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心に壁

「ねーちゃん」


 夜の宿、宿のお風呂に交代で入って後は寝るだけという時にアイネが話しかけてきた。


「どうしたのアイネ?」

「前から思ってたんだけどフェアチャイルドって呼ぶの長くない?」

「まぁ長いね」

「戦闘中に名前呼ぶ時呼ぶ名前が長いとその分指示が遅れるんじゃ」

「……たしかに」


 一刻を争う時一秒の差が生死を分かつという事は十分に考えられる。

 呼ぶのなら名字よりも名前の方が短く済む分確かに合理的だ。



「呼び方変えたほーがよくないかな」

「一理あるな……」


 でも名前……名前かぁ。今更彼女の名前を僕は呼べるだろうか?

 少し想像してみて僕はすぐに首を横に振った。想像しただけでもすごく緊張する。そっちの方がかわいいからと長年名字で呼びつつけてきたつけが回ってきたのかもしれない。

 今更あの子を名前で呼ぶ事に照れが入ってしまう。これは識別名を考えた方がいいか。

 なんにしても相談するべきだろう。




 翌朝、 朝のオーメストは風が弱い。おかげで砂に困らせられる事もなく訓練ができる。

 僕とアイネは防具を着こみ宿屋で朝食を取る前に訓練の為に冒険者の訓練用に開放されている空地へ向かった。

 そして、入り口でフェアチャイルドさん達と合流する。

 今日のフェアチャイルドさんは昨日とは違って距離が近い。サラサは上手く伝えてくれたようだ。

 訓練に入る前に僕は経験豊富なミサさんに昨晩アイネに指摘された事を伝え助言を求める。


「ン~、名前の長さはそれほど問題にはならないので好きに呼んで大丈夫だと思いますヨ。

 というか名前の長さ程度の時間の差なんてあってないようなものデス。

 マァ気になるのなら変えるべきだとは思いますガ」

「そ、そいうものですか?」

「ハイ。それよりも問題なのはワタシデス。アリスちゃんとアールスちゃんの名前を間違えてしまうかもしれまセン」

「そんなに似ていますか?」


 アリスとアールス。カタカナにすると字面は似ているが抑揚が違う。

 アリスはアに力を入れ、アールスはスに力を入れる。最初の文字の調子を上げるか最後の文字の調子を上げるかの差だ。

 それと発音の仕方も違ったりする。アリスは高音気味なのに対しアールスは巻き舌気味に低く発音する。

 意外と似ていないのだ。アリスとアールスは。


「普段ならちゃんと分けられますケド、やはり余裕がない時だと聞き間違えと言い間違えがあるかもしれまセン」

「慣れてもらうしかないですね。それか僕の事をナギで呼んでもらうか……」

「そうですネーなるべくなら慣れる方向で行きたいですネ。それで、アリスちゃんはレナスちゃんの事を名前で呼ぶんですカ?」


 ミサさんの質問に僕は隣に立っているフェアチャイルドさんの顔を見上げた。

 フェアチャイルドさんは今までの話を聞いていてもすまし顔をしている。


「あー……フェアチャイルドさん。名前で呼んでみてもいい?」

「はい。もちろんです」


 僕が彼女の事を名字で呼んでいるのはフェアチャイルドという語感がかわいらしく気に入っていたからだ。

 だけど呼び名を変える事で少しでも危険が減らせるなら変えるべきだろう。


「レ……」


 そう、思っていた。


「レ……レレ、レレレレレ」


 舌がうまく回らない。顔が熱くなっていく。心臓の鼓動も早くなっていく。

 なんで? 昨晩頭の中で何度も目の前の子の名前を反芻したのに。


「れれれれれ」


 ああ、フェアチャイルドさんが不思議そうな顔をしている。早く、早く次のナを口にしなくちゃ。


「ナギさん! 落ち着いてください!」


 ふいに僕の両手が冷たさに包まれた。気が付けば僕の目の前にフェアチャイルドさんの顔があった。

 心配そうに見つめてくる二つの紅い瞳。


「ナギさん……」 

「だ、大丈夫。あははっ、駄目だね、長い事名字の方で呼んでたから改めて名前で呼ぶと思うと緊張しちゃってるよ」


 深呼吸をして呼吸と心臓を落ち着かせる。

 落ち着けば大丈夫だ。名前ぐらい口にできる。

 気を取り直してフェアチャイルドさんの美しい真紅の瞳をまっすぐ見つめて名前を口にする。


「レナス……さん」


 口にして僕は過ちに気づいた。そして、すぐに後悔した。

 今まで築いていた物が崩れるのを感じた。

 フェアチャイルドさんに対して僕はずっと心に壁を作っていた。

 これ以上惹かれないように。きちんと自制できるように。僕の中の男の心が彼女を傷つけないように。

 距離を維持していた。僕が手を伸ばそうとしても届かないように、手を伸ばそうとしても取り返しがつくように心の距離を縮めないようにしていた。

 急いで直さないと。

 思い出せ。僕の身体は女なんだ。彼女とはいつまでも一緒にいられない。彼女と結ばれることはないんだ。

 我ながらなんて単純なんだろう。名前を呼んだだけでこんなにも気持ちが揺らいでしまうなんて。

 なぜ名前なんだ。今まで彼女とは一緒に寝たり膝枕してもらったりしたのに。なぜ名前を呼んだだけで。


「レナスさん……か。慣れないとやっぱり恥ずかしいね」

「はい。私もちょっとくすぐったいです」


 やめてくれ、名前を呼んだくらいで照れないでくれ。君の事を欲しくなってしまう。

 そんな事彼女だって望んでいないはずだ。

 ……本当に?

