55
戻れない。
帰れない。
そう言い切られたわけではない。
オレールの話しぶりでは、方法が分からないだけだというように考えることも出来る。
どこかに、私がこの世界に呼ばれた魔法のように、忘れ去られた帰る為の魔法は存在するのかもしれない。
でも、それを探す術があるのだろうか。
オレールが去り、白騎士たちも部屋を出た。
一人にしてもらった寝室で、私はぼんやりとベッドに横になっている。
眠れもせず、かといって起き上がる気にもなれなかった。
思い出そうとして、それをどうにか押しとどめる。
まだだ。
まだ、決まったわけではない。だから、まだ考えてはだめだ。
今は、いつも通りの自分を取り戻すことが先だ。
ホルテンズ王国に戻れる。
ソニアにまた会える。
そのことだけ考えて、今は過ごせばいい。
掴んでいた上掛けをぎゅっと握ると、両手首に痛みが走る。
入浴後、そのままにしていた傷から血が滲んでいた。
このままでは寝間着の袖が汚れてしまう。
オレールが、置いていった薬を思い出す。
手当をしよう。
この傷も、少しでも治して戻らなければ心配されるばかりだ。
大きく息をつくと、私は身を起こした。
お茶の片付けられたテーブルに、あの薬は残されていない。
ガウンを羽織ると、隣室に繋がる扉を細く開ける。
広い隣室の中央に、難しい顔をして座る三人が見えた。
「ユズコ? どうかしましたか?」
音も立てずに扉を開けたはずなのに、すぐにアルトさんが立ちあがった。
私はそちらに行っていいのか分からず、もう少しだけ扉を押す。
「具合がわるいのですか?」
心配そうに覗きこんでくれるアルトさんに私は首を横に振る。
「いえ、具合は悪くありません。あの、さっきの薬を使ってみたいんですが……だめですか?」
私の言葉に、アルトさんは少しだけ顔を顰める。
「だめではありません。が、あの不確かな薬を今ここでユズコに使うのは気が進みません。国に戻って中をしっかりと確認してから――」
「大丈夫です」
アルトさんの蜂蜜色の瞳が、驚いたように私を見返す。
上手く笑えていないかもしれないけれど、私は微笑んだ。
「大丈夫です。いまはアルトさんたちも一緒にいてくれてますし、そんな中で怪しい薬を置いてはいかないと思います」
答えを迷うアルトさんに、後ろから白騎士の声が掛かった。
「アルト。薬を出してやれ」
「ですが……」
「構わん。言う通りにしてやれ」
小さく息をはき、アルトさんは頷いた。
「わかりました。では、使ってみましょう」
「はい!」
アルトさんが薬を取りにその場を離れるのと入れ替わりに、ラビさんが扉の前に立った。
「手伝おう。……ユズコは、こちらには出ない方がいい」
そう言うとラビさんは、寝室へと入る。
私はちらりと居間を見てから、そっと寝室の扉を閉める。
白騎士は不機嫌そうに、空のテーブルを睨んでいた。
ラビさんの言うとおり、こんな姿の私が他の人の目に触れるのは騒ぎを呼ぶだけだ。
目は黒いし、魔力も持っていない。おまけに自分で言うのもなんだけど、かなりのやつれ具合だから、それこそ幽霊を見たとかいう話しになってしまうだろう。
すぐに薬を持ったアルトさんが部屋に入ってきた。
テーブルの椅子へ促されると、ラビさんは私の寝間着の袖を捲った。
包帯の無い両腕に、くっきりと赤い線が刻まれている。
ラビさんもアルトさんも、それを見て分かりやすく顔をしかめた。
そんな二人に、私はへらへらと口を開く。
「痛みはそんなにありませんから、きちんと手当てをしていれば大丈夫だと思うんです。あぁ、包帯もちゃんとしないとだめですよね。自分では上手く巻けなくて、お風呂を出てからはそのままにしてしまっていて――」
二人はなにも言わなかった。
「――そうだ。しばらく、ラビさんに手当てをお願いしてもいいですか?」
私の問いかけに、ラビさんは大きく息を一つはいてから頷いてくれた。
アルトさんは手にしていたオレールの薬と、布や包帯をテーブルへ並べる。
まだ心配そうにしているアルトさんに見守られながら、ラビさんは薬の小瓶を開けた。
そしてラビさんの慣れた手つきで、手当ては素早く済まされた。
私の両手首は、きっちりと包帯で巻かれている。
オレールの用意した薬はトロリとした液体で、傷に容赦なくしみた。
心配しながら手当てをするラビさんとアルトさんを前に、こぼしそうになった悲鳴はどうにか飲み込むことが出来た。
かわりに何とも気の抜けた、曖昧な笑みを浮かべるのが精一杯だった。
オレールの話では、もう数日のうちにここを出る手筈が整うとのことで、私はその際には衣装箱に入ることになるという。
デュドネが簡単に砕いてしまった魔法石の替わりになる物はない。
あの魔法石が無ければ、私はこの世界の人には動く死体にしか見えないのだ。
いくら黒い目を隠しても、魔力を帯びない身体を誤魔化すことは簡単には出来ないから、それならば姿ごと丸ごと隠して運ばれるのが一番安全だろう。
