幼少期
《1》
彼は小柄な子供を抱いていた。
「エ、エリュー?」
抱かれた子供の声はひっくり返るほどびくついている。
周囲は緑の濃厚な空気。小動物が飛び跳ねる土や草を蹴る音、小鳥の鳴き声、風の囁き。花が咲く時のポンッという軽い音。平和な空気の中、異様なほど子供は周囲を見渡していた。
小柄な子供は真紅の髪を後ろに束ねたエリューをおどおどと見上げている。
エリューはそんな子供ににっこりと笑いかけた。
その笑みに子供は声もなく硬直する。
「お誕生日おめでとうリューズ。十歳だね。さぁ、頑張って夕食までには帰ってくるんだよ。君の好物を作っておいてあげるからね。」
エリューは軽く子供を抱き締めると、下に降ろし、ぽんっとその背を押した。
子供の目の前に拡がる風景は大地の亀裂。
随分、下の方に水の流れる音が微かに聞こえる。
子供は足元に地面がないのと、落ちてゆく感覚に飛ぶような錯覚が交錯する。
「エリューの鬼。」
ボツっと呟いた子供の声に返事のように幾つかの石が降り、その中の幾つかが子供の頭に当った。
子供は失う意識の片隅に遠く水音を聞いたような気がしていた。
「魔王に滅ぼされた龍の国があった。 龍の王様の妻となりし人は、聖なる風神殿の巫女姫、麗しの黄金姫。 龍の王様は神殿に無理を言い、美しき風の黄金姫をお后にしました。 そして、数年後、かの『刻嘆の魔王ゾルゾバ』に国を攻められ、その国を滅ぼしてしまいました。 龍の王様とそのお后様の行方はわからずじまい。その国は滅びし後、深き森に覆い隠され、その場は今やわからない……。しっかぁし、 ……あん? 寝たのか。おやすみシェリューズ。」
養父の手を感じた気がしてシェリューズは目を開けた。
真っ暗な闇の中、シェリューズは一人だった。手に触れる周囲の感触は湿り気のある岩。少し力を込めると岩はボロボロと崩れた。
「エリューのバカ。……どのくらい、気を失ってたのかな?」
こだまする自分の声にシェリューズは眉をひそめる。
いつもなら多少の明りをはじめ、ある程度の環境が提供されているというのに、今回はかなり厳しい。
シェリューズは溜息を吐いて、養父の言葉を思い起こす。
『夕食までには帰ってこい。』
何時の。とは言っていない。今日の夕食でもなければ一年後の夕食でもない。
一息ついて考えを軽くまとめたシェリューズは、べったりと濡れた服を軽く絞り、暗闇に馴れてきた目であらためて周囲を見回した。
どう見ても自然の洞窟に思える場所。シェリューズはいつもとの差異に不思議そうに首を傾げた。
下を見れば古い足跡は幾つかあるように思える。
つい最近まで人の出入りがあったことを示している印だ。
今までにあったことがないことである。
「エリュー。今回は少し、手抜いたのかな?」
エリューが放り込む先はいつも、魔物はいても人のいないエリューがどうやってか自作した迷宮だ。
ある程度、先に行けば武器や薬、食料などの迷宮を抜けるのにどうしても必要な最低限の道具が用意されている。
それを思い出し、シェリューズはエリューがいつもいそいそと忙しそうにしていたのを思い出す。
「エリューって、もしかして暇だった?」
呟いてから周囲を見回す。人のいた残り香のような存在感が残っている。
暇を飽かして作り上げられたと思われる修業の場に、人の気配が感じられる場所は今までにはなかった。
シェリューズはもう一度辺りを見回し、足跡に添って歩くことを決め、その場に軽く印を刻み、歩き出した。
夕食の時間までには戻らなくてはいけない。
いったいどのくらい歩いたのか、床についている足跡がどんどん増え、新しくなっていることにシェリューズは疑問が溢れてくるのを抑えることができなくなってきた。
思い当たる嫌な感じにシェリューズは否定しようと首を横に振る。
「大丈夫。今回はエリューも今までと違う手間をちょっとかけただけ。ここがエリューが準備していた場所と違うなんて考えすぎに決まってる。」
まだ軽く湿っている服が気持ち悪く、考え事を嫌な方向へと導く。
自分に言い聞かすように呟いた言葉も逆に不安を与える。
軽く息を吐いた時、視界の端に薄い明りが入ってきた。
シェリューズはその明りが自然の光ではなく、ランプや松明などの火であることが判別できた。
その瞬間、疑問や不安は消し飛び、現状把握へと精神を集中する。
作られた明り。エリューの迷宮であればそれは罠。
シェリューズは自分がその罠に引っ掛かった回数を指折り数える。
シェリューズは深呼吸をすると、できるだけ自分の気配を周囲に同化させた。
足音を立てぬように一歩一歩気をつけて進む。
研ぎ澄まされた感覚に届く、すすり泣くような子供の声。
それは、シェリューズの嫌な考えを肯定してるかのようで嫌だった。
それとも警告なのだろうか?