 違う。疑うな。疑えば今の関係が崩れてしまう。そんなのは嫌だ。今のままでいいんだ。仲のいい友達でいいんだ。彼女の幸せを想うならそれ以上を望むな。


「んふふ。お互いに慣れないとね」

「わ、私も名前で呼んだ方がよいのでしょうか?」

「僕の場合は名字の方が短いけど一文字だけだし、長さの問題は影響はないって言ってもいいくらいだから、ナギって呼ばれる方が好きだけど……好きな方で呼んでいいよ」

「ん……それでしたら私はやはりナギさんと呼びますね」

「分かったよ」


 早く壁を再構築させないと手が彼女の頬に伸びてしまいそうだ。

 気持ちを紛らわせる為に周囲を見てみると準備運動を終えたアイネがアールスに試合を申し込んでいる所を見つける事が出来た。


「あっ、アイネがアールスと試合するみたいだよ。いい勉強になりそうだし見ようよ」

「そうですね。アイネさんがアールスさんにどこまで出来るか興味はあります」


 アールスは二本の木剣を両手に、アイネは愛用の木の棒を両手で持って互いに距離を取って構えている。


「アイネが勝っちゃったりしてね」

「アールスさんが負けるはずがありません」

「たしかにアールスちゃんは強いですネー。あの歳であそこまで動ける人は見た事ないデース」


 そうだ、ミサさんもいたんだ。ふぇあ……レナスさんに意識を取られて忘れていた。


「ミサさんもアールスと戦ったんですよね?」

「最初の頃は勝てていましたケド、最近は手も足も出なくなっていますヨ」

「あははっ、僕と一緒だ。ところで昨日もそうでしたけど防具身に着けてないんですね」

「隙間に砂が入ってしまうから街中では着ない事にしたんデス。砂が鎧の隙間に入ってしまうと傷がついてしまいますからネー」

「ああ、なるほど。それじゃあ着れない訳ですね」

「あっ、動き出しましたよ」


 互いに隙を伺っていたのか動きのなかった二人。しかし、アイネが動いた。

 まるで小手調べだと言わんばかりに真っ直ぐに突っ込んでいく。

 小手調べでもその速さは全力だ。

 アールスは腰を低くしてアイネを待ち構える。

 間合いにアールスをとらえたアイネは木の棒の先端を勢いよく突き出す。

 そして、アールスは横に動いて回避する。僕の目からは一瞬当たったように錯覚するほどぎりぎりで避けている。

 攻撃を避けられたアイネは一度棒を引きもう一度突く。アールスはそれをまた避ける。

 何度も何度もアイネは突きを繰り返す。

 ぎりぎりで避けているせいでアールスは後ろに大きく下がる事も前に出る事も出来ないでいるみたいだ。


「なぜアールスさんは下がらないのでしょうか?」

「アイネの連続突きが速すぎて抜け出す隙が無いんだよ。

 それと受ければわかるけど、アイネの突きって的確に避けにくい嫌な所についてくるんだよね。

 その所為で逃げるための体勢を取らせてもらえないんだ。まさかアールスにまで通用するとは思わなかったけど。

 でもアールスもすごいんだよ。アイネのあれは攻撃を当てる為の技術なんだけど、それを避け続けてるんだから」

「ナギさんならどう対処しますか?」

「僕の場合は盾があるからね。攻撃を盾で受けて後ろに下がるなり前に出るなりするよ。盾がなくても鎧を着てればアイネの攻撃できる個所が減るから逃げる機会を作りやすくなると思うよ」


