突撃
フェイディアスは不意に口を噤み、アテナイの陣営に向かって目を凝らした。
彼と声を合わせて歌っていたスパルタの男たちもまた、一人残らず口を閉じて、フェイディアスと同じ場所を見つめた。
アテナイの軍勢が、動いている。
潮が引いてゆくように軽装歩兵部隊が後退し、彼らと入れ替わるように正面に姿を現したのは、大型の盾を構え、槍を立てた男たちの戦列だった。
アテナイ側の重装歩兵部隊が最前線に進み出てきたのだ。
その最右翼に、とりわけ派手に塗り分けた盾を持ち、光る兜と鎧とを身に着けた男がいる。
「奴だ」
クレイトスは、我知らず呟いていた。
フェイディアスが防壁の上から降りてきて、彼の隣に立った。
「クレオンか?」
「おそらくは」
答えるクレイトスは、石像のように表情を失っていた。極度の緊張と昂揚がそうさせているのだ。
今、彼我の距離は千歩ほど。顔立ちを判別できるほどの近さではない。
ましてや、相手は兜をかぶっている。
歌いやめたスパルタの男たちは皆、彼方に見えるその男の姿にのみ目を注いでいた。
「ようやく出てきおったか」
声をがらがらに嗄らしたエピタダス将軍が唸った。
「今一度、戦列を整えよ!」
その手に盾と槍を持つことができる者全員が、密集隊形を整えて立った。
当初と比べれば人数が減り、手足は傷付き、盾は穴が開き、穂先は欠け、あるいは曲がっている。
だが男たちは皆、昂然と顔を上げていた。
いずれかの神が、彼ら全ての心中に不退転の意志を射込んだかのように。
アテナイの陣営から、喇叭と竪琴の音が響いた。
スパルタの男たちが微動だにせず待ち受けるうち、アテナイ側の重装歩兵部隊は音楽に合わせて槍をきらめかせ、身に着けた武具を鳴らしながら並足で近付いてきた。
あと五百……四百……三百……
音楽が止まり、アテナイの男たちの行進が止まった。
三度、鬨の声が繰り返され、軍勢が槍を上げ下げするたびに石突きが地面を打つ音が響き渡り、灰が舞った。
「スパルタ人諸君!」
最も右側にいた光る鎧の男が一歩、前に出て、よく通る声で叫んだ。
「僕は、アテナイのクレオン! 僕らは君たちを片付けるために、こんな島までわざわざ出かけてきたわけや。そやけど、御覧の通り、勝負はもう完全に見えとるやろ! わざわざ全滅するために戦うまでもないとそっちが考えるなら、武器と身柄の引き渡しを条件に、降伏を認めるわ。どないする!?」
「どうだ?」
フェイディアスが囁いた。
クレオンの降伏勧告の内容など、彼らの耳には一切届いていなかった。
スパルタの戦士たちはただひたすらに、クレイトスの表情を見つめていた。
クレイトスは兜をずらして耳を澄まし、目を凝らして、今語っている男が本当にクレオンであるのかどうかを確かめようとしていた。
「分かるか?」
「どうだ、クレイトス」
「奴か?」
「……はい」
兜をかぶり直したクレイトスの目が、爛と燃えた。
「間違いありません」
男たちは顔を見合わせ、頷き合った。
彼らの表情は微かにほころび、満足げな笑みを浮かべる者すらもあった。
最前列に立つ男たちが、順に半歩ずつ下がり、クレイトスに目配せをした。
クレイトスは一瞬驚いたような顔を見せたが、すぐに彼らの意図を読み取り、すぐ右隣に立つフェイディアスを見た。
フェイディアスはにやりと笑い、クレイトスの肩を拳で軽く突いた。
「おっ?」
元の位置まで引き下がり、スパルタ側の返答を待っていたクレオンは、敵の戦列で急に起こった奇妙な動きに、思わず口を開けた。
