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歴史

 動きを止めた男たちのあいだを、冷たい風が灰を巻き上げながら吹き抜けてゆく。


「やるんか?」


 デモステネスは、ぼそりと尋ねた。

 もちろんクレオンに対してだ。


 再び最前線から少し下がった位置で、クレオンは、じっとスパルタ人たちの姿を見つめていた。

 アテナイ軍に周囲のぐるりを取り巻かれ、まるで小さな丘のように、傷だらけの盾を立て巡らせて動かずにいる男たちの姿を。


「あと、一度や。あと一度、ぶつかれば、彼らを全滅させることができるやろう」


 クレオンとは視線も合わせずに、デモステネスは続けた。

 戦列の持ち場を放棄するという先ほどの暴挙に腹を立てている、わけではない。

 彼の人間性については、もう諦めている。

 デモステネスがクレオンを見ないのは、彼もまた、スパルタの男たちの姿から目が離せなかったからだ。


「もうすぐ、君の作戦が成る。まさか本当にできるとは、思うてなかったけどな。ともかく、あと一押しや。……いつ、突撃する」


 デモステネスの言葉に、クレオンが振り向いた。


「僕の悪い癖やわ」


 彼は、ぽつりと呟いた。

 デモステネスには、その言葉の意味が分からなかった。

 クレオンの声も表情も、静かだ。

 その理由も分からなかった。

 ついにこのような状況に至ったのであるから、もっと興奮し、狂騒してもよさそうに思えた。


「僕なあ、どんな時でも、ついつい考えてしまうねん。もっと、効果的な方法はないか。もっと、劇的な方法はないか……」


 囁くようなクレオンの声に含まれた感情の種類を判別し、デモステネスは驚いた。

 彼は緊張しているのだ。

 これまで誰も手にしたことのないものに、手を伸ばす直前の緊張。

 少しでも加減を間違えれば、それは指先をすり抜け、永遠に手の届かぬところへ滑り落ちてしまう――


 彼は不意に決然と顔を上げ、味方のあいだを縫って進み出ていった。

 全軍の前に出ると、


「そこまでや、スパルタ人諸君!」


 クレオンは両腕を広げ、朗々と声を張り上げた。


「僕たちは勝利を望むのであって、流血を望むのではない。君たちにその意思があるのならば、今こそ武器を捨て、投降したまえ! そうすれば、必ず諸君らの命を助けると、ゼウスの御名にかけて誓おう!」




