最後
サブタイトルは「最後」ですが、完結は明日になります。
最後までよろしくお付き合いくださいませ。
「っ⁉︎ 見るなっつっただろうが!」
走り出そうとするウェーナーの外套を掴んで、ミーナは立ち止まった。
「フリードだ」
三階の露台の手摺に体重をかけて、ふたりのほうを真っ直ぐ見ている。黒い巻き毛がふわふわと風になびいて気持ちよさそうだ。
あの部屋は大公世子の執務室だっただろうか。外から見るのは初めてだからよく分からない。
露台に他の人影は見当たらない。彼ひとりだけだ。
ミーナが振り仰いで見なくたって、フリードはこそこそと逃げ出そうとしているふたりに最初から気づいていた。
なのに、焦ったり人を呼ぼうとしたりする素振りを見せず、ただこちらを見ているだけだ。
ミーナがそのことに気づいたことに気づくと、彼は表情を変えた。
「だからそう言って」
「笑ってるよ、フリード」
フリードはいつも微笑を浮かべているが、遠目に見えるその笑顔はひどく満足気なものだった。
そして彼はその表情のまま、南の方向を指さした。
「……歩け」
ウェーナーは一度も主君の姿を振り返ることはしなかった。
彼はミーナの手を強引に引いて、ただ前だけを見て歩き続けた。
あれだけ遥か遠くに感じられた外の世界の空気は、大公世子宮で吸っていたものよりもずっと悪いものだった。
そうだ。このにおいだ。思い出した。ミーナはこのにおいを嗅いで育った。
人々が生活するにおい。
美味しそうな食べ物の匂いだけじゃない。汚水のにおいも近い。通りによっては、鼻がひん曲がりそうなにおいが漂うところもある。
大公世子宮からは見えない、人々が寄り集まって暮らすにおい。
「くさいな」
笑いながら鼻をつまむミーナを、ウェーナーが見下ろす。
「何を今更」
「だよね。懐かしいなと思って」
これからどうしよう。
今夜はどこで寝ればいいのだろう。
そんなことも考えないまま、飛び出して来てしまった。貯め込んだ金目の物は抱えてきたけれど、一生暮らせるほどじゃない。
「このまま野垂れ死にかなあ」
それは嫌だな。でも女ひとりで、身を持ち崩さずに生きていけるほど世の中は優しくない。
「行くところがないなら、うちに来るか?」
「うち? ウェーナーの家ってどこ?」
大公国に仕える騎士が大公世子の命令に背いたら、それはただの家無し職無し男だ。
彼は、ミーナのために騎士の身分を捨てたのだ。誰よりも騎士らしく生きるために。
「実家。片田舎の領地だけどな。親父は一応男爵様だ。俺はその四男坊」
貴族の家の出身。だけど継ぐものは無いに等しい、ほぼ平民、という意味か。
「ふうん?」
貴族社会についての知識を詰め込まれた食堂の娘は、無感動な相槌を打った。
「ちょうどいいだろ」
「何が?」
「食堂の娘が玉の輿を夢見る相手」
ウェーナーはにやりとするでもなく、いつも通りの無表情のまま、そんな口説き文句を寄越してきた。
違うか。口説かれたのではなく、いつもどおり呆れているだけだ。
「えー?」
「不満か」
「夢を、見させてくれるの?」
ずっと、ウェーナーはフリードの配下だった。
時々思い出したように泣くミーナの頭を撫でてくれるだけ。ずっとミーナの側で、護衛という名の監視をしていたウェーナー。
たまに優しくしてくれるから、連れて逃げてよ、と訴えたこともある。
無理だ、できない、と何度も言われた。
大公世子宮に連れて来られたとき、ミーナは十二歳だった。ウェーナーは彼女よりもずっと大人に見えていたが、まだ十六歳の見習い騎士だったのだ。
彼は、あるじの命令に是、と応える以外の選択肢がなかった。
優秀な大公世子様。まだ十八歳だったフリードの、その評判は伊達ではなかった。
なんで、どうして、と何度も思ったし言ったこともある。だけど今なら分かる。
たとえミーナを憐れに思っても、ウェーナーにはどうすることもできなかったのだ。
それなのに、ミーナを助けるために来てくれた。失敗したら、騎士の身分どころか命まで危うい状況なのに。
少しくらい、今日くらいは甘い言葉を聞かせてくれないかな。
彼はミーナのせいですべてを失った。望んでそうしたのだと言ってくれるなら、ミーナは自分が持っているすべてを彼にあげると言ってあげられる。
「どうせおまえは勝手に見るだろ」
やっぱり言ってくれない。
「……ふんだ」
見させてやる。くらい言ってくれてもいいのに。減るもんじゃなし。
頬を膨らませるミーナをしらっとした目で見下ろして、ウェーナーはつぶやくように言った。
「この四年間のことは全部忘れちまえ。フリードは魔女に囁かれたんだ」
祖父は、優しい兄を害した。
兄を慕う少女を愛せと無理難題を押し付けてきた。
生さぬ仲の息子に情が湧いてしまった母を殺した。
あれは祖父ではない。敵だ。
自分が破滅することが、奴への復讐になる。
すべてを、元通りにできる。
「忘れないよ。あんたが言ったんでしょ。ローラさんも。自分で見て聞いて考えろ。いっぱい勉強したんだから」
彼らの言うことを聞いて、ちゃんと考えたから、今日こうして身の危険から逃げることができた。
ただフリードのことだけを見てぼんやり四年間を過ごしていたら、ウェーナーの手を取って逃げることなんてできなかった。
フリードは、幼い愚かなミーナに求婚した彼は、ミーナが気づかなければ優しい婚約者でしかなかったから。
家族を恋しがって、窮屈な生活に嫌気が差して、それ以外は幸せな四年間だった。
勉強は難しかったけれど、知識を蓄えられた。
地理を習ったから、旅の計画を立てることができた。外国語も覚えた。おかげで、このまま国外まで逃げることだってできる。
フリードの指示で、こうなるように教育された。
ミーナを騙して連れてきた、必要なときだけ部屋を訪れてきた婚約者。
ミーナの最低でクズ男な、優しい婚約者。
最初から最後まで、フリードはミーナに優しかった。
投稿直前まで思い付かず適当に付けたタイトル「悪女の事情」ですが、改題のタイミングを計っています。
完結後がいいのかな…?
→2025.07.11 【公国の悪い魔女】に改題しました。