スパルタ側の戦列――もうずいぶんと横幅が狭く、深さもわずかしかない――の最前列で、二人の男が動いている。
彼らは、それまで並んでいた最右翼から進み出てきた。
あの位置に陣取っていたということは、隊の中でも勇士と認められる男たちなのだろう。
彼らは味方の盾の前を歩いて横切り、彼らにとって戦列の最も左――すなわち、アテナイ側の戦列にとっては右端の真正面に移動した。
即ち、クレオンの目の前に。
「戦神アレスよ!」
そこに立った戦士が、鷲のように鋭い叫びを上げた。
「我が血と、我が敵の血を、御身に捧げ奉らん!」
スパルタの男たちが鬨の声を上げる。
彼らは盾を打ち鳴らし、槍の穂先を一斉にアテナイの軍勢に向けた。
「来るぞ……!」
「あの子や!」
思わず警告の叫びをあげたデモステネスの隣で、クレオンが目を輝かせた。
「あの声、間違いないわ。今、僕の前におるのがあの子や! みんな、あの子にだけは、手ェ出さんといたってや!」
「アホか!」
デモステネスが喚く。
「そんなこと言うとる場合とちゃうわ! 皆、決して戦列を崩すな! 号令があるまで走るな! 必ず圧し勝てる! ――行くぞォ!」
喇叭が鳴り響く。
アテナイの重装歩兵部隊が前進を始めた。
「我らの、最後の戦じゃ!」
エピタダス将軍の雄叫びが響いた。
「我ら皆、後ろ傷を負うことなく、前を向いて死のう! アテナイの腰抜けどもを五人、十人と引き連れて、名誉と共に地下へと下ろう! あるいはエリューシオンの地で、我らは再び相会うことが叶うかもしれぬ。それは、今この時に見せる死に様次第ぞ!」
「名誉と共に!」
「名誉と共に!」
仲間たちの熱狂的な叫びを、クレイトスはどこか遠い世界から響いてくる物音のように聞いていた。
彼の耳には今、兜の中で反響する自分自身の息遣いだけが大きく響き、目にはただ、少しずつ近付いてくるクレオンの姿だけが映っていた。
「前進せよ!」
エピタダス将軍の叫びは、ほとんど歓喜する少年のそれのように響いた。
「奴だけを狙え、クレイトス」
盾を押し立て、一糸乱れぬ並足で進み出ながら、フェイディアスが囁いた。
フェイディアスもクレイトスも、互いを見ていない。
ただ徐々に迫りくる敵の戦列の、目の前にいる男の姿だけを見ている。
「俺が有象無象どもの穂先から、お前を守ってやる。クレイトス、お前は何も考えず、ただクレオン一人を狙い、必ず、あの男を討ち取れ」
クレイトスは頷いた。
彼我の戦列の距離はすみやかに縮まっている。
あと二百歩……百五十……百二十……百……
進むにつれ、スパルタの男たちの口からは野生の獅子のような唸りが漏れ、やがてそれは抑え難い挑戦の雄叫びとなってほとばしった。
迫りくるスパルタの男たちが発する凄まじい気魄に打たれ、アテナイ側の戦士たちは、我知らず歩幅を乱した。
戦列ががたつき、隙間なく重なり合うべき盾と盾とがずれる。
あたかも身をくねらす大蛇が、その強固な鱗の隙間に、やわらかい肉を垣間見せたように――
「突撃じゃあ!」
将軍の声と同時、スパルタの男たちは恐ろしい速さで走り出した。
傷付き疲れ果てた体に重い武具をまとっているなどとは到底信じられぬ速度で、彼らはアテナイの戦列に迫る。
全身の重み、全ての力を乗せ切った突撃。
彼らの、最後の突撃だ――
「しゃあああああ!」
クレオンが叫んだ。
彼は、笑っていた。
待っていた、ずっと。
この瞬間を、待っていた――!
