004
「はい、ミヤコちゃん」
ミヤコの下へ戻ったサクヤは、買い戻したつげ櫛を彼女へ差し出した。それから、自身の不甲斐なさを詫びるように頭を下げる。
「ごめんなさい。これしか取り戻せなかったわ」
「そ、そんな……!」
頭を下げたサクヤに、ミヤコは恐縮したように両手を胸の前で振り回した。しかし、その手もすぐに力なく垂れてしまう。
「ありがとうございました……あの、でも」
彼女は目の前にある櫛を泣き出しそうな目で見つめながら、悲しそうに言った。
「それはもう、大佐さんがお買い上げになられたもので……大佐さんのもの、ですから。……それに、私じゃ、あんな大金、とてもお返しできないです……」
すすり泣くような声。それを遮るように。
「それじゃあ」
サクヤはやや声を張り上げて、彼女の手を取った。
「預かっておいて」
きっぱりとした声で告げて、その手に無理やりつげ櫛を握らせる。
「私じゃ、それを使っても綺麗に髪を結えないもの」
言って、サクヤは両手を後ろに回した。たとえ突き返されても、絶対に受け取らないという意思表示のつもりだった。
「あ……」
再び、自分の元へ戻ってきた櫛を見て、ミヤコの口から茫然とした声が漏れる。
彼女は手のひらに乗ったつげ櫛をしばし、所在なさげに眺めてから、やがて、恐る恐ると指を伸ばし、櫛の表面に刻まれている小さな傷や染みを、確かめるように何度も撫でた。
「……わかりました」
次にその口から出たのは、ほっとしたような、それでもやっぱり泣き出しそうな声だった。
「ありがとうございます。大佐さん」
櫛を抱きしめるようにして、深々と頭を下げたミヤコへ。
「いいのよ。気にしないで」
仄かな罪悪感とともに、サクヤは顔を背けて応じた。
「それでまた、髪を梳かしてもらえるかしら」
「もちろんです!」
元気のいい返事とともに、ミヤコが頭を上げた。その顔にはようやく、笑顔が戻っている。
ほっとしたように、サクヤも微笑んだ。しかし、胸の中では罪悪感が膨らみ続けている。
「そうだ。実は今日、お菓子を用意してあるんです! ご近所さんから頂いた小麦で、簡単な焼き菓子なんですけど、お茶にも合うと思いますよ!」
もはや痛みにも近い感情を必死に押し殺しているサクヤへ、ミヤコが思い出したように手を打ち合わせて言った。
「それは楽しみだわ」
じくじくと痛む胸の傷を隠しつつ、サクヤはやっぱり笑顔でそれに応じた。
この痛みの正体を、彼女は嫌というほど知っている。もちろん、その付き合い方も。
席についてからほどなくして、いつも通りの紅茶と一緒にミヤコが持ってきたのは、小麦で作った焼き菓子だった。砂糖は入っていないそうだが、齧ると小麦本来の甘さがほんのりと舌に感じられて、紅茶とも良く合った。
夏の祭典以降、小麦を始めとした一部配給品の制限が解かれたため、帝都の食事事情は大いに改善している。これまでは配給権が無ければ買うこともできず、量も決まっていたものが金さえ出せば幾らでも買えるようになったという、ただそれだけなのだが。
それでも、街の変化は劇的だった。
歓楽街として栄えている東宮通りなどでは、これまで締め切られていた店の戸に暖簾が掲げられ、様々な商品が売りに出されている。どれもまだまだ、この焼き菓子のように簡単なものばかりではあるが、今まではむしろ給料の使い道に困っていたサクヤにとって、最近はこうした店を巡るのが楽しみの一つだった。
それも、しばらくは我慢しなければならないが。
もちろん、そんなことを考えているなどとは、おくびにも出さない。
さくさくと口当たりの軽い焼き菓子を楽しんでいるサクヤから、少し離れた席では礼服の男と店主が金と物をやり取りしていた。
努めてそちら側を気にしないようにしていたサクヤだったが、時折、ミヤコの顔が翳っていることだけは無視できなかった。
やがて、男が去り、店主は受け取った金を持って店の奥へと引っ込んでいった。
相当の金額になったはずだが、いったい、何に使うつもりなのだろう。
そんな疑問を、サクヤは意識して頭の中から追い払った。
知ったところで。いや、知ってしまえば。今よりももっと、あの老店主を嫌いになってしまうかもしれないことが、サクヤには怖かった。




