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スパルタの女

 

「リュクネ様、あれを!」


 舟底に横たわる怪我人たちを看ていたリュクネは、スミクロスの鋭い叫びを受けて背後を振り返った。

 スファクテリア島の姿が、星々の光をさえぎり、黒々と浮かび上がっている。


 その中央部と南の高台の辺りで、炎が燃えているのがはっきりと見えた。

 男たちが陣地を築いているはずの位置だ。


「狼煙が上がってる……」


 リュクネのすぐ側、舳先に近い席で櫂を握っていたスミクロスが、声を低めて呟いた。

 スミクロスが漕ぐのを止めたことで、漕ぎ手として乗り組んでいる他の三人の国有農奴たちヘイロータイも、櫂を操る手を止めている。


「敵の艦隊に、何か動きがあったのかもしれませんな」


 スミクロスの言葉に、リュクネは注意深く辺りの様子を窺った。

 海上に点々と見えるアテナイ艦隊の三段櫂船の灯りは、いまだ、先ほどの位置から動いていないように見える。

 アテナイの軍船は、やや水深のある辺りで一定の間隔をおき、スファクテリア島を遠巻きに囲むようにして投錨していた。


 リュクネたちの乗るボートは、そんなアテナイの軍船のあいだを通り抜けて、本土に向かおうとしているのだ。

 陸地まではまだまだ遠く、行程としては、直線距離にしてもほんの八か七分の一ほどを進んだだけだった。


(フェイディアス殿……クレイトス……)


 リュクネは、もう一度スファクテリア島を振り返った。

 島に残った男たちのことを思い、胸が痛んだが、彼女は口元を引き締め、表情を崩さなかった。


 このボートには彼女の夫であるレオニダスをはじめ、パイアキスと、あと三人の意識のない負傷兵たちが乗っている。

 一刻も早く暗い海を横切り、彼らを安全な場所まで運ばなくてはならない。

 もしも、このボートにもっとたくさんの櫂が備えられていたならば、リュクネは自分自身も漕ぎ手として加わりたいくらいだった。


「よし、皆!」


 漕いでくれ、と言おうとしたとき、リュクネの背後で鈍い音が上がった。

 反射的に振り向いたとき、彼女の目に入ったのは、スミクロスの大柄な身体が横ざまに傾き、舷側を越えて海に転げ落ちるところだった。

 激しい水しぶきが上がり、リュクネの顔にまで振りかかった。

 スミクロスの姿は、あっという間に波間に消えた。


 リュクネは、一瞬、理解できなかった。

 いったい、何が起きたのか。


「動くんじゃねえ!」


 リュクネが動けずにいるうちに、スミクロスの真横で漕ぎ手をつとめていた国有農奴が飛びかかってきて彼女を引き倒し、後ろから腕を巻きつけて首を絞め上げた。


 顎の下に金属の冷たい感触が当たり、わずかな痛みが走った。

 おそらくは小型のナイフのようなものだ。

 国有農奴に武器を持たせる馬鹿者はいない。

 盗んだのか、それとも、炊事の際にでも使ったものを隠し持っていたのか。


 ようやく、事態が呑み込めてきた。

 この男が、スミクロスを刺すか殴りつけるかして海に転落させたのだ。

 それを理解してなお、リュクネは、表情を変えなかった。

 やがて、静かに言った。


「お前は、何をしている?」


「うるせえ!」


 耳元で怒鳴る国有農奴の声は上ずり、わずかに震えてさえいるようだった。

 同時にナイフが揺れたのか、再び痛みが走った。

 スパルタの地には、支配階級であるスパルタ人の数に十倍する被支配民たちが存在する。

 彼らを抑えるために、スパルタ人たちは苛烈な統制を敷き、恐怖をもって反乱を防いできた。

 スパルタ人に逆らい、武器を向けるということは、国有農奴にとって考えただけでも死に値するほどの大罪なのだ。


「リュクネ様を離せ……!」


 状況を見て取ったパイアキスが、蒼然として身を起こそうとしたが、


「黙りやがれ!」


 折れ砕けた脚を男に蹴り付けられ、苦鳴を上げて悶絶した。


「おい、お前らも手を貸せ!」


 リュクネを人質に取った男が、艫のほうで呆然としている二人の国有農奴に呼びかける。

 彼らは顔を見合わせ、すぐには動かなかった。

 スパルタ人に逆らえば殺されるという恐怖は、彼らの心の奥深くにまでしみついている。


「てめえら、何、びびってんだ、おお!? スパルタ人が聞いて呆れるぜ、こいつら、身体も利かねえ怪我人に、女じゃねえか! とおのガキにだってバラせらあな!」

  

