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36

 私が際立って清潔な性質という訳ではない。

 ただ産まれた時からほとんど毎日、その行為に慣れ親しんで暮らしてきた。

 それがあるのは、私にとってはごく当たり前の日常なのだ。


 お風呂。


 広大な草原を突っ切る旅路に、そんなものを求める方がどうかしているのだろう。

 そもそも野宿をしているのだから、お風呂なんて発想を浮かばせるだけ無駄ということは分かっている。

 分かっているけれど、やっぱり考えずにはいられないのだ。

 お風呂に入りたいなぁ。と。


 季節は真冬だし、連日の寒さに汗ばむようなことは無い。

 入浴こそは出来ないけれど、夜には布をお湯で濡らして身体を拭いているから、直接的な不快感を感じてはいない。

 それでもやっぱり、入浴欲とでもいうものが、私の中で欲求不満だと日々訴えていた。




「温泉……」


 絞り出すように呟いた私の目の前には、もくもくと白い湯気を漂わせる泉。

 夕日に染まったオレンジの水面から、確かに感じる温かく湿った空気。

 硫黄のような匂いこそしないけれど、そっと手を浸してみればじんと熱い湯加減。


 今日の野宿場所が決まり焚き木拾いをしていた私は、宝物を見つけ出したようだ。

 くるりと踵を返せば、すぐそこにラビさんが火を焚きだしていた。

 まだ数本しか拾えていない枯れ枝を胸にぎゅっと抱き、私は早足にラビさんの元へ戻る。


「ラビさんっ!!」

「……どうした?」

「こっち! ちょっとこっちに来てください!!」


 やや興奮状態の私に、怪訝そうな顔をするラビさんを温泉へと連れて行く。

 湯気の上がる魅惑の泉を目にして、ラビさんは予想外にも平坦な反応だった。


「あぁ。温泉か。この辺りには、よく出来るらしい。ここは地図には無かったから、新しいものだろうな」

「え!? よく出来るって、コレ、珍しくないんですか? よくあるものなんですか?」


 まくし立てる様な私に、ラビさんは頷いた。

 それなら道中の野宿場所は、温泉付きにしてほしかった。と唇を噛んでしまう。


「いや、確かに、珍しくはないようだが。俺の持っている地図にあるのは、どれも少し街道から離れていたしな……」


 ラビさんが言うには、この辺りで温泉が出ることは、さして珍しいことではないようだ。

 ただ、温泉の湧いたり枯れたりの周期が不安定なようで、何年もそこにあった温泉がある日突然枯れてしまったり、いま目の前にある様に、新しい温泉が突然出来あがったりする土地らしい。

 だから、地図にあっても、確実にそこに温泉があり続けているとは限らないそうだ。

 ラビさんの説明に頷きながら、私は温泉を見つめる。

 温泉は出来て日が浅いからなのか、澄んだお湯を静かに湛えていた。


「それで、これには、入ってもいいんですか?」


 ウズウズと尋ねる私に、ラビさんは首を傾げる。


「入る? ……別にそれは構わないが、明日の夜には町の宿屋に入れるぞ?」


 腑に落ちない様子で温泉と私を交互に見るラビさんには、私の言動が理解できないようだ。

 明日の夜には宿屋で入浴できるのに、なぜ今わざわざ野原の温泉に入りたいと思うのか不思議なのだろう。


「じゃあ、寝る前に入ることにします」


 きっぱりと宣言した私に、ラビさんは再び首を傾げたけど、私は軽い足取りで焚き木拾いを再開した。




 温泉は思ったよりも水嵩があった。

 暗くてよくは見えないけれど、どうやらすり鉢状になっているようだ。

 温泉の縁から少し進んだところで、腰ほどの深さがある。

 あまり深くては座れないので、その辺りにそっと座る。顎先を水面に触れさせながら、夜空を見上げる。


 少し気になるのは温泉と焚き火との距離が近いことだけど、あまり離れ過ぎていたら、こんな暗闇の中で露天風呂に浸かる許可は出なかっただろうし、さすがに私も諦めたと思う。