「もはや、これまでですな」


 頭からかぶったように全身を返り血で染めたパルティオスが、静かに言った。


「もう一度、突撃しましょう。それで終わりです」


 アテナイのクレオンが発した言葉は、静まり返った戦場に響き渡った。

 彼らはそれを聞いていたが、もはや怒りをあらわにする者はなかった。

 彼らは掟に従い、粛々と運命を受け容れようとしていた。


「フェイディアス殿」


 半面を縦に切り裂かれ、右目を失ったフェイディアスに、皆の視線が集まる。

 総司令官エピタダス将軍が死んだ今、この場の指揮権は《獅子隊》を預かる彼に委ねられていた。


「号令を」


「共にゆきましょう……名誉と共に」


「我ら皆、スパルタの戦士の名に恥じぬ最期を、奴らに見せつけてやろう!」


「……確かに、これまでだ」


 いまや本当に《片目のフクロウ》となったフェイディアスは、傷の痛みなど微塵も感じさせない、普段通りの口調で言った。

 いや、実際に痛みなど感じていないのかもしれなかった。

 極限の場面において、人は、しばしば肉体の苦痛を忘れる。


「皆、覚悟はできているな」


 フェイディアスの言葉に、男たちが一斉に頷く。

 彼らは一様に静かな顔つきをしていた。

 先ほどの突撃の直前とは異なり、その表情は、もはや穏やかでさえあった。


「俺たちはスパルタの戦士。死も、苦痛も、恐れることはない」


 フェイディアスは語りながら、ゆっくりと仲間たちの顔を見回した。

 ずいぶんと少なくなってしまったとはいえ、まだ、戦える。

 スパルタ軍では、指揮官の命令は絶対のものだ。

 フェイディアスが一言、号令を発すれば、彼らは突撃して最後の一人まで戦い、決して敵に背中を見せることなく、前を向いて死ぬだろう。


 仲間たちひとりひとりの顔を見つめながら、フェイディアスは、レオニダスのことを思い出していた。

 男たちの命を預かるとはこういうことであったかと、今、震えが来るほどの重さで感じる。

 レオニダスが、どれほどのものを背負いながら戦っていたのか。

 どれほど偉大な人であったのかを――


 彼は何度か大きく息をつき、自分の声に震えがあらわれることがないと思えるまで待ってから、再び言った。


「俺たちは、敗れた。確かに敗れたが、正々堂々の戦いで敗れたのではない。敵の卑怯な戦術のために敗れたのだ。敵がどんな汚い手を使おうと、俺たち自身は、俺たちの名誉を貶めるような真似は決してしなかった。そして今、最後の一人が斃れるまで戦えば、俺たちの名は、熱き門テルモピュライで死んだ三百人の同胞たちのように、永久に人々の記憶に留まるだろう」


 血塗れの顔で、男たちは満足げに微笑した。

 男たちの顔を見返しながら、フェイディアスは続けた。


「最後の一人が斃れるまで戦う。簡単なことだ。……ああ、そのほうが、簡単だ。それに、美しい……」


 不意に途切れたフェイディアスの言葉に、戦士たちは怪訝そうに瞬きをした。


「ああ……そうだ、その方が、美しい。だが」


 フェイディアスは、何度も唾を飲み込み、皆の顔を見た。


「覚えてるか? プラタイアでの戦いのときのことだ。神殿の前で――あの日、レオニダス隊長が仰ったことを」


 あっ、という顔をする者もいた。

 咄嗟に思い出せずにぼんやりしている者もいた。

 隣と顔を見合わせ、何だったかな、あれだ、と囁き合う者もいた。


「あのとき、隊長はこう仰った。……何ひとつ、恥じることはない。自らの力を尽くした上でならば、生き延びることは、決して恥ではない、と」


 しん、とした。

 誰も何も言わず、身じろぎもしない。


「まさか」


 ついに、一人が言った。


「投降する、とでも?」


 数呼吸、置いて、フェイディアスは微かに頷いた。

 突風に吹かれた葦のように、男たちの身体が揺らいだ。


「嘘だ。お前ほどの男が、そんな」


「投降だって? 何故だ」


「何故、そんな、恥晒しのふるまいを……」


 誰もが、有り得なかったはずの選択肢に戸惑い、途中で言葉を途切れさせてゆく。

 今、この場の指揮官であるフェイディアスの言葉は、彼らにとって反論の余地なく従うべきものだ。

 規律によれば、そうだ。

 だが、このようなことが許されるはずがない。

 スパルタの市民は、勇気のない行いを何よりも軽蔑するのだ。


 まだ、目が見える。

 脚が動き腕が動き、盾と槍がある。剣もある。

 戦う力を残しながら投降するなど、許されない。


「フェイディアスよ、プラタイアの男ならば、そうもするだろう」


 とうとう、一人がはっきりと声を上げた。

 命令違反は重罪だが、フェイディアスはまだ、彼らに対して命令を発したわけではないのだ。


「プラタイアの男ならば、な。だが、スパルタの男には許されないことだ。勝利か、さもなくば死か。俺たちには、その二つの道しか許されていない! おまえ自身、そのことは、誰よりもよく分かっているはずだ!」


「……俺たちは、死も苦痛も恐れぬ勇気を持っている」


 思わず声を跳ね上げた相手に対し、フェイディアスの口調は静かだった。


「ならば。……それだけの、勇気があるのならば、死よりも恐ろしい運命であっても、恐れずに受け容れることができるはずだ」


 反論しようと口を開きかけていた男たちが、そのまま呼吸を止め、眉を寄せた。

 そんな考え方には、これまで一度も触れたことがなかったから、どう捉えてよいか分からなかった。


「いや」


 フェイディアスは傷のために引き攣れた恐ろしい形相で、困ったように笑った。


「正直に言おう。俺は……俺自身、これからしようとすることを恐れている。このまま戦って死ぬ方が、美しい。それに、ずっと楽だ。同胞たちに蔑まれ、臆病者と罵られるくらいなら……」


