010
それはサクヤが相霞台練兵場を訪れてから、数日後のことだった。
「ふぅ……ここは涼しくて良いのう」
帝国陸軍参謀本部の一室、参謀総長執務室に据えられた革張りの長椅子へ、我が家にいるかのような遠慮の無さで腰を下ろした禿頭の老人が、懐から取り出した懐紙で額の汗を脱ぎながら息を吐いた。
ほっそりと典雅な面立ちに、凡天のようなふさふさの口髭を蓄えている老人で、髭と同じく純白に染まった髪が丸々と禿げ上がった頭頂部を囲むように残っている。
「近衛総監ともあろうお方が、わざわざこんな場所まで涼みに来たのですかな? 四条宮大将」
その老人の対面に座したこの部屋の主、荒笠マレミツが皮肉そうに口を開いた。彼を睨む瞳には、あからさまな敵愾心が滲んでいる。
「まさか、まさか」
それに老人、四条宮クゲトシは汗を拭った懐紙を、両者の間に置かれた長机の上に放り投げて応じた。老い衰えた体躯を包み隠すように着込んだ、漆黒の陸軍正装の皺を伸ばしながら、薄ら笑いを浮かべて口を開く。
「その程度の事で、栄誉ある陸軍参謀総長閣下の貴重なお時間を取らせるような真似はせんよ」
老いてなお、張りのある丸顔を保っているマレミツに対して、クゲトシの顔面は干した唐辛子のように萎びている。しかし、そこにはマレミツ以上の尊大さが刻まれていた。
見た目だけは対照的な二人の老人はしばし、無言のまま睨み合った。そこへ、誰かが扉を叩く音が響く。
「入れ」
クゲトシに負けじと尊大な態度のまま、マレミツがそれに応じた。
「失礼します」
やってきたのは、御代ソウジだった。彼は部屋にいたクゲトシへ丁寧に腰を折ってから、マレミツへ向き直ると口を開いた。
「お待たせいたしました、荒笠参謀総長閣下。どのような御用件でしょうか?」
「ワシではない」
マレミツは小蠅を払うような仕草をしながら、酷く投げやりに彼へ言った。
「こちらの近衛総監、四条宮大将閣下が、貴官に用があるのだそうだ」
「は。何でありましょうか、四条宮閣下」
近衛がいったい、何の用だ。ソウジは内心に嫌な予感を燻らせつつ、クゲトシへと身体を向けた。
近衛とは帝国の最高統治者たる帝主の身辺警護、およびその居城である帝宮の警備を担当する、帝国における最古参、最精鋭の部隊である。
その兵員は全国の陸軍部隊から特に成績優秀、品性方向な者だけが集められているのだが、近衛は帝主直率の戦力としても位置付けられており、その指揮系統は陸軍から完全に独立したものとなっていた。
近衛司令官は慣例的に、総監と呼ばれる。本来であれば、近衛総監には帝族男子が就くことが習わしなのだが、その資格を持つ者が現在の帝国には残っていないため、特例として七閥の一家である四条宮家の当主、四条宮クゲトシがその地位に充てらえていた。
その近衛総監が、陸軍に何の用だろうか。
粘つく不安を胸に抱きながら頭を下げたソウジへ、クゲトシは値踏みするような視線を向けつつ口を開いた。
「うむ。貴官が、欧州遠征軍の指揮を執ったという御代中将か。噂に聞いている通り、随分と若いようだな。今は、参謀本部次長と帝都守備隊の幕僚長を兼任しておるそうだな?」
「は。若輩ながら、奮闘させていただいております」
ソウジはあくまでも畏まった態度を崩さずに応じた。
「それで、中将。今日、わしがここへ来た理由なのだがな。我が近衛が現在、再建を急いでいることは知っておるかね?」
「はい。伺っております」
ソウジは頷いた。
かつては二個師団の規模を誇っていた近衛だったが、大戦末期に戦局の悪化を理由として、多くの兵員が陸軍に引き抜かれてしまい、今では一個大隊がどうにか、という兵力しか残っていないということは彼も知っていた。
「ならば、話は早かろう」
頷いた彼へ、クゲトシは満足そうな顔を浮かべると言った。
「そのためにな、陸軍からいくらか、兵員を融通してもらいたいのだ」
なるほど。おおよその見当は付いていたが、やはりそういう話か。
薄々感づいていたので驚きこそしなかったが、そうはっきりと告げられたソウジは思わず、呻きそうになった。
本日2話目。




