさせ、小さく震わせる事もなかったかも知れない。
血の繋がりは確かにあるのに、なぜ父の明るい優しさを自分は受け継がなかったのか。そんな詮無い事を考えた。
そこで、城からこちらへ近づく一団に気付く。先頭に立つ白い法衣に身を包んだ高貴な女性が、硬い表情でこちらを見ていた。