明りの洩れる場所に近付き、隙間からそっと覗いたシェリューズの得た情報は、猿轡をされ、縛られ壁際に転がされている二人の子供と、その中央で松明を囲む剣を持った三人の薄汚れた男の姿。
その先に道が見える。
男の中の一人の姿にシェリューズは目を瞬いて頭を下げた。
シェリューズはそっと自分の手を見る。
何かの影とだぶってなど見えはしない。
「……魔物? ……でも、他の二人は人間……?」
ぽつんと呟いたと同時に目の前に鈍い音と共に剣が突き立てられ、シェリューズはゆっくり顔を上げた。
人間の方の男と目が合う。
「運が悪かったな。こんなとこにいる方が悪いんだぜ。」
隻眼の男だった。シェリューズを見下ろし、勝ち誇った嫌な笑みを男はつくった。
魔物の仲間。今は魔王のいる時代。魔物は敵。捕らえられているというのなら助けたい。そういう衝動にシェリューズは駆られる。
闇。それは打ち払うべきもの。
シェリューズはにっこり笑い返し、突き立てられた剣を掌で力一杯押し叩く。
「なっ!?」
折れた手応えにシェリューズは何が起ったのか解っていない男の横をすり抜け、灯りの中へと走った。
シェリューズはひとつの確信を持った。此所はエリューの用意した迷宮では有り得ないということを。剣はたやすく折れた。見かけは折れた風も何もないが力を込めて振り降ろせば、誰が見ても解るようになるだろう。彼は剣が折れたという事に気がつかなかった。
虚を突かれている人間の男の握る剣をシェリューズは蹴り、そのまま壁際で縛られている子供達の方へと駆け寄る。
相手が人間でないことに気がついた。そして、片方の子供は自分で自分を縛っていた縄を抜けていた。
「うしろっ!」
シェリューズと同じ年頃の獣人の子供の声にシェリューズは二・三歩横に移動する。
さっき、シェリューズが剣を蹴った男が振るった剣が掠めた。
自力で縄から抜けていた獣人の子供は妖精と思われる少年の縄と猿轡をはずす。
自由を得た妖精族の少年はその大きな瞳に涙を溜ながら三人の男達を睨む。ただ、少年は睨み返され、獣人の少年に泣きついた。
「ルィナーナぁ! 苛められるのぉ。」
近付いてきていた男達がその声に驚いて一歩、後退したのを獣人の少年は見逃してはいなかった。
シェリューズもまた少々呆然と二人の少年の様子に行動を止めてしまう。
獣人の少年、ルィナーナは隙を見せた魔物の足を強く蹴りつけた。
「カティン! こいつを狙え!」
蹴った男から素早く飛び避け、ルィナーナは別の男の手首を肘で打つ。
それはシェリューズが剣を折った男だった。彼はまだ自分の剣が壊されていることに気がついていない。
ルィナーナは本当に素早く男から剣を奪い取った。
しかし、ルィナーナにはその大きな剣は重過ぎるのか、足元が覚束ない。
シェリューズは急いでルィナーナの側へ行き、剣を取り上げた。
「ボクがやる。」
紅い、赤い血は簡単に舞った。
剣を取り返そうと襲いかかってきた隻眼の男は、信じられないと言わんばかりの瞳で崩れ落ちていく。
シェリューズの軽くふるった剣は、簡単に男の命を切り裂いた。
紙を切る感覚で斬れたものをシェリューズは見た。何の思いを抱くことなく。
男の身体に突き立った、刃途中で折れた剣。
『雷撃』
はじめて、人を、魔物ではなく人間を斬り殺し、他を見る余裕も、人を殺しながら何も感じることができないという自分に、動揺していたシェリューズにとっては、あまりに不意に聞こえた妖精の少年、カティンの術を紡ぐ声。
カティンの紡いだその呪文は洞窟内に雷を呼んだ。
雷がカティンを除き、無差別に降注ぐ。