ソニアがあの魔法石と同じ物を、どのくらいの期間で再び作ることが出来るのかは分からない。
とにかくそれまでは、今のように部屋に籠って隠れて過ごすことになる。そのことに私は当然、異存はなかった。
私を衣装箱に入れて移動すること、城の部屋に籠らせることに、アルトさんもラビさんも気乗りしない様子なのが逆に申し訳ない。
「窮屈な思いをさせることになりますが……」
「大丈夫です。それよりも、私はお城に入っていいんでしょうか?」
もしもお城で今の私が見つかってしまえば、アルトさんや白騎士には迷惑などでは済まない事態になると思う。
それならいっそ、どこか山奥にでも隠れていた方がいいのかもしれない。それはそれで、手間を掛けてしまうけれど。
そんな私の提案は、アルトさんに即座に却下される。
アルトさんは少し強い調子で、私に言い聞かせた。
「ユズコ。目の届かぬ所へ居させることのほうが、よほど私たちには心配です。不安はあるかもしれませんが、どうか城へ」
「それに、ホルテンズの城に居づらい様なら、俺の国へ来てもいいんだぞ」
口を挟んだラビさんをアルトさんは睨んだ。
「あなたはそろそろ帰国されたらどうです? いろいろとお仕事の途中なのでは?」
「いや。最後まで付き合うつもりだ。それとも、俺は邪魔か?」
「ええ。そうですね」
やんわりと睨み合う二人に割って入る気にはなれず、私は窓の外を見た。
外に広がる景色は城下街だ。
淡い色の屋根石の間に、ぽつりぽつりと黒い点が見える。
私の視線の先に気が付いたアルトさんは、同じように窓の外を見た。
「あれは弔いの黒旗です」
「弔いの……?」
「ええ。先日、この国の王が崩御されました。いまこの国の国民は、その喪に服しているのです」
街中に広がる黒い点を眺めながら、私はふと薄水色の瞳の男を思い出す。
フェリクスカミーユはこの国の王子だ。
王が亡くなったということは、彼は父親を亡くしたということなのだろう。
「恐らく私たちは、王の葬儀の前に、ここを出ることになるでしょう」
アルトさんの言葉に頷くと、私は窓から視線を逸らした。
ラビさんがカーテンを引き、窓は薄布で覆われる。
傾き始めた陽が、カーテンを赤色に照らした。
それから数日。静かな毎日が過ぎる。
私は寝室に籠ったまま、時間を過ごしていた。
食事は多少の無理をしながら、飲みこめる量を増やしている。
相変わらず続く頭痛と、食後に訪れる腹痛には慣れ始めていた。
ラビさんが朝晩と手当てをしてくれている両手首は、残念ながら大きな変化はなかった。
血こそ滲まなくなったけれど、赤い傷はまだくっきりと残ったままだ。
その日、朝食が済むと寝室に衣装箱が運び込まれた。
私には寝間着ではなく、外出に向けた服が用意されている。
寝間着と同じように、大きめの寸法の服は男物だった。
「有難く思え」
着替えを私に押し付けるように渡した白騎士に言われて、ようやく気が付く。
いま着ている寝間着も、これから着る服も、どうやら白騎士の物だったのだ。
「それは、ありがとうございます」
私は頭を下げる。
恐れ多くも、王子様の衣装を貸して頂けていたのだ。
そういえば、代わる代わるに着ていた寝間着はいつか洗ったものと似ていた気がする。
ぶかぶかのシャツとズボンの袖を折り、丈を折る。
ジャケットの代わりに、大きなマントをすっぽりと巻きつけられた。
着替えが済んだ私は、ぽっかりと蓋を開ける衣装箱に近づく。
大きな箱は、足を伸ばしては座れないけれど、少し膝を折った状態で入ることができそうだ。
すごく広々としている訳ではないけれど、身動きもとれないほど狭くもない。
箱の中には衣装や布が入っている。
おかげで、箱の堅い感触にお尻を痛めることはなさそうだ。
ラビさんが軽々と私を抱き上げ、箱の中へとそっと下ろしてくれる。
アルトさんが寝室のベッドの上から、ふんわりとしたクッションを二つ選び衣装箱へと入れた。
「なるべく小まめに声を掛けますからね」
アルトさんが心配そうに言う後ろから、白騎士が素っ気なく小さな袋を衣装箱へ落とす。そして、小さなランタンを私の手の中へ押し付ける。
ランタンには黄色い灯りが燈っていた。
「あ、ありがとうございます」
白騎士は私のお礼になぜか眉を顰める。
「せいぜい大人しくしていろ」
そう言って、早々に衣装箱から離れてしまう。
私は箱の中に座った。
小さなランタンをぎゅっと胸に抱くと、アルトさんとラビさんを見上げて頷く。
衣装箱の蓋はゆっくりと閉じられた。
がちゃりと鍵のかかる音が箱の中に響く。
ランタンの灯りが、箱の中をほんのりと照らした。
柔らかな布に埋もれて、私はランタンの黄色い灯りを見つめた。
しばらくすると、ぐらりと衣装箱が揺れ始める。
私を入れた衣装箱は、丁寧な動作で運び出され始めた。




