003
「まぁまぁ、お二人とも。そろそろよろしいですか」
感情を失ったように立ち尽くすサクヤと、この世への恨み言を吐き出し続けている老人の間に、礼服の男が耐えかねたような声で割って入った。
「とにかく、法的にはなんら問題がありませんから。私は、私の商売をさせていただきますよ」
断るようにそう言った男の顔には、嘲笑うような表情が滲んでいる。
「では。買値は先ほどの金額でよろしいですか」
彼は店主に向き直ると、媚びるように尋ねた。老人は面倒そうに頷いただけだった。
「商談成立ですね」
男が嬉しそうに揉み手をしながら、卓上へ目を落とす。そこへ。
「待ちなさい」
サクヤの静かな声が、買い取った品に手を伸ばそうとする彼の動きを遮った。
「何ですか」
楽しみに水を差されたような顔で男が言った。
「お話はもう終わったと思うのですが……」
「買うわ」
彼の言葉を最後まで聞かず、サクヤは言った。
「はい?」
「私が、買うわ」
聞き返す男に、サクヤはもう一度言った。
「おやおや……」
それに男は呆れたような、小馬鹿にしたような笑みを彼女に向けた。
「買う、とは。これを全部ですか?」
侮るような声で尋ねる彼に、サクヤは無言で頷いた。男の馬鹿にしたような笑みがますます深まる。
「しかし、そうなるとですねぇ……よほどのお大臣でもないと」
言いながら、男は卓上からあの木櫛を取り上げた。
「例えばですね。このつげ櫛は南洲で採れる貴重な材木を利用したもので、加えて、こうした民芸品を作る職工の多くが、先の大戦で失われてしまいましてねぇ。今では大変に希少なものなのです。当然、お値段も相応に」
「構わないから。全部で幾ら?」
櫛を見せつけるように掲げて語る彼に、サクヤが突き返すような声で尋ねる。
男はますます厭らしい笑みになると、金額を口にした。それは先ほどの買値よりも、遥かに高い額だった。サクヤがそのことに文句を言うと、「商売とはそういうものなのですよ」という小馬鹿にしたような返答が返ってきた。
サクヤは困ったように眉をひそめた。
商売に関する知識もなく、こういった品物の鑑定眼にも自信のない彼女には、男の提示した額が相応なのかどうかも判断がつかない。
ミヤコの家族が遺した形見の品を、彼女の目の前で値切るなどという真似もしたくなかった。
しかし、そうなると全て買い戻すには全財産を叩いても届かない。
散々迷った挙句、サクヤは呻くようにつげ櫛だけなら幾らかを訊いた。男が答えたのは、彼女の俸給の、ちょうど三ヶ月分に相当する額だった。
サクヤは躊躇うことなく、それでいいと応じた。
「ところで、流石にいま、それだけの手持ちはありませんよね?」
話が決まったところで、男が尋ねた。
しまったとサクヤの顔が歪む。頷いた彼女に、男は妙に親切な態度で応じた。
「では。あとで清算書を届けさせましょう」
彼は脇に置いていた鞄から一枚の紙を取り出すと、鉄筆とともにサクヤへ差し出した。
「こちらの御一筆頂ければ、今日はそれで結構です……はい、どうも」
言われるがまま、サクヤが紙面に鉄筆を走らせる。それを見た男は満足そうに頷いた。
「ところで、清算書はどちらに届けさせましょうか? 直接、陸軍宛、では不味いですよねぇ。配属先でよろしいですか?」
「……士官学校に送ってちょうだい」
少し考えてから、サクヤはそう答えた。
私的な郵便を職場に届けさせたなどと、ソウジの耳にでも入れば小言を言われそうだが、この男に下宿先の住所を教える気にはどうしてもなれない。
「では。そのように。ああ、そうそう。お支払いはいつでも、御都合のよろしい時で結構ですよ」
最後にそう言って、男はつげ櫛をサクヤに手渡した。
「随分と親切なのね」
明日にでも払ってやろうと固く決心しながら、サクヤが疑うように言う。
「それはもう。お客様ですから。それも、御国の英雄様がお得意先ともなれば……」
彼は揉み手をしながら、媚びるようにそう応じた。
どうやら、彼は自分のことを知っていたらしいと、サクヤは今さらに気が付いた。
そういえば、先ほども清算書の届け先は配属先で良いかと訊かれただけで、配属先がどこかとは訊かれなかった。
男の顔に張り付いた、商売人かくあるべしといった笑みを見ている内に、なにかを失敗したような気分になり、サクヤは早々にその場を離れた。