「もろうたでぇ、スパルタの諸君!」
弓弦の音が響いた――
スパルタの戦士たちの背後から。
黒い死をもたらす矢が降り注ぎ、突撃する戦士たちの無防備な背に次々と突き立った。
地に斃れ、土と灰を掴んだ男たちの呻きを耳にして初めて、スパルタの男たちは、敵が自分たちの正面だけではなく、背後にもいることに気付いた。
幾人かは盾を掲げながら振り向き、それを見た。
これまで自分たちが拠っていた砦跡――
その防壁の上に姿を現した、幾人もの黒装束の男たちの姿を。
ディオクレスやヘファイスティオンたちを殺し、北の砦を占拠した男たちだ。
彼らは熾烈な戦闘が繰り返される中、戦場には姿を見せずにぐるりと海岸線を回り込み、ラケダイモンの戦士たちが拠っていた南の砦の裏手の崖をひそかに這い上っていた。
そして、スパルタの戦士たちがついに最後の突撃を試みんとした正にその時、彼らの背後を突いて攻撃を仕掛けたのである。
黒い男たちは防壁に残っていた負傷兵たちの喉首を掻き切り、高所から狙いをつけて、スパルタの戦士たちを次々と狙い撃ちにした。
(クレオン)
共に駆ける仲間たちが、次々と斃れてゆく。
盾をかざし、槍を手に駆け抜けるクレイトスの耳には彼らの呻きは届かず、その目には、ある一点を除いてほとんど何も映っていなかった。
(僕の手で)
その目に映るのはただ、真正面に見える派手に塗り分けられた盾、その向こうにいる男の姿。
(僕の手で、必ず――!)
彼はいつの間にか戦列から突出し、先陣を切っていた。
これまで感じたことがないほどに、体が軽い。傷の痛みも疲労も、四肢から消え失せてしまったかのように。
あと五十歩。
唸りを上げる矢が、背後から彼の傍らをかすめ過ぎていった。
その矢は敵味方のあいだの地面に突き立ち、びいんと音を立てて震えた。
彼我の戦列が激突すれば、同志討ちの恐れのある飛道具はもはや使えまい。
あと少し。
あと、四十歩――
「クレイトス、行け!」
斜め後ろで叫び声が聞こえ、続けざまに金属の打ち合わされる音が響いた。
「行け……奴を!」
フェイディアスが、敵を食い止めている。
言われるまでもなく、クレイトスは振り返らなかった。
三十五歩、三十歩、二十五歩。
クレイトスは、咆哮した。
その手から槍がふわりと浮き上がるように宙に投げ上げられ、次の瞬間、槍の柄を逆手に掴み直したクレイトスの全身が鞭のように撓った。
突進の勢いと全身の筋力とが生み出す爆発的な力を余すところなく集中し、手にした槍を投げ放つ。
撓る柄で美しい螺旋の軌跡を描きながら、槍は飛んだ。
まっすぐに、クレオンを目がけて――
クレオンは、瞬きもせずに両の目を見開いていた。
目前に迫った若者が投擲の姿勢に入ったとき、彼はそれと全く同時にぐんと姿勢を沈めた。
鋭い穂先から視線を外さぬまま、歯を食い縛って思い切り地面を蹴り、全身で、右へと跳んだ。
「おおおッ!」
と叫んだのは、右に立っていたクレオンが自分の盾ごと戦列から離れたことで、右半身が晒されたデモステネスだ。
おおおおい! と彼は抗議の叫びを上げたかったのだが、あまりにも瞬時の出来事であったためにそんな暇はなかった。
自分自身の盾は意地でも動かすことなく、上半身だけをひねってほとんど横向きになったデモステネスのすぐ目の前を、槍が唸りを上げて飛び過ぎる。
その穂先は、クレオンの後ろに立っていた兵士の盾を直撃して貫通した。
(外した!)