 スパルタ人の誰もが歌う古い歌の中で、詩人はこう述べている。


 

  死は美しい。前線で戦う

   勇敢な戦士の、祖国を守る戦のさなかの死は美しい。

  自国と肥えた畑を捨てて

   物乞いをするのは、何にもましてつらいこと。

  愛する母や老いた父とともに放逐され、

   幼い子らや娶った妻を伴っての物乞いは何よりつらい。



 彼らにとって戦いを放棄することは、勇気が挫けることであり、それはスパルタ人として何よりも恥ずべきことであった。

 だからこそ、詩人もこのように歌っているではないか。

「美しい死」に背を向けて逃げ出した者には、どれほど過酷な運命が待ち受けているかを――


「だが、それでも」


 フェイディアスは、はっきりと言った。


「俺は、生きようと思う。……勝ち目があるならば、勝利のために戦おう。だが、もはや勝利はない。全滅するまで戦うことはできる。だが、全員で無駄に命を捨てて、どうなる?」


「パイアキスと、約束したからか」


 先ほどの戦士が、絞り出すような声で言った。


「彼らは、もう、死んでしまったかもしれないのに!」


「少なくとも、彼らは無事に海を渡ったはずだ」


 フェイディアスの口調は揺らがなかった。


「仮に彼らを捕らえたとすれば、クレオンは必ず、捕虜の身柄を餌に俺たちと交渉しようとしたはずだ。そうしないということは、パイアキスも隊長も、無事に海を渡ったのだ」


「だからといって、投降するというのか?」


「フェイディアスよ、奴らのこれまでのやり方を見ただろう! 奴らが、誓いなど、守るはずがないだろうが! 我らを欺いて武器を捨てさせ、家畜のように殺すつもりに違いない!」