 男が怒鳴った。

 その声は裏返り、ひどく狂騒的に響いた。


「おい、分かってんのか? そこに転がってんのはスパルタの《半神》だぜ!? デカい獲物よ! 死にかけちゃいるが、まだまだ値打ちはある。俺たちは、これから、アテナイの軍船に行くんだ。こいつらの身柄を、アテナイに引き渡す!」


 リュクネの目がぎろりと動いたが、彼女は身体を動かなかった。


「なに、びびるこたあねえ。俺たちは殺されやしねえよ。兵士じゃねえんだ。――俺はな、ずっと、この機会を狙ってたんだ。こいつらに復讐してやりてえのよ!」


 男の唾が頬や肩にかかり、ナイフがじわりと肉に食い込んだ。

 首筋を、血の雫が流れ落ちてゆく感覚があった。


「俺の親父とおふくろは、俺が十ンとき、こいつらに……スパルタ人どもに殺されたんだ! 悪いことなんか、何もしてねえのによお!」


 この叫びを受けて、ようやくリュクネは男の行動の理由を理解した。


 スパルタの男たちは、青年と呼ばれる年頃になると「秘密任務」と称する役目を与えられる。

 食糧と武器を持って各地域へ赴き、昼間は身を隠し、夜の闇に紛れて国有農奴を狩り、殺すのだ。

 それも、武力や知力において一目置かれているような者を選んで殺す。


 これは、男たちを殺しに慣れさせるためでもあり、さらには、被支配民たちに恐怖を植え付けるためでもあった。

 自分たちのうちで最も強く賢い者ですら、スパルタ人の手にかかればあっけなく殺されてしまう、それほど格が違うのだということを思い知らせるためにだ。


「何してる、漕げよ! あっちだ、アテナイの軍船のほうへ行け!」


 なおもためらっていた艫の二人だが、男のこの叫びを受けて顔を見合わせ、意を決したように再び櫂を動かし始めた。

 ボートの舳先が、ゆっくりと、遠くに停泊するアテナイの軍船の灯りのほうへ向いた。


 リュクネは、哀しかった。

 彼女は自分では国有農奴たちを必要以上に過酷に扱ったことはないと思っていたし、彼らを殺したこともなかった。

 だが、レオニダスは、殺したことがあるのかもしれない。

 そして、過酷に扱ったことがないと思っているのはこちらだけで、彼らにとっては、リュクネ自身もまた、憎むべき支配者の一人であることに変わりはないのかもしれない。


「ずっと、復讐してやりたかった! 何だ、生まれが違うくらいで、偉そうにふんぞり返って、俺たちを虫ケラみてえに扱いやがって……! てめえらなんぞ、アテナイで奴隷にでも晒しものにでもされちまえ! 俺の親父とおふくろにてめえらがしたように、切り刻まれて死ねばいいんだ! 俺たちの苦しみ、思い知れ!」


