002
突然、大声を出したサクヤへ、男と店主が同時に振り返った。
「どうかなさいましたか?」
あからさまに迷惑そうに顔を顰めた店主に代わって、礼服の男が丁寧な口調でサクヤに応じた。
「すみません、お嬢さん。今は大事な商談の最中なので」
「商談?」
訝しむように聞き返したサクヤへ、男は頷くと卓上に並んでいるものを手で示す。
「こちらの品を買い取る価格について、話し合っているのです」
「買い取るって……」
彼の言葉に、サクヤは戸惑ったように卓の上へ目を落とした。
そこにあるのは、どう見てもミヤコの使っていた櫛だ。家族の形見だと嬉しそうに語っていたそれを、いくら金に困ったからと言って売りに出すだろうか。
問いかけるようにミヤコへ目をやると、彼女は何かもかもを諦めたような顔で小さく首を振っていた。
「あの、それはあの子のものなんですけど」
なぜミヤコが黙っているのか分からず、サクヤは飴色の木櫛を指さすと男に言った。
「ああ。そうでしたか」
ミヤコを一瞥した男が、それが何かといった顔でサクヤを見る。お互いの会話がどうにも噛み合わない理由に、先に気付いたのは男のほうだった。
「あのお手伝いさんの監督者は、こちらのご老人ですよね?」
そう尋ねられて、サクヤは返答に困った。
ミヤコと店主の関係について、掘り下げて聞いたことが無いからだった。
しかし、たぶん、そうなのだろうとは思う。
曖昧に頷いたサクヤを見て、男は満足そうに微笑んだ。
「でしたら、あのお手伝いさんの持ち物をどうするか、それを決めるのはこちらのご老人ですから。法的には何の問題もありません」
「なっ」
人の良さそうな笑みを浮かべながら言った彼に、サクヤは思わず言葉を失った。
「あの子の物を、勝手に売ろうとしているんですか?」
正気を疑うような目を老店主へ向けて訊く。しかし、店主はいつも通り無視を決め込んでいるのか。サクヤの方を見ようともしない。
「これは、あの子のご家族が遺してくれた形見なんですよ? それくらい、ご存じですよね?」
老人の態度に、自然と語調が荒くなってゆく。そこへ。
「まあまあ」
男が宥めるような声で割り込んだ。
「勝手、というのは少し違いますよ。いま申し上げた通り、彼女の財産や所持品を管理運用する権限は、この方にあるわけで……」
「貴方には聞いていません。私は、このおじいさんに聞いているんです」
彼の言葉を、サクヤは将校としての声で遮った。頑としたその言い方に一瞬、男の笑みが痙攣する。それを無視して、サクヤは老人を睨んだ。
底冷えのするような沈黙が店内を包み、そして。
「……けっ。小娘が。将校様ってのは、そんなに偉いのかよ」
彼女から顔を背けたまま、老人が吐き捨てるように口を開いた。
「そのガキの面倒を押し付けられてんのは俺なんだから、そのガキの持ちもんを売ろうが捨てようが、俺の勝手じゃねぇか」
性質の悪い悪戯を見咎められた子供のような、拗ねた声で店主が言う。
「将校様には分かんねぇだろうがな。ガキ一人育てんのにも金が要るんだ。こんな、客もほとんど来やしねえ喫茶店の、ちんけな売り上げだけじゃあ、到底足らねえんだよ。だから、ちょっとでも足しにしてやろうと、こうして金を作ってやってんじゃねえか」
そこで、虚空へ向けて呪詛を紡ぐ老人の目がミヤコを捉えた。
「大体よ。困ってんのは俺の方なんだ。突然、御上からこんなガキの世話を押し付けられてよ。こんぐらいの役に立ってもらわねえと、割にあわねえだろうが」
責めるような彼の言葉に、ミヤコは小さな肩を慄かせている。
「なに、を……」
その光景を前に、擦れた声がサクヤの喉から漏れた。
「押し付けられたって……でも、貴方は、だって……監督者でしょう?」
国が認めた、立派な大人なのでしょう。そう尋ねる彼女の声にはむしろ、縋るような響きがある。
「知るかよ。そんなこと」
老人の返答は残酷だった。
「ある日、突然、国民の義務だなんだとそのガキを押し付けられて、それだけよ。せめて金でも貰えるんならまだしも、何にもありゃしねえ。そんで、断れば非国民扱いだ。冗談じゃねぇ。せめて男なら働かせようもあったつぅのに……」
ぶつぶつと、この世への不満を零すような老人の濁った声を、サクヤは最後まで聞いていられなかった。
それは善意によって作られた制度が、それだけで運用されるとは限らないというお手本のような話だった。
確かに、年少者監督法は戦災孤児を救済するために作られたものではある。
だが、その実態はある程度の年齢で、資産や収入のある者へ子供たちを機械的に割り当てるだけのものだった。終戦と同時に、国中に溢れた孤児の扱いに困った帝国政府には、監督者になる者の人柄や人格などを一々考慮している余裕もなかったからだ。
その結果、どうなるか。
全ての子供たちが、望まれてこの世に生まれ落ちてくるわけではないという残酷な世界の真実を知っている者ならば、容易に想像がつくだろう。
そして何よりも。軍隊において、優秀な指揮官が稀有な存在であるように。この世にある“大人”と呼ばれる者の誰もが立派であるわけがないのだ。
これはサクヤが知らなかった。いや、知ろうとしなかった現実だった。
無論、彼女とて監督者制度が絶対的に正しいものであるなどと、盲目的に信仰していたわけでもない。
自分よりも小さな子供たちが働かされている場面を見るたびに違和感を覚えていたし、そもそも、この制度が何のために必要であるのかさえ分かっていない。
国の復興のため、仕方のない事なのだと割り切って考えるしかなかった。
軍隊という理不尽の巣窟で育ったことと、兄とも呼べる存在のソウジが自身の監督者になってくれていたことが、疑問を抱かずに済んできた要因なのだろう。
サクヤは打ちのめされたような顔で、ミヤコを見た。何かの責め苦に耐えるように引き結ばれている、小さな唇が酷く痛々しい。
これまで自分とは関係のない事だと見て見ぬふりをしてきたものが、いったい何だったのだろうか。
取り返しのつかないものを見過ごしてきてしまったような焦燥感がサクヤの胸を焼く。
しかし。それも一瞬だった。
あっという間に燃え尽きた彼女の心には、いつも通りの諦観だけが残っていた。