「ならば、それがはっきりした時に、奴らを道連れにして死ぬまでだ」


 フェイディアスはいっそ諧謔さえ感じさせる調子で、歯を剥き出し、爪を示してみせた。


「俺たちにとって、死ぬことは簡単だ。死ぬことのほうが、ずっと簡単なのだ。敗れてなお生きることは、苦しく、恥辱に満ちている。だが、それでも――」


「僕も、フェイディアス様と同じ道を選びます」


 不意に、声が響いた。

 それまで一言も発さなかったクレイトスが、フェイディアスに向かって頷き、はっきりと言った。


「レオニダス様が生きておられるという望みがある限り……僕は、どんな屈辱に耐えても、生き延びる」


「ああ……」


 フェイディアスは自分たちを包囲するアテナイの大軍勢に視線を戻し、呟いた。


「俺たちは、戦友に対して責任がある。自分たちだけ、死に逃げ・・・・はできん。あいつと、約束したからな」


 戦士たちは、顔を見合わせた。

 やがて、一人が、信じられないというように訊いた。


「本当に……彼らと、再び生きて会うことがあると思うのか?」


「それは、神々だけがご存じだ」


 風が、吹き抜けていった。

 淡々と答えたフェイディアスは、戦士たちひとりひとりの顔を順に見渡していった。


 彼が一言、投降せよと命じれば、戦士たちにはそれに従う義務が生じる。

 だが、これは男たちの運命をあまりにも大きく動かす決断だ。

 フェイディアスは、自分が決定的な命令を発するよりも先に、思うところを腹蔵なく述べよと、男たちに暗に促しているのだ。


「フェイディアス様」


 やがて、そう言って進み出た者があった。

 パルティオスだ。


「俺は、オルセアス様のところへ行きます。俺の道は……もう、この世にはありません」


 躊躇うような、だがどこか明るいその表情は、まるで、自分だけがいいところへ行くのだと友達にそっと打ち明ける子供のようだった。


「……俺も」


「私も、パルティオスと行動を共にしたいと思います」


「俺もです」


 やがて、十人ほどの若者たちがそう声を上げ、ひとところに集まって立った。

 フェイディアスは、彼らを説得しようとも、引き留めようともしなかった。

 彼らが最後の突撃を仕掛ければ、それに刺激され、興奮したアテナイの軍勢が一挙に押し寄せて、結局は皆もろともに死ぬことになるかもしれない。

 だが、それでも、フェイディアスは彼らを止めなかった。


「妻や子らに、辛い思いをさせることはできませんから……」


 パルティオスがそう呟いたとき、フェイディアスの引き攣れた顔が微かに歪んだ。

 戦に斃れた戦士の家族には、戦に斃れた戦士と同じ名誉が。

 戦から逃れた戦士の家族には、戦から逃れた戦士と同じ不名誉が冠される。

 それが彼らの故郷の流儀だ。


「共に、行きませんか?」


 パルティオスは名残惜しそうにそう言ったが、フェイディアスは静かにかぶりを振り、それから、ほんのちょっと笑ってみせた。


「もしも……俺たちが、遅れて行っても、待っていてくれるか?」


 パルティオスは微笑んだ。


「もちろんです」




 そして、若者たちは進み出る――

 槍を立て、悠然と歩調を揃え、肩と肩とを並べ、盾と盾とを接して。

 戦友たちがまじろぎもせずに見送る背中は、誇らかにまっすぐに伸びている。


 クレオンが首を振りながら戦列の中に下がり、アテナイの盾の壁が音を立て、槍の光る穂先が一斉に彼らのほうを向く。

 だが、若者たちの歩みは止まらない。


「この盾を携えて!」


 パルティオスの澄み切った叫びに、十人の仲間たちの声が呼応した。


「さもなくば、この盾に載って!」


 彼らは走り出した。

 肩と肩とを並べ、盾と盾とを接して――


 彼らの背中を追い、思わず一歩出ようとしたクレイトスの肩を、誰かがぐっと掴んだ。

 クレイトスが振り向くと、彼の肩を掴み、フェイディアスが涙を流していた。

 顔の半分を血に染め、残った左目を見開いて、とめどなく――


 クレオンの号令と共に、無数の矢と投槍が若者たちに向かって降り注ぎ、たちまちその肉体を貫いて命を奪い去った。

 彼らは皆、前を向いて死んだ。

 おそらくは、自分たちのふるまいに満足し、誇りを胸に抱きながら。


 フェイディアスも、クレイトスも、誰もが涙を流していた。

 歯を食い縛り、決して声を上げることなく――


「武器を、下げえ!」


 じわりと前進しようとしたアテナイの戦列を、クレオンの一喝が押し留める。

 彼は再び、戦列の前に出てきた。


 顔の右半分を切り裂かれた大柄な男が指揮官であることを、クレオンは見抜いている。

 盾の向こう、兜の下から、クレオンはその目でフェイディアスの一挙手一投足を見つめていた。

 その右手は、微妙に地面から槍の石突を持ち上げたまま、微かにぴりぴりと震えていた。


 次に響く、フェイディアスの号令が全てだ。

 突撃か、投降か――


 フェイディアスは、一歩、戦列から進み出た。

