第二十八話
「では、こちらです」
講義録と集めた論文の束を押し込んだ鞄を抱え上げて、先導するように出入り口へと向かう。そこへ、一人の生徒が駆け寄ってきた。
「あ、あの、木花教官!」
ソウジの眉が片方、ぴくりと動いた。サクヤに声を掛けたのは、先ほどの講義で発言していた夏川という生徒だった。
「はい。夏川候補生、なんでしょうか?」
彼に振り向いたサクヤは、小さな微笑みを浮かべながら応じた。
サクヤはたとえ相手が生徒でも、できる限り丁寧な言葉遣いで接する。そうすることで普段、偉そうなことを言っている気恥ずかしから逃れようとしていた。
微笑みを向けられた夏川の頬に、ぽっと朱がさした。あたふたとした様子で口を開く。
「あの、えっと……こ、今回の講義も、大変参考になりました。ありがとうございます!」
「そう。役に立ったのなら、何よりだわ。こちらこそ、ありがとう」
顔を真っ赤にしながら言う夏川へ、サクヤは優しく頷いてみせた。
「え、あ、いや……その」
終始、しどろもどろな夏川少年は、まだサクヤの前でもじもじとしている。そんな彼を不思議そうに見つめながら、サクヤは口を開いた。
「夏川候補生、まだ何か? 急がないと、次の講義に遅れてしまいますよ」
「え……あ! し、失礼しました!」
その言葉に、教場にまだ残っているのが自分とサクヤ、ソウジの三人だけだと気付いた彼は、大慌てで教書の詰まった鞄を抱え込んだ。サクヤへさっと一礼をしてから、その後ろに立っているソウジにも丁寧に頭を下げる。ソウジもまた丁寧に会釈を返した。
頭をあげた夏川少年の自分を見る瞳に、敬意以外の感情が含まれていることはもちろん見逃さなかった。
「微笑ましいな」
言葉とは正反対の感情を顔に浮かべながら、ソウジがぽつりと言った。
「ええ」
それに、去っていく少年の背中を見つめながらサクヤも頷いていた。
「彼、ああして講義終わりに毎回声を掛けてくれるの。成績はそんなに良い方じゃないんだけど……もしかして、私の印象を良くしておけば、考査の時に甘い採点をしてもらえると思っているのかしら?」
「いや、それは……」
だとしたら策士だわ、と呟くサクヤへ、ソウジは訂正の言葉を口にしかけて思いとどまった。この手のことを言葉で言って理解するようなら、サクヤはとっくの昔に理解しているはずだと思ったからだった。
まぁ、哀れな少年がまた一人増えたということか。
そんなことを考えながら、彼はサクヤに生暖かい瞳を向けた。
「なにか?」
その視線に気づいたサクヤが聞き返した。
「いや、何でもない。荷物が重そうだな、持とうか?」
「決行です。士官学校の一教官に過ぎない私が、この程度のことで参謀本部次長閣下のお手を煩わせたとなっては、生徒たちに示しが付きませんから」
差し出した片手を見て、そう突っぱねたサクヤへソウジは苦笑を浮かべた。
もっともらしい理由を口にしたが、要は意地になっているだけなのだとすぐわかるからだった。
「そうか。いや何、君が持っていると、講義録も百科事典に見えてしまってね」
相変わらず、分かりやすいなぁと笑いながら、彼はからかうように言った。
意地悪だ。
笑うソウジを横目で睨みつけながら、鞄を顔の前まで持ち上げたサクヤはその陰で頬を膨らませた。