 今の二人の装備は簡素な物で関節と胸部を覆う軽鎧と兜を身に着けているだけだ。


「となるとアールスさんが抜け出すには受けても良い所に攻撃を誘導したい所ですが……それをアイネさんが考えないはずもありませんね。それに関節部分の防具で受け止め切れるほど軽い攻撃には見えませんし。

 となると残された手は胸部の鎧か兜で受け止めるか、木剣で棒を弾くくらいでしょうか」

「そうだね。積極的に行くならそれ位しかないかな」

「積極的……あっ、アイネさんの消耗を待つという手もありますね。でもそれの問題は避けられ続けられるかどうかですが……」

「そうだね……アールスなら出来るだろうけど、問題はアールス自身がその事が分かるかだね。初めて戦う相手の体力がどれくらいあるかなんて分からないんだから消耗策に出るのはちょっと考えにくいかな」

「でもアールスちゃんは状況を変えようとしているようには見えませんネ。アイネちゃんを見極めようとしているんでしょうカ?」

「そうかもしれませんね。でもそれはアイネも同じだと思いますよ」


 アールスが体力お化けだという事は伝えてある。今の状況が続けば自分が不利なのはアイネも分かっているはずだ。

 攻撃を避けられ続けているからと言って頭に血が上り判断を間違うアイネではない。

 そして、予想通り先に動いたのはアイネだった。きっかけが何だったのかははたから見ている僕からでは分からない。

 アイネは突きという点の攻撃ばかりをしていたが木の棒を振るという線の攻撃を繰り出し始めた。

 急に繰り出された線の攻撃にさすがのアールスもすぐには対応出来なかったようで体勢をわずかに崩した。

 そのわずかな隙をアイネは逃さず無駄にせず猛攻をかける。

 一度崩れた小さな乱れはアイネの攻撃によって揺さぶられ大きくなっていく。

 そして……アールスの左手の木剣がアイネの鳩尾の辺りを寸止めでとらえていた。


「……え、何があったの?」


 いきなりの展開に僕は隣にいるレナスさんの方に顔を向けると彼女も同じように僕の方に顔を向けていた。


「わ、分かりません」

「優勢だったのは……アイネだよね?」

「わ、私にもそう見えました」


 アールスの体勢が大きく崩れアイネが勝負を仕掛けた所までは分かる。アイネの勝ちだと確信していた。だがいつの間にか勝者が入れ替わっていた。

 ミサさんに意見を聞こうとミサさんの方を見るが、ミサさんも分からないのか肩をすくめている。

 ならばこういう時は目のいいカナデさんだ、と思ったがカナデさんは別の場所で弓を射ていた。これでは試合は見ていないだろう。

 試合後の挨拶を終えたアイネが僕に向かって頭を低くして走ってくる。

 そして、ある程度近づくとアイネは僕に向かって叫びながら跳んで来た。


「負けたー!」


 きっと僕が防具を身に着けてる事を忘れてるんだろうな。

 ぶつかる直前、僕は時を遅らせアイネをきちんと受け止める。

 時を遅らせても一応衝撃はあるが受け止める際に余裕をもって衝撃を逃がす事が出来る。

 全くアイネはしょうがない子だ。

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