シェリューズはあまりに唐突なできごとに、展開についてゆくことも、目を閉ざすこともできず、硬直した。
視界が青白い光で覆い隠される。
感じたのは死の恐怖。
身体が痺れた感覚で、雷が当ったのだと気がつく。
焦げた匂い。肉の焦げた匂いが鼻をついた。
身体が少し熱い。
シェリューズは徐々に戻ってきた視界に映ったものに、軽い吐き気を覚えた。
焼け焦げ、今にも崩れるのではないかと思わせる洞窟の壁。黒々と焼け焦げた死体。黒い影だけを残している血の跡。辺りに充満する肉の匂い。
口元を抑えた時、手に感じたぬるりとした血の感触。
雷の衝撃で裂けたらしい額の傷口にシェリューズは手を触れた。
感じたことのない痛みがはしる。
「いっ!」
痛みの所為で先は続けられなかった。
「ごめん。大丈夫?」
不安そうなカティンの声の後、バンッと何かを叩く音がした。
「いったぁーい! 酷いよぉ。ルィナーナぁ!」
「お前が悪い。自分の使う魔法ぐらいちゃんと操れよ。」
ルィナーナに叩かれたらしいカティンは、不満そうにぶつぶつ小さい声で何かを言っていた。
「ごめんなさい。痛かったよね?」
カティンはシェリューズにもう一度謝った。
「よく、生きてるよな。」
ポツッと洩らされたルィナーナの言葉に、カティンの目が潤む。
「ごめんなさぁああい。ごめんなさぁあああい。死んじゃったかもしれなかったんだよね! ごめんなさぁああい! 許してもらえるとは思わないけど、ごめんなさいっ!」
動揺し、ボロボロ泣きながら謝るカティンを見てるとシェリューズはどんどん自分が悪いことをしているような気持ちになってきて、気がついた時には言っていた。
「大丈夫。そんなに痛くないから。だから、泣かないでよ。怪我はない?」
実際のところ身体を実際傷つけ、出血するという事がはじめてなシェリューズにとってその傷はかなりの激痛を与えてきていた。それでもシェリューズは無理に笑って見せた。
カティンは服の袖で目元をごしごし擦りながら頷く。
「えっと、ボクはシェリューズ。君達、ここの出口、知ってる?」
ルィナーナは頭をコリコリと掻いて頷いた。
「その階段を昇ればすぐ、アキの森の泉の側に出れるんだ。」
ルィナーナの言葉にシェリューズは目を瞬く。
「アキの森ってフィレン自治領の向こうの?」
きょとんとしたカティンがシェリューズの言葉に訂正を入れた。
「フィレン自治領の手前の、だよ。」
「ボク、帰れるかな。一応、カドア領からは出たことなかったのに……」
シェリューズの言葉にその場は沈黙に支配された。
その沈黙を破ったのはカティン。
「……ルィナーナ。カドア領って、どこ?」
ルィナーナは泉の水でシェリューズの傷を洗ってくれ、カティンが採ってきた薬草を既に出血はなくなっていたが念のため。とつけてくれた。
その薬草はよくしみるものでシェリューズはより痛みを堪えるということを学んだ。
「……カドア領っていうのは、フィレン自治領の北に隣接してる領地だよ。カドア将軍が支配している。」
ルィナーナの説明の言葉にカティンはいちいち頷く。
カティンの仕草をちらりとルィナーナは見、シェリューズに視線を移す。
「声、出した方が気が紛れると思うけど?」
呆れているらしいルィナーナの声にシェリューズは笑ってごまかし、適当と思われる単語をつないだ。
「そう?」
考えずに言った風にしか思えないシェリューズの言葉にルィナーナは重々しく頷いた。
「そういうもんだよ。そんなことも知らないなんて、変な奴。」
彼のバカにした仕草にシェリューズはちょっとむっとしてそっぽを向く。