 ぱちぱちとはぜる焚き火の音を聞きながら、私は温泉の中でゆっくりと身体を伸ばす。


 見上げれば満天の星空と言いたいところだけど、あいにくの曇り空。流れる雲間から、時々覗く月を眺めた。

 星が見えても、見知った星座の一つも見当たりはしない夜空で、月だけは同じに見えるから、眺めても不安にならずに済む。

 少しずつ丸くなりそして細く形を変える月は、私が知っている月と同じだから。

 淡くて柔らかい、だけど冷たい光が雲間から落ちてくるたびに、胸元に沈む緑の魔法石がお湯の中でぼんやりと光った。



 十分に体を温めて、のぼせる一歩手前で私は温泉を出ることにした。

 体はすっかり温まり、熱いくらいだ。


 服を置いた岩陰に向かって、そろりと立ち上がる。

 冷えた夜の空気が温まった肌に心地好い。


 満ち足りた気持ちで湯の中を歩きだした一歩目で、私の足は予想外にも急激に沈み込んだ。


「うわっ。とっ、あ、えっ!!」


 私の上げた悲鳴は小さかった。

 けれど、立てた水音は夜のしじまを破るには十分だった。

 派手な水音に焦げ茶の馬が不安そうに鼻息を荒げたのが聞こえたのを最後に、私に聞こえるのはごぼごぼとくぐもる音ばかり。

 踏み外したのか滑ったのか、とにかく不意に足を獲られて温泉の中へ倒れ込んだ。

 立ち上がろうとする足底が、水中を虚しく掻く。

 思っていたよりも唐突に深くなった水深に、驚いた身体が混乱して大量の水を呑みこんでしまうと、身体に続いて思考も混乱した。

 

 溺れている。

 

