12.同じ風景
吉祥寺には吉祥寺という寺はない。
最初はてっきりそんな名前のお寺にちなんでついた地名かと思っていたら、違ったらしい。
*
わたしは吉祥寺では公園側の南エリアに行くことが多かったけれど、岸田も特定の買い物がない場合は南をうろついていることが多かった。
駅から動物園やジブリ美術館の方に向かう吉祥寺通り周辺は比較的旧いビルが多く、アウトドア関係のお店や自然派のお店、教会や絨毯屋などが並び、落ち着いた雰囲気だ。
街は大学が付近にあれば文化的な雰囲気に発展するし、ファミリー層向けの巨大なマンションができたりすれば、また少しだけ変わる。吉祥寺の南側はきっと、昔からある大きな公園の影響を受けて発展している。
親に聞いたことがあるけれど、昔は高架ではなく地上を走る電車と開かずの踏切が街の南北を分断していたというので、それが人の流れをもう少しくっきりと分けて、北と南の雰囲気が違う要因になったのかもしれない。
北は近代的な商業施設と、ハモニカ横丁のような昔からあるものが混在して、賑やかで華やかな雰囲気だ。北は都市生活、南は自然の生活。両方楽しめるのがいいところなのに、人間が得意ではない岸田は南側にいることが多い。
岸田がわたしをキャリーケースに入れて歩いていると、すぐ近くの歩道を、重そうな荷物を持った老婦人が歩いていた。
足が少し悪いのかもしれない。岸田が彼女をちらちらと見ていた。この視線の運び方。わたしも、電車で席を譲りたいと思った時、アクションに至るまでにこんな挙動不審な感じになることがある。なんとなく察する。
岸田が思い切ったようにそちらに向かい、ひっくり返ったような声を出した。
「おばあさん、荷物、貸しなよ」
お、思っていたのと違う感じ。妙に明るい調子で声をかけた。何度かためらっている表情の末だったので、おそらく彼なりに気軽な感じの演出をチョイスしたのだろう。考えすぎた結果、あえて敬語をやめてみたケース。わたしにはなんとなくわかる。
「いーえッ! 結構です!」
しかし、それが仇になったかもしれない。
老婦人は明らかに警戒した様子で、荷物をぎゅっと抱くようにして去っていった。
寂しげに背を見送る岸田。
岸田はスーツなど着ていると特にやり手の営業マンみたいに見える。金を稼いでいそうな感じというか、まぁ、よくいえば仕事ができない感じではない。
しかし、その隙のない感じというか、口のうまそうな悪そうな雰囲気は、必ずしも初対面の人の信頼を得られるものではない。
岸田は実際のところ口下手に近いが、ぱっと見そうは見えない。口が上手そうな人は警戒されやすい。
仕方ないよ、岸田。今のは結構怪しかった。
井の頭公園に入ると、外に出してもらえた。頭をぶるぶると振って、張り切って背を伸ばす。
しばらく歩くと公園のベンチで先ほどの老婦人が、同じ年頃の女性と話しているのが見えた。友達なのだろう、かなり忌憚ない様子で楽しそうにしている。
少し近寄って様子を見てみた。婦人がわたしに気が付いて頬を綻ばせた。どうやら猫が嫌いな人ではなさそう。
さらに足元に近寄って「にゃあ」と鳴くと、嬉しそうに撫でてくれた。
「あら、さっきの……」
後から追いかけて現れた岸田を見て一瞬顔を曇らせた婦人だったけれど、今はひとりではないせいか、先ほどのようにあからさまな警戒は見られなかった。
わたしが岸田のところに戻って一声鳴くと、彼は抱き上げた。
「あら、あなたの猫ちゃん?」
「はい……」
「そう。ふふ……名前は?」
「チキンカツです」
「……」
老婦人ふたりは一瞬見つめ合い言葉を止めたけれど、すぐに「可愛いわねえ」などと言ってわたしに視線を移した。
「私さっき、吉祥寺に行ってきたのよ」
「え?」
岸田と一緒に老婦人を見つめる。
ここが、吉祥寺だと思うけれど。
彼女はふふっと笑って手を横に振った。
「あのね、ここじゃなくて、お寺。吉祥寺っていう名前のお寺」