向いた視線の先にいたカティンが戸惑っておろおろしているのにシェリューズは気が抜けていく。
「カティン。ボクって変かな?」
思いっきり頷いた後、シェリューズとルィナーナの視線に気がついたらしく、慌てて首を横に振るカティンにシェリューズは微笑ましさを覚えた。嫌いになれない相手だと感じたのだ。
淡い緑の髪の間にかいま見える金のサークレット。先の尖った長い耳、鮮やかな緑の瞳。これだけなら典型的な妖精のうちに入る。
落ち着いてあらためて見たカティンは妖精にしても変った種族に見えた。
違うのは耳。耳の尖った部分で三角を描き、そこだけが真紅なのだ。
見ていることに気がついたのか、カティンは笑った。
「なぁに、なぁに。ぼく、見てるの?」
答えれず、沈黙しているシェリューズにカティンの嬉しそうな笑みが濃くなる。
「ね、ぼくのこと、ちゃあんと見える?」
意味が解らず、ただ頷くシェリューズにカティンは本当に嬉しそうに手を叩く。
「ぼくはね、幻始妖精の末裔。見える人っていうのは限られてるんだ。例えば精霊使いとか、一部神官とか、同じ妖精、精霊種の血をひいてる人とか、始まりの種族の血をひいてる人とか。あと、子供とか。子供はね、無条件に幻始妖精の姿を見ることができるんだ。ただ、ただ…………。」
「カティンは出来損ないの落ちこぼれだからな。相当人生曲り腐ってますって、大人以外にはたいてい見られちまう。んで、子供にも見えねー奴はいるしな。」
ルィナーナの付属したひどい言葉は否定できないものらしく、カティンは恨めしげにルィナーナを見上げる。
「ルィナーナのいぢわる。」
拗ねているカティンの口調にルィナーナは空を仰ぐ。
「はっ! いい年して年下の言葉に拗ねてるんじゃねーよ。」
「子供らしくなぁーい。」
カティンの言葉に動じることなく、ルィナーナは欠伸をひとつした。
「お前がそうだから、一年も付き合えばこうなる。」
「子供らしくって、カティンはともかくえっと、リナーナは幾つなの?」
「ルィナーナ。もうじき九歳だよ。似たりよったりの年だろ? シェリューズも。」
発音の訂正を入れつつルィナーナは伸びをする。
「るいなーな。」
進展の見えそうにないシェリューズの発音にルィナーナはもう一度伸びをした。
「ナーナでいいよ。シェリューズ。」
「よかった。ボクもリューズでいいよ。ナーナ。言っとくけど、一応今日、イヤ、昨日かな? でもう、十歳になったんだよ。」
どこか得意気なその言葉を聞いたカティンが、軽く首を傾げてから手を叩いた。
「おめでとう。で、そんなハレの日になんで、一人で遠出してるの?」
子供達の中に気まずい沈黙が流れる。
「カティン。リューズに謝っとけ。」
ルィナーナの言葉にカティンはきょとんとしながらも頭を下げた。
「ごめんなさい。シェ・リューズ。好きで誕生日にこんな状況でいる訳がないよね。気がつかなくって、ぼく……。」
泣き出しそうなカティンの様子にシェリューズは戸惑う。
ルィナーナは呆れた表情で二人の様子、カティンのいつもの仕草に騙されつつあるシェリューズの様子を眺めていた。
ティンカと名乗ったカティンの妹はフィレン公爵領からカドア領にいたる道のりをシェリューズに説明した。
カティン達の友人でリッディという人が、あまりにややこしい道順説明を受けているシェリューズに途中まで付き合ってくれるとその肩を安心させるように叩いた。
リッディは蜂蜜色の髪と鮮やかな緑の瞳をしていて、人間らしさのない人形か精霊かを思い浮べさせる整った美貌の主。
ただ、彼の持つ雰囲気は優しく穏やか。
その優しげで、かつ頼りがいのありそうな彼の申し出を受けたシェリューズは彼に幾つかの疑問を問いかけた。
