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無口な天使  作者: ソルモルドア
犠牲の果てに
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生と死の狭間で

 


 ……ポツリ。


 …ポツリ。



『ん……』



 闇の中に小さく反響するくぐもった呻き声。


 黒々とした泥土に覆われた大地の上。そこには大の字で横たわる、色という概念自体をどこかに忘れてきてしまったような一人の少女がいた。



 まるで漂白されてしまったかのように真っ白な彼女の頬を涙のように伝うのは、墨汁のように真っ黒な雨粒。


 時間を経るごとに強く、激しくなっていくその黒い雨は、容赦なくまだ成長途中の少女の体を打ち据える。



『んっ……』



 雨に打たれたことで、僅かにあがった艶やかな声。

 やがて微かに瞼を震わせた少女はゆっくりと眼を覚ます。



 僅かに開いた彼女の瞼の下から覗くのは、およそ人間のものとは思えないほどに真っ赤な瞳。穢れを知らない白い絹のような髪の毛がサラリと彼女の額にかかった。



 ……あれ、ここは……?



 長い間雨に打たれていたからだろうか。未だに強張こわばりが残る体をやっとの思いで起こした白い少女は、妙に霧がかった頭を振って辺りの状況を判断する。

 職業柄こういう事態におちいることは多い。慣れているのだ。



『……』



 少女は油断無くあたりを見渡し、無言のままにゆっくりと体を動かす。



 ……大丈夫、かな?むしろ調子がいいぐらいだけど……



 少女の白すぎる体の目に見える範囲に外傷はなく、体の動きを阻害するほどの痛みもない。

 頭の回転もやけに早く、全身から脳へと送られてくる虚ろで不確かな情報を正確に処理できているようだ。


 なぜか鈍くしか感じることのできない身体中の感覚のことだけが不安だが、毒を盛られたわけでもなければ、きっと気のせいなのだろう。


 体に不調がないということが逆に不気味に思えるほどの健康体であった。



『ボクは……』



 黒い雨のせいか、それとも今いる場所が真っ暗だからか。普段よりも遥かに異質で目立つ彼女の白い肌。


 体を動かし終わり、それをぼんやりと眺めていた彼女の中で、混濁こんだくがみられていた記憶が徐々にではあるが、繋がりをうむ。



『何かと戦って……』



 ……そう、ボクはあの時……



 瞬いた少女の瞼の裏をぎる金色の煌き。


 それはたぶん彼女がうらやんで、決して届かなくて、大嫌いだったはずの黄金色こがねいろ



 でも、なんだか安心するような……そんなあれは……あれは一体なんだったんだろう……?



『わからないけど……でも……』



 うっすらと靄のかかった記憶からではわからない。

 答えには辿りつかない。



『うん…ボクは行かなくちゃ……』



 わからない。わからないはずなのに、やがて少女は何かに突き動かされるかのように、二本の足でしっかりと立ち上がる。


 気絶しても尚握っていた柄だけの剣を彼方へ放り投げ、大事に大事に懐にしまっていた一振りの短刀を抜き放つ。



『……待っててね』



 手の中にある光り輝く短刀は本来の持ち主を探して鳴動を続けていた。


 彼女の向く方向は東。

 闇の中、何ら障害があることを感じさせない軽やかな足取りで彼女は歩みはじめる……













 ゴロゴロと不気味にとどろく遠雷。

 パラパラと降り出した黒い雨は、間をおかずに豪雨となって大地に降り注ぐ。



『ふははははっ!いいぞ!そう!そうだっ!!』



 降り続く雨の音にも負けないほどの高笑い。


 だが、もはやそんなものは聞き慣れた。



 ほんのわずかに頭を下げた先、チリッとクリスの銀髪をかするようにして通り過ぎる不可視の一撃。


 絶妙なタイミング。間一髪で濃縮された闇の攻撃を回避したクリスは、魔王の本体がいると思われるところに向かって折れた刀を突き入れる!



「……」



 だがしかし、確実に突き刺したと思ったクリスの手に伝わってくるのは、この戦いの中だけで何度目かもわからないほどに感じ慣れた、酷く薄い手応え。


 今度も致命傷を与えるに至らなかったと、クリスが歯噛はがみをする間もなく、即座に魔王が反撃にうつる。



『ふっ、ふっはははははは!!』



 虚空を斜めに走る闇色の斬撃。


 剣を即座に投げ捨て、反動のままに咄嗟に体を傾けるも、躱しきれずに半ばからバッサリと斬り落とされてしまうクリスの左翼。

 無数の光の羽が散り、残滓だけを残して消えていく。



「……っ……」



 バランスを崩しながらもクリスは横に滑るように跳躍し、泥を跳ね飛ばしながら体勢を立て直す。


 本来魔力の塊でもある翼は、魔力で出来ているが故に復元が可能な代物であり、替えがきくものである。

 だがもうこの戦いの間に復元することは無理だろう。手痛いダメージには違いない。



 ……どうすれば……



 体表を無数に走る切り傷。片翼かたよくがれ、満身創痍まんしんそういとなったクリスは浅く唇を噛む。



 まるで面白くて仕方が無いといったような魔王の笑い声はクリスの焦燥を煽り、精神を損耗させる。

 一向に手応えのないクリスの攻撃は、ただただ虚しいだけ。


 戦闘開始当初こそ互角以上にあったはずのクリスの魔力は、既に危険域に達するほどまでに減っていた。



「……はあ…はあ……」


『―――嫌だ――助け―――』


(もはや止められるものなどいはしないっ!