槍が手を離れた瞬間に、クレイトスはそのことに気付いた。
クレオンが全身で横っとびに跳び、盾と槍ごと地面に転がる。
投げ放った槍は、クレオンの後ろの兵士を盾ごと貫いた。
その兵士が膝から地面に崩れ落ちるのを、クレイトスは見てもいなかった。
あと二十歩――
「クレオン!」
もはや戦場の叫喚の中でも声の届く距離だ。
クレオンはまだ地面に転がったまま、立ち上がろうともがいている。
クレイトスは一直線に駆けながら剣を抜き放った。
あと、十歩――
「クレイトス……!」
ほんの微かに耳に届いた鋭い警告にクレイトスが身をひねった瞬間、彼の背後から何者かが飛び掛かってきた。
組み付かれ、地面に叩きつけられる。
地面に降り積もった灰が飛び散り、片目に飛び込んで視界を奪った。
クレイトスは必死に首を捻り、半分塞がれた視界の中で、自分に組み付いた者が黒装束の戦士の一人であることに気付いた。
軽い武装しか身に着けぬ彼らは、今や砦の防壁を駆け下り、スパルタの戦士たちのすぐ背後まで迫っていたのだ。
目の端に短剣の刃が光るのを捉え、クレイトスは無我夢中で盾を手放し、同時に剣を振るった。
短剣はクレイトスの喉を、剣は黒装束の男の腹を、それぞれ貫く寸前で止まった。
互いの武器を持つ手を掴んで押し戻し、捩じ上げ、膝蹴りの応酬をしながら上となり下となって揉み合う。
「どけぇ!」
クレイトスは絶叫した。
逆さまになった半分の視界の中で、倒れたクレオンの前に何人もの付き人たちが飛び出し、盾を防壁のように押し立てるのが見えた。
盾の壁の向こうに消える直前、ちらりと見えたクレオンの顔はこちらを向いて何事か叫んでいるようだったが、その声は、クレイトスの耳には届かなかった。
「クレオン! 逃げるのか!」
叫ぶクレイトスの喉元に、黒装束の男の刃がじりじりと迫った。
付き人たちの盾に守られ、なおも何事か叫びながらクレオンが遠ざかってゆく。
クレイトスの目から憤怒の涙が溢れた。
クレオンと、そして二度までも奴を仕留め損ねた無能な自分自身に対する怒り。
全てをかけた槍は虚しく外れ、千載一遇の好機はあっけなく彼の手から滑り落ちた――
突然、彼に馬乗りになっていた黒装束の男が首から血を噴き出しながら横ざまに転げ落ちた。
「盾を持て、クレイトス!」
頭上から、フェイディアスの声が聞こえた。
クレイトスは涙と灰にまみれた顔を上げた。
フェイディアスが血塗れの槍と盾を構えて立ちはだかり、クレイトスを守っている。
その顔の左半分がべったりと血に染まっていた。
古傷の上をなぞるように真新しい傷が走り、彼の左目を完全に切り裂いていた。
「立て!」
フェイディアスの声に引き摺られるように、盾を掴み、立ち上がる。
新たな黒装束の戦士が、フェイディアスの横手から飛び掛かってきた。
フェイディアスは勢いよく槍を突き出したが、間合いが狂い、穂先は敵を貫くことなく行き過ぎる。
黒装束の戦士は剣を構えたまま、フェイディアスの胸元に突っ込んだ。
それよりも一瞬早く飛び出したクレイトスが、死の一撃を盾で止める。
彼は渾身の力で敵を跳ね除け、その盾の縁で相手の顔面を殴り付けた。
頬の骨と歯を打ち砕かれて倒れた敵の腹に剣を突き立て、留めを刺す。
「くそ、距離が掴めん」
頭を振って呟いたフェイディアスの表情はまるで笑っているように見えたが、傷の痛みのために顔の筋肉が引き攣っているのだ。
「皆、密集陣形だ! 集合しろ!」
叫ぶたびに傷口が動いて新たな血が流れ出し、フェイディアスの左半身を真っ赤に染める。
「密集陣形!」
乱戦の中を、武器を振るって切り抜けながら、仲間たちが集まってくる。
その数は、突撃を開始したときの半数ほどにまで減っていた。
「将軍は?」
日に焼けた肌と白い髪、エピタダス将軍の姿はなかった。
将軍は突撃のさなかに背後から矢を受け、地面に倒れたところを切り刻まれて命を落としていた。
「密集陣形!」
再度、フェイディアスが叫ぶ。
辛うじて集合した男たちは、荒れ狂う波濤の中の小島のように、負傷者を中にして円形に集まった。
遠く離れ、戦列に戻ることができなかった者たちはことごとく殺された。
盾を押し立てたスパルタの男たちの周囲を、アテナイの兵士たちが十重二十重に包囲する。
そして、戦場は静まり返った。