「リッディは妖精か精霊なの?」
シェリューズの疑問に彼は笑った。
「冗談。違うよ。『ハーフ』ではあるが、その片親が妖精や精霊だっていう話は聞かないね。君と同じで始まりの種族の血筋ではあるようだけどね。」
リッディの言葉にシェリューズは慌てて彼を見上げた。
「ボクが、始まりの種族の血筋?」
リッディは肩をすくめ、シェリューズの頭を撫でる。
「保護者が何も言わないって言うんならそれを尊重すべきだろう。私も沈黙を守ろう。」
彼はそう言ったきり、沈黙をただ、守った。どんな質問に対しても。
夕暮れ近い時間、シェリューズは息を切らせながら、雑木林に囲まれた丘の上の家へと急いでいた。
シェリューズは家の前で急く心と呼吸を落ち着かせ、掃除の行き届いた白塗りの丈夫な扉へと手を伸ばし、勢いよく開け放つ。
愚痴を言い放つために口を開くとき、後のことを思い、癖のように目を閉じる。
「エリュー! ひどいよぉっ! あんな所に放り出しておいて夕食までに戻って来いなんてさっ! 魔物もいたんだからねっ! せめて剣ぐらい持たせてよ! 死んじゃうかと思ったじゃないか!」
言いたいことを言い切り、二、三発殴られる事を覚悟しながら……。
暖かな室内に拡がる夕食の香りにシェリューズは息を詰めて俯いていた。
……………………。
沈黙の時がしばし流れる。
そっ、と目を開けたシェリューズの目に映った部屋には暖かに燃える暖炉、湯気を立てる夕食。そして華奢な花瓶に飾られてる花は朝のものとは異なっていた。
「エ、エリュー? 何処なのっ! エリュー! 意地悪しないで出て来てよぉ、ねぇ、エリュー、父さんっ!」
シェリューズは辺りのどんな小さな変化も見逃すまいと必死に視線を這い巡らせた。
だが、何処も別段、普段と変わりなく、置き手紙の一つすらない。
ただ、ひとつの、いや一人のものを除いては増えも減りもしてはいない。
そして、シェリューズは養父、エリューの姿を見つけることは出来なかった。
「とうさんっ!!!」
昼下がり、雑木林をのぞむ、あまり掃除の行き届いていない裏庭。
雑木林の向こうから誰かが走ってくる。
シェリューズはそれを目の端で確認する。
いきなり抱きつきにかかった彼をシェリューズは馴れた調子で避ける、がバランスを崩してしまい、幼馴染みである少年を下敷にし、座り込んでしまった。
下敷にされた少年は潰されたカエルのような呻きを洩らす。
「……ラーバ、ラーバが悪いんだよ。ほら、バランス崩しちゃったじゃないか。」
シェリューズは溜息を軽く洩らし、散らかった辺りを見回す。ほうきが転がり、せっかく集めた落葉や枯れ枝が散らばっている。
呆れきっているシェリューズの口調にラーバは少し居心地悪そうに謝る。
「悪かったよ。怪我はないな。ところでまた、聞いていいか? それと、どいてくれ。」
ラーバの言葉にシェリューズは首を傾げ、立ち上がる。
「うん。なに?」
「うん……」
立ち上がりながら言い難そうにしているラーバに、シェリューズはきょとんと首を傾げた。
「あのさ、エリューさんはまだ?」
もごもごと口篭りつつ、ラーバは言った。
シェリューズはその言葉にしゅんっと哀しそうに俯いた。
彼の養父は一月前、何の前置きもなく出かけてしまってから連絡一つなかった。
「そっか、……なぁ、やっぱり家にこないか? うちの母さんも心配してるし、さ。」
ラーバの言葉にシェリューズは首を横に振る。
裏庭の雑木林の向こう側に、シェリューズ達同様、人里離れて暮らすラーバ達ファリア家とエリュー、シェリューズの家は仲がいい。