 神子を失った貴様らにはもうっ!もう私を止めることなどできはしないっ!!)



 耳に残る嘆きの言葉と、クリスの脳内で何度も何度も繰り返される魔王の叫び。



 一体なぜ魔王はあそこまで嘆いていたのだろう?

 強さだけで見れば、クリスの方が数段勇者よりも上なはずなのだ。

 どうして止めることができないのだろう?



 ……一体、何が足りないのっ……



 クリスに向かって迫り来る質量を持った闇。


 応えるように残った右翼を羽ばたかせたクリスは、回転しながらすれ違いざまに光の魔力を纏わせた腕を振るう。

 光は何の抵抗も無く闇を引き裂き、断ち割る。



「はぁはぁ……」



 動くたびに跳ね飛ぶ泥が彼女の美しい肌を穢す。その服を黒く染めていく。



 もはやクリスに命を奪う、未練を断ち切るなどといったことに忌避感を抱く余裕はない。

 断末魔のような悲鳴と高笑いを背に、クリスは荒い息を整えながらも、己の体に纏った魔装の出力をあげる。


 決して体に良いとはいえないであろう暗黒の大地の毒素をシャットアウトし、少しでも悪意に対する耐性を上げるのだ。



「……っ……」



 クリスは魔王から伸びる赤黒い閃光を避け、反撃とばかりに巨大な火球を撃ち出す。


 しかし、常人であれば骨すらも残らないはずのそれでさえ、魔王の体を透過するばかり。

 視界の先で轟音が上がり、火球の直撃を受けた岩の破片があたりに散乱した。



 ……攻撃が当たらないっ……



『ーーー痛いーー苦しいーーーー』



 クリスの視界にうつる赤黒い点滅。

 わずか一瞬後に脇を通り過ぎる死の感覚。



「……はぁっ…はあっ……」



 進路上にいた亡者達を吹き飛ばしながら再び距離をとったクリスは必死に考える。



 ……わからないっ……僕は…僕は一体どうすればいいの……?



 このまま戦い続けてもジリ貧であるということは、誰の目から見ても明らかであろう。

 イリスを見つけるどころか、自身の命すらも落とすことになってしまう。


 女神様との約束も果たすことが出来なくなってしまう。



「……っ……」



 魔王から受けた傷が、辺りに漂う怨念が彼女をむしばむ。


 小さな焦りは積み重なり、先行きの見えない不安は単純なミスを誘発する。



 いや、武器を失い、徐々に削られていたクリスがこうなってしまうのも、もはや時間の問題だったのだろう。



「……ぇ……」



 意識の範囲外、突然彼女の下から噴きあがる無数の凝縮された悪意。

 幾本もの触手のような闇に魔装の上から絡め取られる両手両足、右翼。一本一本が常人ならば絞め殺してしまうほどの万力まんりきでクリスを締め上げる。



「……えぐっ……」



 喉を締められながらも咄嗟に放出する魔法力。だが、数が多すぎて切断しきれない!



 ヤバイと思ったときにはもう遅かった。

 クリスの体には既に無数の亡者が群がってきていたのだ。



『ーーー貴女もーー一緒にーーー』


「……そ、そんな……」



 彼女の美しい銀眼が最後に捉えたもの。

 それは、群がる亡者達の向こう側。

 高笑いをしながら何かを放つ魔王の姿であった……










 …………

 ………

 ……

 …










 辺りに満ちた、透き通るような黒。

 焦げたような臭いは勿論、泥や枯れ木といったもの、全てがここには存在しない。



「……?」



 ……どうして僕はこんなところにいるんだろう……?



 いつの間にか広大な空間の真ん中に、ポツリと一人取り残されていた少女は頭を悩ませる。



 ……たしか僕は何かと戦っていたような気がするんだけど……



 記憶の片隅にあるのは何かとても恐ろしいもの。思い出すだけで泣きたくなるほどの邪悪な何か。



「……」



 ……うん、でも……



 何か心残りがあったような気がするクリスではあったが、しかし今の彼女の心は静かな湖面のように穏やかだ。


 自分を脅かす外敵はいない。この空間は安心できる。

 そう彼女の本能が言っていたから。



 ……もうずーっとこのままでもいいかな……



 クリスは自身の腰までの長さがある銀糸のような長髪を指でき、そう思う。


 彼女は何故か酷く疲れていたのだ。

 それはもう、すぐにでも眠ってしまいたくなるほどには。



「……うん……」



 ……僕はよく頑張ったよね……



 小さく微笑んだクリスはそっと膝を抱えて目を瞑る。



 静寂。



 徐々に濃くなっていく黒が、母親の胎内にいた時のような暖かさが、静かに彼女を包みこむ。



 ……なんだか気持ちがいいや……



 それは言葉こそかわせないものの、大切な誰かが常に隣にいてくれるような、そんな優しい世界の話し……






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