011
死を待つだけの、永遠のような刹那。
しかし、いつまで経ってもその時が訪れない。或いは、これが死なのだろうか。
そう疑問を抱いたヒスイがゆっくりと瞼を持ち上げると。
「やれやれ、まったく。危ないところでしたね、織館さん」
七倉ヤトの聞きなれた声がその耳に届いて、彼女は目を見開いた。
「七倉、大尉……?」
茫然とした声でその名を呼ぶ。彼はいつの間にか開け放たれた扉の先に立っていた。
時折見せる、締まりのない笑みを浮かべながら。硝煙の立ち昇る拳銃を片手にしているその足元には、狛尻の身体がうつ伏せに倒れている。その後頭部からは赤黒い液体が溢れ出て、床を汚していた。
次第に広がってゆく血溜まりから逃れようと後退ったヒスイは、そこにあった寝台の上に崩れ落ちた。
「どうして、ここに」
死体から目を逸らしつつ、喘ぐようにヤトへ尋ねる。
「貴女が帝都に着いてからずっと、万一に備えていたもので」
彼は拳銃を腰に収めながら答えた。
「まぁ。まさかここまでの強硬策を打ってくるとは思いませんでしたが」
へらへらと笑いながら、彼は足元に転がっている狛尻の死体に近づいた。その肩を乱暴に蹴り上げて、仰向けにさせる。後頭部から銃弾を撃ち込まれた衝撃からか、狛尻の両目は驚愕したように見開かれていた。
「やあ、やっぱり、君か」
その顔を確かめたヤトが、酷く親しげな様子で死体に声を掛けた。
「同期の中じゃ、一番の射撃上手だったものな。前から常々思っていたのだが、君は将校ではなく、兵になった方がよかったんじゃないか?」
もっとも、今さらかと呟きながら、その頬をつま先でつつく。
「……お知り合いだったんですか」
目の前の光景から目を逸らしつつ、ヒスイが訊いた。
「ええ。士官学校の同期でした」
なんでもないような口調でヤトは応じた。
「上に媚びるのが巧くて、頭が悪い。犬のような奴だと思っていましたが……どうやら、心の底から犬に成り下がったようですね。さて」
自ら手を下した同期生から目を離した彼は、寝台の上にへたり込んでいるヒスイへと手を差し出した。
「立てますか、織館さん。申し訳ないが、あまりのんびりともしていられません」
「え、えぇ……」
彼の手をとったヒスイが、震える膝を押さえつけるようにしてどうにか立ち上がる。そこへ、廊下から誰かの足音が響いた。
「ご心配なく」
身を硬くした彼女に、ヤトが言った。
「しばらくは、敵も来ません」
敵が誰なのかは知らないが、彼の言う通り、やってきたのは味方だった。
「大尉殿」
そうヤトを呼んだのは駒塚だった。もう一人、兵を連れている。どちらも小銃を手にしていた。
「ご命令通り、退路は確保してあります。馬車も一台、押さえました。もっとも、尻の痛くなりそうな乗り心地ですが」
「ご苦労」
報告した彼に、ヤトは頷いた。
「では、逃げるとしようか。死体を片付ける暇はない。外で待機している連中も撤退させろ」
「は」
「織館さん、こちらです」
短いやり取りの後、ヤトに促されてヒスイは部屋の外へ出た。銃声の響いた直後だと言うのに、廊下には誰もいない。
「ご心配なく。先ほどの銃声は、誰にも聞こえていないことになっているのです」
周囲を怪しむように見回していたヒスイへ、ヤトがそう声を掛けた。
「それは……そう、ですか」
言葉の意味を悟ったヒスイの肩が、力無く落ちる。もはや、この状況で説明はいらなかった。
「まぁ。ともかくも、お父上のように狙撃ではなくて助かりました」
部屋を離れる間際、暗澹たる想いに囚われている彼女へヤトがそっと呟く。
それにヒスイはハッとして顔を上げた。最後にもう一度、室内へ目を向ける。床に転がっている狛尻の死体を見下ろした。
「……もしかして、彼が」
「分かりません」
何かを言いかけた彼女を、ヤトがやんわりとした声で遮った。
「真実がどうだったにせよ、彼はもう死んだ。それで終わりです」
彼が口にしたのは、戦場の論理だった。
そして、ヒスイは反論する言葉を見つけられなかった。
議論の場であると信じていた此処は、暴力によって事態を解決する場へと変貌していたからだった。それはもはや、戦場と何が違うのか。
彼女はただただ、現実を前に項垂れることしかできなかった。
ヤトに連れられて外へ出たヒスイは、用意されていた馬車へと乗り込んだ。そのまま、夜の闇に紛れて帝都を後にする。
きっともう、帝都には返ってこられないのでしょうね。
そんな予感を抱きながら、街を振り返る。
か細い街の灯りが次第に遠ざかり、彼女を乗せた馬車は何処までも暗い道を進んで行く。
まるで、この国の行く末を暗示させるようなその状況に、ヒスイは大きく息を吐きだすと両手の中に顔を埋めた。
彼女は知ってしまった。彼女の信じていた国は、もう何処にもないのだと。
恐らく、いや、確実に。もはや話し合いによる解決は望むべくもないだろう。
今やこの国は、戦争の遺児とも言うべき者たちによって支配されている。鉄火と暴力の信奉者たち。そして、ヒスイの対面にはその支配者の一人が座っている。
彼は馬車の外から覗く暗闇を、酷く楽しそうに見つめていた。