 喚き散らす男の声、その怒りと悪意を全身に浴びながら、リュクネは、静かに息を吸い込んだ。

 そして彼女は、不意にがっちりと男の手首を掴んだ。

 自分の首にナイフを押し当てている、その手を。


「おい、何だ、てめえ! 何してる、殺すぞ!?」


「殺す?」


 リュクネは、繰り返した。

 まるでこの場の状況にそぐわない、穏やかで、静かな声だった。

 スパルタの女は、国有農奴の前で、取り乱した姿を見せることなどないのだ。


「私を、お前が?」


 男は一思いにナイフを引こうとして、愕然とした。

 ナイフを持つ手首を、リュクネが強烈な力で握り締めてきたのだ。

 慌てて首を絞め上げようとしても、その腕にもまた彼女の手がかかっていた。

 まるで鉄の枷でも嵌められたかのように、動かそうとしても、ぴくりとも動かなかった。


「教えてやろうか」


 ナイフを掴む男の手を力いっぱい握り締め、自らの喉からじわじわと引き剥がしながら、リュクネは言った。

 声がひずみ、野獣の唸り声のようになった。


「我らスパルタの女が、肉体を鍛錬するのは、優れた子を生み育てることができるように……そして、命と誇りを奪おうとする者には、この手で報復することができるようにだ!」


 男の喉から、絶叫がほとばしった。

 ナイフを握ったままの男の拳に、リュクネが雌獅子のように喰らい付いたのだ。


 生木が折れるような音がして男の指の骨が砕け、男の絶叫が、喉を鳴らすような喘ぎに変わった。

 もはや用をなさなくなった男の手からナイフを奪い取り、リュクネは跳ね起きた。

 振り向くや否や、ためらいもなく、男の胸に切っ先を叩き込んだ。

 白目を剥いて絶命した男の喉元に手をかけ、突き放すと、男の身体は舷側を越えて後ろ向きに倒れ込み、しぶきを上げて暗い海に落ちた。


「お前の家族には気の毒なことだった。だが、お前にはできなかったことを、私は成し遂げる。この手で、守り抜いてみせる。……さあて……」


 ナイフを手にしたリュクネが向き直ると、残る二人の漕ぎ手は半立ちになって身構えたが、完全に腰の引けた様子でいた。

 リュクネの顔も体も先ほど殺した男の血に塗れ、まるで笑っているように見えるその顔は、女の怪物そのものだった。


「よ、寄るなぁ!」


 男の一人が急にへたり込んだかと思うと、身を起こそうともがいていたパイアキスの首を両手でがっちりとつかんだ。


「寄るな! この男の首を、へし折るぞ!」


「その手を放せ」


 リュクネの声は静かだったが、目はぎらぎらと燃えている。


「放さなければ、生贄の牛のように喉を切り裂いてやる」


「やれるもんなら、やってみやがれ……!」


 その時だ。

 ばん、と激しい音がして、船端に、外側・・から、ふたつの手がかかった。

 暗い海から出し抜けに自分の真横にあらわれたずぶ濡れの手に、パイアキスを捕らえた男はけたたましい叫び声をあげ、座ったままで腰をぬかした。


 二つの手が船端を握り締め、ぐんと引き下ろしてボートを揺さぶる。

 後ろに立っていたほうの男が均衡を失い、反射的に一歩踏み出した足が、船底の傾きで滑った。

 男は宙を掻くように大きく手を振り、尾を引く悲鳴を残して海に転落した。


 呆然としているもう一人に、リュクネが飛びかかる。

 今、仰向けに倒れているパイアキスが、自分の胸板の上で両手を重ね、掌を上にして構えていた。

 リュクネは一瞬でその意図を察し、彼の手を踏みつけ、踏み越えて、敵に襲いかかったのだ。


 獅子が獲物を打ち倒すようにリュクネは両手を相手の喉首にかけ、船底に後頭部を叩きつけて押さえ込んだ。

 今にも転覆しそうな激しさでボートが揺れる。

 リュクネはばたつく男の両腕を膝で押さえ、そのまま渾身の力で絞め続けた。


 やがて、完全に男の息が絶えると、彼女はゆっくりと手をはなした。

 肘が棒のようにまっすぐに伸び、相手の首を絞めていた指の形もそのまま、戻そうとしても、すぐには戻らなかった。それだけの力を込めていたのだ。


「嫌なものだ」


 リュクネは呟くと、顔を歪めて身体をねじり、船端を掴んで吐いた。


(嫌なものだな、本当に。婿殿、あなたはいつも、こんなことばかりしていなくてはならなかったのか……)