彼らは何かというと男所帯である二人に親切だった。
「エリュー、きっと、じき帰ってくるから。勝手に外泊したり、家にいなかったりしたら留守番も出来ないのかって言われそうだから。それに、いつものことだし。いなくなるのって。」
シェリューズは力なく笑みを浮かべた。
いつものこと、だけれども今までは1・2週間で戻ってくるのが常だった。
ラーバはその言葉にかすかに引きつりながらシェリューズの肩を叩いた。
「言わないと思うぞ。連絡なしで一月ほど帰ってきてないんだろう? エリューさん。それに、ちゃんと待ってたんだろ? 待ってるんだろう? それに今まで二週間以上って事はなかったじゃないか。な、リューズ。」
なだめるように言うラーバにこっくり頷く。
エリューが2・3週間も出掛けるようになったのはつい最近のことで、はじめのうちはホンの2・3日出かけている程度だった。
「それでもね、言うよ、エリューは。我が侭だもん。大人げないし、ボクの十歳の誕生日には夕食までに戻ってこいと言いつつ、帰ったらまた、いないし。」
鬱憤が溜まっていたのか、不意にシェリューズは拳をつくり、ぶつぶつと続ける。
多少の予感はあったのだ。帰ったらいないんじゃないかっていう嫌な予感は。でも、期待もしていた。家に帰ったらいつものように温かな食事と共に笑顔で迎えてくれる養父の姿を。
「二重人格だし、人を崖から突き落したりするし。すぐ食事抜きにするし、妙な性格で自分のことはろくすっぽ話さない上にボク自身のことすら一言も洩らしてくれないし、そのくせ変に優しい時もあるし、乱暴者のくせに外面信じられないくらい、いいし、すっごく気紛れだし、ヤなとこ多いけど、ごはんおいしいし、好きだから、怒られんのも呆れられるのもヤだから、まつの。だからエリュー、待つの。」
シェリューズの言葉は感情の揺らぎを現すかのように揺らぐ。
ラーバは身長差をごまかす為に、軽くしゃがんでシェリューズの頭を軽く叩く。
「泣くなって、リューズ。わかったから。帰ってくるさ、エリューさん。でもさ、そんな人だっけ? エリューさんって。」
「ラーバのばかっ! 泣いてなんかないっ! 大っ嫌いだっ!」
シェリューズはそう叫ぶと自宅へ向けて駆け出した。
ラーバは呆然と駆けてゆくシェリューズを眺め、なにか、シェリューズの気に障ることを言ったろうかと考える。
泣いてると勘違いしたことなのか、それともエリューさんのことをあんな風に言った所為だろうか?
ラーバのもつエリューのイメージは育ちの良さか、世間一般常識から大きく逸れてこそいるが優しく綺麗な人であるというものでしかない。
それでも何か間違えたことを言ってしまったらしいと頭を叩いているラーバがいた。
家に帰りついたシェリューズは扉を乱暴に閉めた。
乱暴に閉められた扉は軋み、震えている。
いるべき人のいない暗く寒い部屋。
暖炉には火も入っていない。
「エリューの、とうさんのばかぁ……。」
シェリューズは扉にすがるようにへたり込んで泣きはじめた。
ほうきを置き忘れていることは完全に記憶から抜け落ちていた。
シェリューズのことを好きで育てているわけではない。といつも公言していた養父にとうとう見捨てられたかも知れないという、得も言えぬ悲しさが辛さが、シェリューズを襲っていた。そして、シェリューズのその思いに対抗する養父への甘い信頼はガラス細工のように脆いものに過ぎなかった。
それでも彼の生きる世界は、まだ平和だった。
そう、この時はまだ魔王軍の存在は、そこらの道端で世間話にのぼる程度の話。対岸の火事に過ぎなかったのだ。




