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 自分の顔の前にかざした指先すら見えない。

 濃く深い暗闇に、いつまでたっても目が慣れることもなく、目の中を塗りつぶされてしまったような気がする。

 耳に聞こえるのは、自分の押し殺した息遣いと乱れた鼓動。

 まとわりつくようなぬるい空気に、気分はずっと悪いままだ。



 唐突に、それはやってくる。

 目には映らないけれど、吐き出す息が途端に白くなるほど凍りだす。

 足元から這い上がる悪寒。

 きっと目には何も映らないのだろうけど、恐怖に両目を硬く閉じてしまう。



 なにかが、音もなく這い寄る。

 凍えるような湿り気を帯びたそれが、私の身体を蝕み始める。

 耳を塞ぎたくなるような悲鳴は、私の喉から絶え間なく絞り出された。

 あらゆる負の感情が、形を持って私を取り囲みゆっくりとその口を開ける。


 目を硬く閉じているはずなのにそれが分かって、私は最後の悲鳴を上げた。





「おい!! どうした!?」


 両肩を強く掴まれて、私は激しく揺さぶられていた。

 目の前に、驚いた顔をした白騎士がいる。


「どこか痛むのか?」


 横たわっている私を見下ろす顔を見上げる。

 金色の髪、明るいブルーの瞳、不機嫌そうな顔つき。

 白騎士が間違いなく、私の目の前にいた。

 その顔を見たまま大きく息を吸い込めば、ぼんやりしていた意識もしっかりしてくる。


「夢でも見たのか? うなされて、悲鳴まで上げていた」


 白騎士は怪訝そうに、私の肩を掴んでいた手を離す。

 私はゆっくりと起き上がった。

 ここは、どこかの部屋の寝室のようだった。

 広いベッドに横たわっている。

 部屋は広く豪華なことが、薄暗く灯りを落とした今の状態でも見てとれた。


 天井の灯りが落され、壁際に点々とある灯りも消され、広い部屋に燈るのは、ベッド横のテーブルに置かれた小さな灯りひとつだけだった。

 暗い。

 そのことだけで、鼓動が早まっていく。

 せわしなく部屋の暗がりに視線を巡らせる私を、白騎士はじっと見ている。


「なんだ? 一体どうしたというんだ?」

「……灯りを。灯りを点けてください」


 震える声しか出ない私を見下ろしてから、白騎士は部屋中の灯りを点けてくれた。

 煌々と燈る灯りに照らされて、私はほっと身体の力を抜く。


「気分は?」


 すっかり明るくなった部屋に立ち、白騎士はこれでどうだと言わんばかりに口を開く。


「大丈夫です」

「そうか」


 素っ気ない返事をして、白騎士はベッド脇に寄せてあった椅子に腰を下ろした。

 不機嫌そうに足を組むと、こちらを見る。

 どうやら、ずっとそこに居てくれたのかもしれない。


「シュテファンジグベルト様。……助けていただき、本当に感謝しています。ありがとうごさいました」


 久しぶりに口にした白騎士の名前は、思っていたより滑らかに口から出た。

 白騎士は私の目を見ると、ゆっくりと口を開く。


「フェリクスのしたことを詫びてはやれぬ。……だが。……済まなかった。お前を、むざむざとこの様な目に合わせることになったのは、俺の落ち度だ」

「シュテファンジグベルト様……」


 白騎士は目を伏せる。

 そして、それ以上はもう何も言わなかった。

 私も言うべき言葉を見つけられず、ただ黙って目を閉じた白騎士を見つめていた。



 程なくして、部屋の扉が叩かれた。

 ノックの後に部屋に入ってきたのは、アルトさんとラビさんだった。

 改めて見る二人の顔に、再び安堵感がこみ上げる。


「よかった。気が付いたのですね」


 ほっとしたようにアルトさんが微笑んでくれる。

 ラビさんは運び入れた大きなお盆を部屋のテーブルに置くと、ベッドの脇に立ち私を見下ろした。


「具合はどうだ?」


 私の答えを待たずに、心配そうな深紅の瞳を遮るように、アルトさんがラビさんの前に立つ。


「なにをする!」

「あなたは、お茶の用意をするのでしょう? さっさと始めてください」


 不満気な声を上げたラビさんに、振り向きもせずにアルトさんはそう告げる。

 ラビさんは眉を寄せながらも、お盆を置いたテーブルへ戻った。

 アルトさんはベッドの脇に膝を着く。

 さらりとした珈琲色の髪が間近で揺れる。

 穏やかな蜂蜜色の瞳で私をじっと見ると、アルトさんはその手で私の頬をそっと一度だけ撫でた。


「ア、アルト!」


 突然、白騎士が椅子から立ち上がってアルトさんを呼んだ。

 けれど、アルトさんはそれに振り向かないまま口を開く。


「もう、大丈夫です。……辛い目に合わせましたね。落ち着き次第、ホルテンズ王国に戻りましょう」


 そう言って、優しく私に微笑むと、アルトさんはゆっくりと立ち上がる。


「シュテフと私は少し部屋を出ます。すぐに戻ってきますから、ユズコはお茶でも飲んで休んでいてくださいね」


 そう言うとアルトさんはラビさんをちらりと見てから、白騎士と一緒に部屋を出ていく。

