032
「たまにはいいわねー、こういう贅沢も」
「でしょ? お休みの日はいつも、ここから喫茶店に行くんだけど……」
風呂から上がり、服を着直した二人は何気ない会話を交わしながら脱衣場を出た。
そこはちょっとした待合の場になっていて、番台と下駄箱以外に、二脚の長椅子が置かれている。その一つに屈みこんでいた男が、彼女たちの声を聞いておもむろに振り返った。
「あれ?」
「あら」
「あん?」
振り返った男と顔を合わせた途端、それぞれの口から三者三様の声が漏れた。
「コウ君?」
見知ったその顔に、サクヤが驚きの声で呼びかけた。
「おう、サクヤじゃねぇか」
それにコウは、傍目から見ても嬉しそうな笑みを浮かべながら二人へ踏み出した。
「ちょっと。まず乙女の前では服をきちんと着てもらえるかしら?」
近づいてくる彼を制止するようにコトネがその服装を注意した。どうやらコウも風呂から出たばかりらしく、襦袢の前留めが外れて、分厚い胸板が露わになっている。
「乙女……?」
その声に、今まさにコトネの存在に気付いたかのようなコウが、疑問に満ちた声を出す。
彼女は瞳を細くして、彼を睨んだ。一見、笑顔にも見えるその表情に、コウは慌てたように前留めを上まで留めた。
「もしかして、コウ君もここにはよく来るの?」
目の前にやってきた彼に、サクヤが尋ねる。
「おう。非番の時に、やってりゃだけどな」
コウは右肩に掛けていた制服の上衣に袖を通しながら答えた。
「そっか。ところで、何をしていたの――」
今日は思わぬ所で、思わぬ人と会うなぁと思いつつ、サクヤはコウの背後を覗き込んだ。
「って、瀬尾曹長!?」
そして、彼が先ほど屈みこんでいた長椅子の上に、顔面蒼白で倒れ伏している瀬尾を見つけたのだった。
「え? 連隊長殿……?」
瀬尾は荒い息を吐きながら、サクヤの声に反応した。どうやら、それまでのやり取りは聞こえていなかったらしい。
「いったい、どうしたの? あ、待って、そのままで、寝てていいから!」
慌てて駆け寄ったサクヤが、身体を起こそうとする瀬尾を必死に押し止める。近くで見ると、全身が小刻みに震えていた。
「な、なにがあったの……?」
振り向き、サクヤはコウに尋ねた。
「いや。それがよくわからねぇんだよ」
聞かれた方は首を捻っていた。
「風呂から出るなり、いきなりぶっ倒れてな……」
「どっからどう見ても、のぼせてんでしょうが!」
何が何やらと答えるコウの頭を、コトネが思いきり叩いた。まったくもうと溜息を吐きつつ、彼女は横になっている瀬尾の傍らに屈みこむと、その額に手を当てた。手のひらからは人肌とは思えない熱が伝わってくる。
「いったい、どれだけお湯に浸かってたわけ?」
「んー……祝賀御列が終わって、解散してからだから……五時間くらいか」
瀬尾の服を緩めながら、呆れ混じりに訊いたコトネへ、コウが指を折りつつ答えた。
「入り過ぎよ。ぶっ倒れるわけだわ」
ぴしゃりと言った彼女の下で、瀬尾が気持ち悪そうに呻いた。
「うぅ……頭がぐらぐらします……」
「ど、どうすれば……?」
それに、サクヤがおろおろとした声を出す。
「アンタは番頭さんに、団扇か何かないか聞いてきなさい」
「は、はい!」
コトネの指示に、彼女は弾かれたように従った。
「情けねぇ。帝国男児たるもんが、その程度の事、根性で何とかしやがれ」
「無茶言うんじゃないわよ」
馬鹿は放っておくことにして、コトネは瀬尾の容態をさっと確認した。まあ、どう見てもただのぼせているだけだ。しばらく安静にしていれば、そのうち元気になるだろう。
「うぅ……これなら、近衛のほうがまだマシだった……」
「んだとぉ?」
「やめなさい!」
瀬尾に掴みかかるような勢いで迫ったコウを、コトネが怒鳴りつけたところで、番台のほうに行っていたサクヤがいそいそと戻ってくる。
「コトネ! これ! 団扇借りてきたよ! あと、番頭さんが濡らした手拭いも貸してくれた! それで、次は?」
「ああ、うん。手拭いはおでこに乗っけて、それで扇いであげて。後は水でも飲ませておけば大丈夫よ」
この天才は軍事以外のことになると、とことん役に立たない。士官学校で、基礎的な応急処置の方法は習っているはずなのだけど……。そう頭を抱えながら、コトネは指示を出した。
サクヤは言われた通り、瀬尾に屈みこむとその額に濡れた手拭いを乗せた。
「大丈夫? 瀬尾曹長……?」
団扇で扇ぎながら、心配そうに声を掛ける。
「あ。大丈夫です。治りました」
その途端、けろりとした顔で彼は起き上がった。突然、身を起こしたせいで額から手拭いが落ちる。
「え? もう?」
驚いて、サクヤは聞き返した。
「あ、いや、やっぱりまだちょっとくらくらします。申し訳ありません、連隊長。もう少し扇いでもらえますか?」
それに瀬尾はわざとらしく額に手を当てながら言った。
「うん、分かった。もう少し寝ていて」
彼の演技に疑問すら抱かず、素直に頷くサクヤ。
「いやぁ、やっぱり陸軍が一番ですね!」
彼女に扇がれながら、瀬尾が元気いっぱいに笑う。
「この……男ってやつは……」
そんな彼に側溝を覗き込むような目を向けながら、コトネが吐き捨てるように呟いていた。
桜花舞う!! 第二章 夏 近衛叛乱 了