「え、どこにあるんですか? 近所?」
「文京区の駒込にあるの」
「駒込」
「あのね、この辺は吉祥寺っていうお寺があるから、吉祥寺なんじゃなくて、昔、吉祥寺周辺に住んでいた人たちが移り住んできたから吉祥寺なんですって。そうしたら、本物の吉祥寺、どこにあるか気になるじゃない?」
「え、そうですか?」
岸田はそんなに気にならなかったらしい。
しかし、老婦人らはその返答を気にせず、ふたりで「気になるわよねえー!」「なるなるー」などと言って笑っている。
吉祥寺は、都心から少し離れている場所にありながら、突発的にお洒落に発展している少し特異な街だ。
昔移り住んできた人たちが、都会的な感性であれば、場所にも影響するだろう。街は、人が作る。
人の話を傍で聞きながらそんなことをぼんやり思う、のどかな午後。
「俺、こんな風に地元の人としゃべったの初めてで……」
「ええ、まぁ、あなたくらいの人は私達みたいな年代とおしゃべりしたくなんてないでしょう」
ご婦人はカラカラと屈託なく笑って言う。
道で会った時とは全然印象が違う。凄く柔らかい。
同じ人でも、状況が変われば見せる顔はこんなにも変わるんだと、岸田を横目にそう思った。
当の岸田は先程とは形勢逆転したかのように、少し萎縮した感じでモゴモゴしていたけれど、ほんの少し思いきったように口を開く。
「いえ……そんなことないです。会社以外で、人との関わりがあまりないんで……立場や損得の絡まない会話みたいのが……新鮮です」
似合わないことをボソボソ声で言う。あまりに似合わないから、本当にそう思っているのがわかる。
それが本当なら今の岸田は社交的ではないし、そのスキルもないけれど、人とまったく話したくないわけではないという、だいぶ面倒な奴のようだ。
「あらじゃあその子に感謝ねー」
「え」
「だって、あたし、さっきあなたのこと、詐欺師か何かだと思ったもの!! 荷物を、って言ってばーっともってかれちゃうかと!」
それは詐欺師じゃなくてひったくりだ。どちらにせよ、真っ当な若者の人助けには感じられなかったのだろうけど。
悪そうな顔をしていたから詐欺師と思って、動物を連れていたからいい人と思う。単純だと思うけれど、道ですれ違う人なんて直感で判断するしかない。
わたしも、ずっと岸田のことは、ただの邪悪な猫使いとしか思ってなかった。
彼は実際性格はよくないし、高校の頃もよくなかったんだろう。でも、思っていたのとは結構違った。
岸田は嫌な奴だけれど、それはわたしが思っていた嫌さではなかった。
それがわかるようになったのは、岸田とわたしがお互い少し大人になったから。それからわたしが猫として、彼と出会えたから。
少し退屈になってきたので、移動することにした。振り向くと岸田も意を汲んでちゃんとついてくる。感心な飼い主だ。
冬の痛い寒さが陽射しで和らいでいる緑の中をひとりと一匹で歩く。
お互い何を考えているのかなんて、わからないけれど、そんなのどうでもいいと思える。
太い木製の柵に手をかけた岸田が公園の大きな池を覗き込む。その表情はとても穏やかだ。
水面に反射した光が彼の頬を照らして、わたしはその一瞬の顔を、記憶に焼き付ける。
この瞬間の感覚や風景が、二度と見られないものかもしれないから。
岸田は足元のわたしを抱き上げて同じ高さで風景を見せてくれた。
池はきらきらしていて、空の青を映している。人の彼と、猫のわたしは、今だけ同じものを見ている。
このまま、時間が止まってしまってもいいかもしれない。
時間は止まらない。
でも今は時間のことを忘れていた。ここがどこだとか、自分が誰だとか、そんな全部を忘れてふたりだけだった。
猫になったことで、今後、人間に戻った時のわたしの人生にどれだけの影響が出るのかはわからない。
でも、わたしはこうやって彼を知れたことが、何ものにも代えがたいものに感じられる。