 彼は、手にした槍をまっすぐにクレオンに向け――

 そのまま、手を開いた。


 灰にまみれた大地に槍が落ち、跳ねて、横たわる。

 フェイディアスはゆっくりと屈んだ。

 これまで決して手放すことのなかった盾を、静かに地面に置き、立って、両手を上げた。

 クレイトスが、戦士たちが、次々と彼の動きにならう。

 風が、吹き抜けていった。


「嘘や」


 デモステネスが呟いた。

 アテナイの軍勢の誰も、言葉がなかった。

 有史以来、誰も見たことのない光景を、彼らは今、目にしているのだ。


「スパルタ人が……降伏した……」


 誰かがそう口にした瞬間、その光景は紛れもない現実となり、アテナイの戦列から、ほとばしるような勝鬨が上がった。

 その声は地中から噴き上がる泉のように繰り返し、止むことがなかった。

 ピュロス湾における海戦でペロポネソス同盟の艦隊が潰滅してから、七十二日目の出来事だった。





「きれいやね、坊や……青い目が、まるで宝石みたいや」


 長く待たされた彫刻作品がようやく納品されてきた注文主のように、クレイトスの周囲をしきりに歩き回りながら、クレオンはにこやかに言った。

 およそ百二十名のスパルタ人を含む、総勢三百名近くの歩兵たちが、アテナイ軍によって捕虜にされている。


 盾と武器を奪われ、縛り上げられたクレイトスは、背筋を伸ばしたまま、無表情にクレオンを見返した。

 そして、自分の身の上にも、自分を捕らえた者にも関心などないと言うように、遠くへ視線を投げた。

 クレオンは楽しげに両手を擦り合わせたが、それ以上はクレイトスに構うことなく、


「ほなデモステネス君、後はよろしく」


 捕虜たちの連行の指揮を執るのにてんてこ舞いのデモステネスに向かって、軽く片手を挙げてみせた。


「僕は、お先にアテナイに帰らしてもらうわ! アテナイで、君らの凱旋行進の準備、ちゃんと進めさしとくから」


「はあ!?」


 デモステネスはスパルタの戦士たちから奪った槍の束を自分の足の上に取り落とし、しばらく片足でぴょんぴょん跳ね回っていたが、やがて、既に背を向けて歩き出しかけていたクレオンを慌てて追い掛けた。


「ちょ、待ちいな、クレオン君! そんなもん、使者を送っとけば済むことやないか。そない慌てんでも、一緒に帰れば――」


「僕、そんな、ちんたらしてられへんねん」


 クレオンは足を止めることもなく、ひらひらと片手を振った。


「何しろ、僕の司令官としての手並みゆうやつを、少しでも早く、市民の皆さんに宣伝しとかなならんからなァ。難儀な商売やで、ほんまに!」


『二十日以内にスファクテリア島を落とす』――

 この、誰しもが大法螺か、狂気の沙汰としか思わなかったであろう宣言を、クレオンはその通りに実行したのだ。


 彼が戻り、勝利を告げれば、アテナイの人々は大いに驚き、怪しみ、戸惑い、彼を嘘つき呼ばわりすることだろう。

 だが、次々と使者たちが到着し、アテナイ軍の勝利――もちろん、その経緯については、彼らの歴史として記録するにふさわしいふうに体裁を整えてある――の報告をもたらすにつれて、人々の疑念は驚嘆と興奮に変わり、クレオンの名は、アテナイに輝かしい勝利をもたらした者として、永久に人々の記憶に刻まれることになるだろう――

 クレオンは、急に横に逸れると、


「なァなァ、君!」


 そこに突っ立ってあんぐりと口を開け、捕らえられたクレイトスの美しさに見惚れていた若いアテナイ兵の肩をなれなれしく抱いた。


「あの黒髪の坊や、ええと思わへん?」


「は……いや、そらァ、もう……」


「そうやろ!」


 クレオンはにやにや笑いながら若い兵士を強く引き寄せ、耳元でぼそりと囁いた。


「ちょっとでも手ェつけたら、殺すで。仲間にもそう伝えとけよ。ええな」


 蒼ざめた兵士を突き放すと、クレオンは再びすたすたと歩き出した。

 いつの間に準備をしていたのか、荷物をまとめた付き人たちも合流してくる。


「自分で、連れて帰らへんのか?」


「あの坊や、手ごわいでェ。飼い馴らすまでには、だいぶ暇がかかりそうや」


 転がる石に蹴躓きそうになりながら追ってくるデモステネスをちらりと振り返り、クレオンは笑った。


「手始めに、他の皆さんと一緒に、捕虜として晒し者にされる気分をたっぷり味わってもらうことにしたわ。そないして、鉄壁の戦士の誇りが消耗と屈辱でぼろぼろになったところを、僕がアテナイで優しく慰めてあげるんや……」


 デモステネスは思わず立ち止まった。

 半眼になって、言った。


「最低やな、お前」


 クレオンは、馬鹿丁寧にお辞儀をしてみせ、さっと踵を返した。

 続く呟きは、デモステネスの耳にも、おそらくは、付き人たちの耳にも入らなかったに違いない。


「これくらいやないと……今のアテナイで、政治家なんかやってられへんのや」



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