 扉が閉まると、ラビさんが大きな手で私の頭をわしゃりと撫でた。


「……とっておきの茶を淹れてやるからな」


 低く落ち着いた声に私が安心して頷くと、ラビさんはお茶を淹れ始めた。


 久しぶりに見るラビさんの横顔には、見慣れた無精髭はやっぱりなくなっていた。

 髪をきれいに整えて、深い色合いの衣装を身に着けている。

 さきほど目にした、白騎士の好みそうな明るい色調の衣装から着替えたようだ。

 ふと、視線をラビさんから自分へと移す。


 いつの間に着替えたのか、私は与えられていた白いワンピースから柔らかなラベンダー色の寝間着を身に着けていた。

 そっと上掛けを捲ってみると、上と揃いのラベンダー色のズボンを履いている。

 上下とも私には丈が大きかったようで、袖も裾も丁寧に折られていた。

 土に汚れていたであろう足も、すっかり綺麗になっている。


「出来たぞ」


 ラビさんが大きなカップを手にしていた。

 手渡されたカップを両手で包み込むと、ずっしりと重たく温かい。

 カップの中身は、濃い目のミルクティーのようだった。

 ゆっくりとカップを傾ける。

 熱い飲み物が身体に入ると、芯からじんわりと温められていく。

 ミルクで淹れた紅茶は、ほんのりとした甘さと、微かなスパイスの刺激がある。


 柔らかなチャイのような紅茶を飲む私を、ラビさんはベッドの横の椅子に座って見守っている。


「飲めそうか?」

「はい。美味しいです」

「それなら良かった。俺の国では、紅茶はこうして入れることが多い。本当はもっとスパイスを効かせるんだが、今日はこの位のほうがいいだろう」


 安心したように言うラビさんに頷き、私はまた一口それを飲んだ。

 

 チャイはあんまり好んで飲むことはなかったけれど、このスパイス控えめの優しいミルク紅茶はこっくりと身体に染みた。

 戻ってきた味覚が、お茶の甘みを、スパイスの刺激を、美味しいと教えてくれる。


 大きなカップ一杯のミルク紅茶を飲み干すと、ラビさんは私に横になるように告げた。

 それに大人しく頷いて、枕に頭を乗せて上掛けを引き寄せる。

 

「朝まで眠るといい。まだ、真夜中だ」


 そう言うとラビさんは、部屋の灯りを落そうとした。


「ラビさん!」


 慌てて起き上がって、少し大きな声を出した私に、ラビさんの手は止まる。


「なんだ? どうかしたか?」

「灯り……、点けたままにしてほしいんです」

「灯りを? 明るくては、休まらないだろう?」


 私は首を横に振る。


「大丈夫です。だから、このままに」

「……わかった」


 ラビさんはそのまま椅子に戻ると、私を横になるように促す。


「ここにいる。ユズコが起きるまで、ここから離れない。だから、安心して眠れ」


 私は頷くと、明るい部屋を見ながら横になった。


「眠れそうか?」


 私は小さく首を横に振る。

 身体は疲れている気がしたけれど、まだ目を閉じる気にはなれなかった。

 ラビさんは微笑むと口を開いた。


「ソニアヴィニベルナーラは、国境の村で待っている」

「ソニアが?!」

「ああ、ここを出ればすぐに会えるだろう。ここへも一緒に来たがったが、そんな大所帯ではな……」


 ソニアの名に喜んだあと、私は表情を曇らせた。

 きっとまた、ソニアにも大変な心配と迷惑を掛けてしまったのだ。


「あと、あの魔法使いもな。ソニアヴィニベルナーラと共に待っている」

「クヴェルミクス様も?」


 ラビさんは苦々しく頷き、眉を寄せた。

 私は小さく息をはく。


「たくさん迷惑をかけてしまいました。みんなに……」


 小さな声は、ラビさんが付いたため息に吹き飛ばされる。

 ラビさんは、まっすぐと私の目を見つめた。


「そうだな。だが、誰もが自ら望んで動いたことだ。ユズコがそれを必要以上に気に病むことはない」


 私は、なにも言えなかった。

 胸の奥をぎゅうっと鷲掴みにされた気がする。

 ソニアのことを思って、なんだか泣きそうになった。

 ソニアにも、クヴェルミクスにも、ラビさんにも、アルトさんにも、そして白騎士にも。

 たくさん迷惑を掛けたけど、私は助けて貰えて嬉しかった。

 彼等に助けて欲しいと、ずっとずっと願っていたのだ。


「だからな、早く元気な顔を見せてくれ」


 ラビさんの言葉に私は何度も頷いた。

 口を開いたら泣きだしてしまいそうだから、口を閉じたまま何度も頷いた。




 それから、私が眠くなるまでと、ラビさんはぽつりぽつりと話しをしてくれた。

 ラビさんの国、アライスの話を。

 

 一面に赤い蓮の花が咲き誇る湖。

 白と黄色の砂の砂漠。

 瑠璃色に輝くアライスの王城。


 私は黙ってその話に耳を傾けて、見たこともない景色を想像した。

 さっき飲んだ紅茶のスパイスが、身体の中を温め続けている。


 やがて、ラビさんの声が少しづつ遠く聞こえて。

 私は重くなった目蓋をそのまま閉じた。



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