 さっきまで、しんみりと平和に浸かっていた温泉が、私を底へと引きずり込もうとしていた。

 泳げない訳ではなかったのに、混乱に翻弄されて動く手足は私を浮上させなかった。


 苦しい。


 無計画に吐き出した息が底を突いた瞬間、霞んだ視界に黒い大きな影が見えた。

 ざばりと大きな音を立てて、私は温泉から掬い上げられた。

 反射的に大きく空気を吸い込むと、気管に残った水にむせる。


「げほっ!! けほっ! けほっ!」


 荒い呼吸を繰り返しながら、失った酸素を存分に吸い込む。

 心臓がバクバクと跳ねている。


「大丈夫か?」


 心配する低音が頭上から降って来て、私は頷こうとして凍りついた。

 一生懸命に繰り返していた呼吸が、ピタリと止まる。

 濡れた素肌を夜風が撫でて、ずぶ濡れの身体からぽたんと大粒の滴が落ちた。



「う、う、うわぁぁぁぁぁぁっ!!」


 暗い草原に私の絶叫がこだまする。

 私は叫びながら、私を支え抱えるモノにがばりとしがみ付いた。

 黒いマントに顔を埋めて、身体の表側も同じようにぐいぐいと埋められるだけ埋めた。


「お、おい? 大丈夫なのか?」


 うろたえる様な声が、再び頭の少し上から降っくる。

 溺れた私を助けてくれたのは、もちろんラビさんだ。

 ラビさんはご自分の衣類が濡れるのも厭わずに、お湯に沈む私を掬い上げてくれたようだ。

 掬い上げられた私の最優先事項は呼吸だったので、本能に従うまま呼吸を繰り返した。


 ……ラビさんに、いわゆるお姫様抱っこをされた状態で。

 ……全裸で。


 状況を再確認して、私は再び悲鳴を上げてしまう。


「ななな、なんてことを! いいい、いえ、た、助けてくれて、あ、ありがとうございました。……うわぁぁぁぁん!」


 半泣きで叫びながらこれ以上埋められないのに、しばし晒していた身体の表面をラビさんのマントへ埋めるために抱きつく。

 この姿勢になると、身体の裏側は丸見えだろうけど、もうそれはいい。

 私はお尻を捨てることにした。

 表と裏どちらが恥ずかしいかと言ったら、断然、表側なのだから。

 それに、もっと重要な事は、今は夜で私の目が黒い時間帯だ。

 例え、身体の表側を晒しても、この目の色は隠し通さなければいけないということは、混乱極まる今の状態でも忘れてはいない。


 つまり、お尻は丸出しだけど、目を隠せて、胸やらなんやらも隠せるこのシガミツキの体勢以外に私が取るべき方法は無いのだ。


 羞恥にわななく私を抱きかかえたラビさんは、深い息を吐くと歩きだした。

 温泉から出たラビさんの腰から下が濡れている。ブーツから水を含んだ足音が立つ。


「た、大変な、ご、ご迷惑をおかけしました……」


 私の消え入りそうな小さな声に、ラビさんは無言で頷いた。


「それで、かさねがさねで申し訳ないのですが、その、このまま、馬車まで連れて行っていただけますか? あ、あと、それも拾って頂けますと……」


 猛烈に恥ずかしくて、今すぐラビさんの腕から飛び降りて幌馬車まで全力疾走したいところだけど、残念なことに私の腰はすっかり抜けていた。

 今ここで腕から下ろされても、走るどころか立ってもいられないと思う。

 ラビさんは私の意図するところをくみ取ってくれたのか、岩の上に置かれた衣類一式を掴みあげると馬車へと移動してくれる。

 幌の隙間から私は転がり込む様に、馬車の荷台へ入った。

 暗がりに一人になると、改めて顔に血液が集まってくる。


「足は大丈夫か? その、なんだ……、子供扱いをして済まなかったな」


 ラビさんの気まずそうな声に、私の顔はこれ以上無いくらい熱くなる。

 あまりの事に返事も出来ず、口は虚しく開閉を繰り返すだけだった。

 今まで散々子供扱いして、私の大人なんですけど発言に耳を貸さなかったのに、たったいま何を持って私を大人認定したのか考えたくない。


 静まり返る幌馬車に向かって、ラビさんは少し焦ったように言葉を続けた。


「いや!! 暗かったからな!! 殆ど何も見えてない! だから気にするな」


 気にするなと言われて、すぐそう出来るはずもなく、私は返事にもならない小さな呻き声を漏らす。

 殆ど何も見えてないって、……少しは何かが見えたということだろうか。


「……何かあれば、声を掛けてくれ」


 それだけ言って、ラビさんの足音は馬車から離れていく。

 私は濡れた身体のままなのにも構わず、毛布に顔を押しつけて声を上げずに身悶える。

 寝よう。

 さっさと寝て、この出来事を忘れる努力をしよう。

 

 そう決意したものの、その晩は朝までフラッシュバックするお姫様抱っこに一睡も出来なかった。




 翌朝。非常に気まずい時間を過ごしてから、幌馬車はその場を発った。

 ラビさんは昨夜のことには触れてこなかったので、私もその件については無いこととして振る舞う努力はしてみた。

 それでも微妙な空気感に、朝ご飯はほとんど味がしなかった。


 ラビさんが荷台に入って休み、御者台に一人になると、思わずため息がこぼれた。

 こんな事になるのなら、うかうかと温泉などに入るべきでは無かったと反省する。

 ラビさんに要らぬ気を使わせてしまっていることが心苦しい。

 ここは私から積極的に、気まずい空気を払拭していかなければ。

 だいたい、凹凸に乏しい私程度の裸を披露されたところで、ラビさんになんの得も無いだろうし。

 せめてもう少し、この辺りがぽわんとしてきゅっとしてぷりんとしていたら、ラビさん的にも目の保養になったかもしれないけれど……。と、自分で考えておいて、寂しい気持ちになってしまい、視線を草原の彼方へと向けて考えるのを止めた。



 あれ?と思ったのは、昼過ぎだった。

 昼ご飯の後片付けをしながら、身体に僅かな違和感を感じる。

 寒さにふるりと震えて、手にしていた温かなお茶を一息に飲み干す。

 温かいフフ茶が身体に入ったのに、またふるりと寒さに震える。

 今日は朝から陽の射す温かな日なのに、この寒気は一体?

 私はかたかたと小さく震える身体に首を傾げながら荷台に入る。

 夜には町に入るので、御者台にはラビさんが座り、幌馬車が走りだす。


 静かに前を向く黒いマントに覆われた広い背中と、くるくるでもさもさの赤毛に包まれた後頭部を眺める。

 昨夜の出来事が尾を引いているから、今日のラビさんはいつもより寡黙だ。


 荷台の木箱に少し身体を預けて目を閉じた。

 なんだか頭が重いのは、昨夜眠れなかったからだろう。

 背すじと関節が、なんとも言えない心細い感じを訴えてきた。

 あぁ、この感覚、覚えがあるなぁ……。

 そう思いながら、私はコトリと眠りに落ちた。



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