「おおりゃあ!」


 リュクネが口の中の唾を繰り返し吐き捨てているあいだに、反対側の舷側から、ずぶ濡れの男がボートの中に転げ込んだ。


「痛えな、おら、くそが! 馬鹿野郎! あんな程度で俺が死ぬか、おらあ!」


「……スミクロス。無事か」


「当ったりめえだ! このくれえでなあ! ――あ、ええ。はい、この通り」


 女主人の静かな問い掛けに、スミクロスはようやく我に返り、昔はそうだったのであろう伝法な言葉遣いを即座に引っ込めた。

 彼は身を起こすと、ぶるぶると全身を震わせた。

 興奮のあまりか、寒さのためか。おそらくは両方だ。 


「くそ、まだ、頭ががんがんしやがる。隣に座ってた野郎、いきなり俺の頭を櫂の端でぶん殴りやがったんです」


 言いながら、スミクロスは慎重に両足をふんばって立ち上がり、リュクネが絞め殺した国有農奴の死体を穀物袋でも持つように持ち上げて、あっさりと海に放り込んだ。


「だが、この通りの石頭なもんで、何とか冥府送りにはならずに済みましたぜ。……リュクネ様が、あいつらを片付けてくださったんですかい?」


「ああ」


 短く答えながら、リュクネは、暗闇の中のスミクロスの顔をじっと見つめ続けていた。

 自分と同じ立場の者の死体を、海に投げ込んで、彼は何を思うのだろうか。

 この男もまた、口には出さないだけで、自分の立場に不満を感じ、我々に憎しみを抱くことがあるのだろうか――


「ちくしょう、漕ぎ手が一気に三人も減っちまいやがった。リュクネ様、やれますか?」


 リュクネは何も言わず、ゆっくりと移動して、スミクロスの隣の席に座った。

 来る時は、たった二人で、もっと小さなボートを漕いできた。

 今は、守るべき者たちがいる。

 その重さを担って、来た時とは比べものにならぬほどに重い櫂を動かす。


「……船が!」


 スミクロスが低く叫んだ。

 そちらに顔を向けたリュクネは、アテナイの軍船の灯火がゆっくりと動き出すのを見た。

 リュクネは、頭にかっと血が昇り、また、ぞっと冷えてゆくように感じた。

 先ほどの騒ぎで、こちらの動きを察知されたのか。


 ――いや、この暗さだ。まだ、気付かれてはいないはずだ。

 他のボートがへまをやって、早くも見つかったのか?


 もしも、このボートにアテナイの軍船が近付き、鉤をかけて拿捕しようとしたら、そのロープを叩き切ってやる。

 兵士が乗り込んでこようとしたら、斬り死にするまで戦い抜いてやる。


 だが、落ち着け、まだだ。

 慌てずに、今は、ただ、櫂を動かすのだ――


 リュクネは黙々と漕ぎ続けた。

 スミクロスもまた、彼女と一人の人間であるかのように、ぴったりと呼吸を合わせて櫂を動かし続けていた。

 肩と背中が痛み、手のひらの肉刺が潰れて血が滲んでも、二人は漕いでゆく。


 背後で舟底に横たわり、パイアキスが声もなく泣いているのが、リュクネには分かった。

 痛みのためなどではない。

 スパルタの男は、肉体の苦痛で涙を流したりはしない。

 パイアキスは、先ほど戦うことができなかった、今も漕ぎ手としてさえ役に立つことができない自分を恥じているのだ。

 島に残り、戦友たちと運命を共にすることができなかった自分を責めているのだ。


『勝つか、死ぬか……俺たちには、そのどちらかの道しか許されない。それが、俺たちの名誉だ!』


 リュクネの胸の中で、戦士の一人が海岸で叫んだ言葉が幾重にも反響している。

 自分たちがしていることは、正しいことなのだろうか。

 彼らの命を救うために、彼らが命よりも重んじるものを傷つけているのではないか。

 だが、それでも――


「守り抜いてみせる」


 リュクネは口の中で繰り返し呟き、漕ぎ続けた。

 その微かな呟きは波音と闇に呑み込まれ、スミクロスの耳にさえ、入ることはなかった。



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