第六話
「本当に、ここ、なのかな……?」
数日前に届いた案内状を頼りに、記されていた番地へとやってきたサクヤは、その店の前で目を丸くした。
それは店と呼ぶよりも、周囲を土塀で囲まれた、立派な門構えの武家屋敷であるからだった。開け放たれた観音開きの門戸の上には、“天禄庵”と彫られた大きな木彫りの看板が掲げられている。
そこは、戦前から数多の要人たちが足を運んだという帝都を代表する料亭であった。
単純に料理を楽しむことから始まり、外聞を憚るような密会から、果ては国家の行く末を左右するような密談まで、様々な目的で利用されてきた第二の議事堂とまで称される名店である。
かつては名のあった武家の上屋敷を店舗として改装した格式高い店構えを見れば、そうした背景を知らないサクヤでもただならぬ高級店であることくらいは理解できた。
「でも……ここよね」
手にした案内状を何度も読み返して、彼女は諦めたように呟いた。大外套の衣嚢に入れっぱなしにしていたせいで、すっかりくしゃくしゃになってしまってはいるが、書かれている文字を読み違えるほどでもない。そこにはただ、昔馴染みと集まって食事でもしようという誘いの言葉とともに、この店の番地が記されているだけだった。
今の帝都で営業している飲食店と言えば、先ほど寄ってきた琥翠堂のような喫茶店か、茶屋だけだ。どこも薄いお茶と、簡単な軽食が品書きにあれば御の字といったところで、すっかりそうした店に集まるものだと思っていたのだから、サクヤが驚くのも無理はなかった。
もう一度、顔を上げて武家屋敷を眺める。
頭の中で帝都の地図を広げた。これでも、記憶力は良い方だ。番地は間違っていないはずだった。書き間違えでなければ。
しかし、威風堂々とした店の佇まいに圧倒されて、敷居を跨ぐ覚悟が固まらない。乗ってきた自転車を門の横に停めるだけでも、謂れの無い罪悪感に駆られていた。
大丈夫。
大丈夫よ。
……大丈夫かな。
心の中で自分を鼓舞してみるが、繰り返すうちにかえって自信がなくなってしまった。
間違っていたらどうしよう。自分がなにか勘違いしているだけで、本当はまったく違う場所だったら、などと悲観的なことばかりが思い浮かんでしまい、門の前で右往左往していると。
「あら。サクヤ? 何をお店の前でうろうろとしているのよ?」
唐突に背後から声が掛かり、サクヤは飛び上がった。
びくりとして振り返った先に居たのは、薄く茶色がかった髪を肩にかかるくらいまで伸ばした、軍服姿の女性だった。
「延槻中尉!!」
ややつり目がちの、気の強そうな彼女の顔を見るなり、サクヤは思わず大声でそう呼んでしまう。延槻中尉と呼ばれた女性は一瞬、きょとんとした表情になった。すぐ、口元に悪戯っぽい笑みが浮かぶ。しまったとサクヤが気付いた時にはもう遅い。
「ふふ。お久しぶりです、木花“連隊長殿”! 延槻コトネ中尉、ただいま到着致しました!」
彼女は張りのある声で名乗りサクヤへ敬礼を送った。背筋を伸ばしたせいで、男性士官用の、濃紺の制服に包まれた女性らしい身体つきがより強調される。
「ああ! ごめん! ごめんなさい、コトネ! 久しぶりだったから、思わず……」
直立不動で敬礼を続けるコトネへ、サクヤは慌てたように謝った。
今日、彼女たちは旧知の間柄として集まっている。それなのに、“中尉”などと階級を付けて呼んでしまえば、二人の間には上官と部下としての関係が成り立ってしまうからだった。
「いえ。構いません。木花連隊長におきましては、お変わりのないご様子で大変嬉しく思います」
発言を取り消そうとするサクヤに、彼女は相変わらず姿勢を正したまま、きびきびとした声で応じる。
「だから、ごめん、ごめんってば。コトネ……」
その、あまりにも部下然とした態度に、遂にサクヤの瞳が潤みだしたところで。コトネは真顔から一転して、笑い出した。
「あはは! 冗談、冗談。ちょっとからかってみただけよ」
「む」
腰を折って笑い転げる彼女に、サクヤは眉根をぐっと寄せる。
「また私で遊んだのね」
子供のように頬を膨らませて抗議する彼女に、ひとしきり笑い終えたコトネはまぁまぁと軽く答えた。
「私で良かったじゃない。アイツらの前で今みたいに尻尾出したら、小一時間は敬礼されるわよ、きっと」
言って、改めてサクヤへと向き直ったコトネは、その頭のてっぺんからつま先まで、確かめるように眺めた。
「まだ着ているのね、それ」
サクヤが小脇に抱えている国防色の大外套に目を留めて、彼女は悲しそうにそう言った。
「うん」
サクヤは頷いた。独白のように続ける。
「なんだか、これを着ていないと落ち着かなくて」
もうここは戦場じゃないのにね、と。逸らされた彼女の横顔に、コトネは案じるような目を向けていた。やがて、気分を切り替えるように明るい声を出す。
「さてと」
胸元から綺麗に折りたたまれた手紙を取り出すと、内容をさっと読み返した彼女は、それから目の前にある武家屋敷へと顔を向けて。
「本当に、ここ?」
サクヤと同じような感想を口にするのだった。




