第四十四話
「おにいちゃん、はやく」
「なんでだよ? たいささんだぞ? えいゆーだぞ?」
しきりにサクヤから離れたがる妹とは正反対に、兄は目の前の英雄に興味津々のようだった。そんな彼へ、少女は困ったような、泣き出しそうな声で言う。
「でも、だって、ちゅーいさんが……たいささんは、わるいひとだって……」
兄に向けられたものであるはずの一言は、少女から怖がられている事実を知って落ち込んでいたサクヤへ止めを刺した。
「えいゆーなのに、わるいひとなのか?」
「わかんないよぅ」
恐らく、未だに英雄とは何たるかなど知る由もない男の子が聞き返すと、遂に少女は涙声を出した。
「だって、ちゅーいさんが、そういってただけだもん……」
先ほどから彼女の言っているちゅーいさんとは、中尉さん、という意味だろうか。
悪い人。悪い人、ね。
兄弟たちのやり取りを、別次元の出来事であるかのように眺めながら。サクヤは自分の思考が急速に冷めきってゆくことを自覚していた。
「たいささんは、わるいひとなの?」
要領を得ない妹からは目を離して、男の子が尋ねた。
「ええと……」
サクヤはそれに答えられない。
そうだと頷ける強さもなければ、違うと首を振る傲慢さも彼女は持っていないから。口元をどうにか微笑みの形に保つだけで精一杯だった。
返答に窮しているサクヤの背後から、幼い兄妹を呼ぶ若い男の声が響いたのはその時だった。
「エイタ! ミツミ! 何をしているんだ、こんなところで?」
思わぬ助け舟にほっと胸を撫でおろしたサクヤの前で男の子、どうやらエイタというらしい、が満面に笑みを浮かべると、大きく手を振った。
「ちゅーいだ!」
背後の人物を呼ぶ、無邪気なエイタの声に、振り向こうとしたサクヤの動きがぴたりと止まった。
まさか、ここでちゅーいさんの登場とは。
大きく嘆息した彼女の横を、幼い兄妹が駆けていった。
「まったく。お前ら、この時間は塾のはずだろ?」
駆けよった二人に、中尉は叱るような声を出した。その口調は年の離れている兄のようだった。
「だって、退屈なんだもん」
「お前なぁ……」
詰まらなそうに答えたエイタに、彼は呆れたように息を吐いていた。
「だって、ケンだって塾には来てないぞ」
「いや、アイツはまぁ……」
男の子が口にした誰かの名前に、言い淀む中尉。そんなやり取りを背中越しに聞きながら、サクヤは静かに立ち上がった。出来ることならば、ひっそりとこの場を離れてしまおう。
そんな彼女の考えは、無邪気なエイタの声にあっさりと打ち砕かれた。
「それより、すごいんだぜ、ちゅーい! ほら、あのひと!」
「うん? ああ、こら。人を指さすんじゃない」
興奮した彼の声に、ようやく中尉はサクヤの存在に気が付いたようだ。またサクヤを指さしたらしいエイタを叱ると、その背中に声を掛ける。
「失礼しました。……新しい方ですか? この子たちが何か、ご迷惑を……」
「ちがうって! ちゅーい! ほら、たいささんだよ!」
口調を礼儀正しいものに切り替えた彼を遮って、エイタが地団太を踏むような声で言った。
「お前は何を……“大佐さん”?」
喚く男の子に呆れながら応じた後で、ふいにその声が怪訝そうに潜められた。
サクヤは全てを諦めたように小さく息を吐いて、振り返った。




