五章 歪んだ日常⑧
『ちょうど優と一緒にいたからよ。そこまでバイクに乗せてきてもらったんだ』
暗くて顔がよく見えない。千里はまっすぐに目の前の男を見つめていた。後ろ手に組んだ手にはナイフが力強く握られている。
――嫌……。
ゆっくりとした足取りで千里は目の前の男に近づいていく。
――嫌だ、助けて! 嫌っ!
『……どうした?』
男のほうもこちらに近づいてくる。近づくにつれて、互いの姿もはっきりと見えてくる。
――逃げて! 逃げてよ、孝二!
闇夜から浮かび上がってきた、男の顔。見慣れた自分の顔。
その顔は驚愕に満ちていた。
『千里! いったいどうしたんだ!?』
映像の孝二が叫ぶ。千里の顔色の悪さと服の乱れに気付いたようだ。
――孝二、逃げてよ。何で逃げてくれないの!?
孝二がこちらに近づいてくる。その度に千里の悲痛な叫びが頭の中に響く。
『千里!』
孝二の手が千里の肩をつかむ。千里は孝二の目をまっすぐに見つめる。孝二の瞳に映る千里の顔は微笑んでいた。だが、それは今の孝二にはとても悲痛な笑みに見えた。
『ちさっ……!』
映像の孝二の言葉が途絶えた。
目の前の孝二は大きく目を見開き、喉の奥から声を出そうとしていた。だが、その口からは乾いた空気の流れる音しか聞こえなかった。やがて肩をつかむ力が一瞬強くなったかと思うと、まるで糸の切れた人形のように孝二は崩れ落ちた。
――あ、あ……。
千里の手は真っ赤に染まっていた。
――嫌ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!




