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岐路

 今、《獅子隊》の生き残りの男たちのほぼ全てが、真っ暗な海岸に顔を揃えている。

 寄せては返す波の音だけが、辺りに響いていた。


「フェイディアス」


 長い沈黙の後、ようやく一人の戦士が口を開いた。

 彼は、この場に集まった戦士たちのうちで最も年嵩の一人だ。


 辺りを覆う闇は深く、常人には、互いの顔を判別することすらも難しかっただろう。

 だが、夜の闇の中でもよく物を見分けるよう訓練された男たちにとっては、互いの表情を漠然と見分けることさえも不可能ではなかった。

 あるいはそれは、長く起居を共にし、生死を共にした者たちだけが持つ感応のゆえだったかもしれぬ。


 年嵩の戦士の表情は、おそろしく厳しい。

 その表情を崩さぬまま、彼は言った。


「おそらく、俺と同じ気持ちの者は多いだろうと思う。その皆を代表して言わせてもらおう。つい今しがた、お前が俺たちに語った計画……それは正しいことだと、お前は本当に考えているのか?」


 フェイディアスは、答えない。

 周囲の男たちも皆、押し黙ったままだ。

 だが、その場の空気は、明らかに年嵩の戦士の主張に同調している。


「隊長殿は、いまだ目覚めない」


 年嵩の戦士はまっすぐにフェイディアスと向き合い、ほとんど睨みつけるようにして続けた。

 

「だが、神々の助けにより、隊長殿が再び目覚めるときが来たとすれば……その時、隊長殿は、お前の判断を、忠誠ではなく裏切りだと感じるのではないだろうか?」


「……俺も、そう思う」


「俺もだ」


 それまで黙り込んでいた《獅子隊》の男たちのあいだから、次々と声が上がりはじめた。


「何故だ、フェイディアス。あんな言葉は、お前らしくもない!」

 

「戦士として、これほどの不名誉があるか……」


「俺たちはこれまで、どんな時も運命を共にしてきた。皆、ここで死ぬ覚悟はできている。無論、隊長もそうだったはずだ」


「その通りだ。それなのに、フェイディアス、君はこの期に及んで、隊長の輝かしい戦歴、その名誉を汚すつもりなのか?」


 誰の言葉つきも、非難する調子ではあるが、声を荒らげて難詰する者はいなかった。

 その口調に表れているのは、怒りよりもむしろ衝撃、信じ難いという思いだ。


 つい先ほど、フェイディアスがこの場に全員を集めた。

 その場で彼は、みなが予想だにしなかったことを口にしたのである。


『戦うことの出来ぬ重傷者を、この島から脱出させる』


 誰もが、言葉を失った。

 戦えぬ者が、戦を避けて逃げることは当然だ。

 だが、それはもはや身体の利かぬ老人や、女子供の話ではないか。


 スパルタの男には、戦場から逃げ出すなどという選択肢は有り得ない。

 あってはならないのだ。

 それは、もはや戦士ではないという、男にとって最も恐れるべき烙印を押されることに他ならないのだから。


「奥方の驚くべき勇気には、満腔の敬意を表した上で、敢えて、失礼を承知で申し上げる」


 年嵩の戦士が続けた。

 この場には《獅子隊》の男たちの他に、リュクネもいたのだ。

 彼女は男たちの輪から少し離れて立ち、何も言わずに事の成り行きを見守っていた。

 今、男たち全員の視線を受けてなお、リュクネは一言も発さず、穏やかな、内面を窺わせぬその顔つきを変えることはなかった。


「女に連れられて、戦場から脱出するなど……俺なら……俺は、スパルタの男として、そんな不名誉にはとても耐えられない。死ぬ方がまだいい」


 年嵩の戦士がしぼり出すように告げると、周囲から次々に賛同の声が湧き起こった。


「その通りだ」


「戦士として生まれながら、もはや戦士と呼ばれず、生き恥を晒すくらいなら、死んだ方がましというもの!」


「ああ、その通りだ!」


 スパルタには、この手の物語が幾つも伝えられている。

 生きて戦から戻った息子を、なぜ戦友たちと共に死ななかったかと叱責して戦場に送り返した母親のこと。

 熱き門テルモピュライにおいて王と三百名の戦士たちが討ち死にしたあの戦いで、伝令として本国に送り返され、ただ二人生き残った男たちが、人々からどんな扱いを受けたかについて。


 それらは絵空事ではなく、かつてあった事実として、スパルタ人の生き方の規範として、彼らのあいだに語り伝えられてきた。


「皆、同じ意見か」


 やがて戦士たちの憤然たる呟きが途切れ、フェイディアスがゆっくりと周囲を見回しながら問い掛けた。

 何人もが頷いたのが分かった。

 当然だ、という声もそこここで上がった。

 やがて、誰かが言った。


「クレイトスは、どう考えているのだ?」


「そうだ、隊長の念弟エローメノスとして、お前は、このことをどう考える!」


「美少年の考えを話させるべきだ!」


 全員の視線が、フェイディアスの傍らで沈黙を守っていたクレイトスに集まった。


「僕は……」


 クレイトスは一歩前に進み出て、しかし、そのまま言葉を途切れさせた。

 男たちの食い入るような視線が、伏せられたその顔に注がれている。

 長い沈黙の後、クレイトスはゆっくりと手をあげ、剣の柄に触れた。


「僕は……この剣で、レオニダス様の胸を刺し貫くつもりでした」


「なぜ、そうしなかったのだ?」


 もどかしそうに訊ねた声に、クレイトスは、答えなかった。

 男たちは唸り声を上げて同情を示し、口々に言い始めた。


「ああ、気持ちは分かる」


「敬愛する念者エラステースに自ら手を下すなど、自分自身の心臓を突き刺すも同然の苦しみだ」


「今も、さぞや辛いことだろう……」


「フェイディアスよ!」


 最も年嵩の戦士が、声を荒らげて迫った。


「若いクレイトスが出来ぬというなら、お前が代わりに辛い役目を負ってやるべきだろう。《獅子隊》を次に担う者として、必要な決断を果たせ!」


「……なぜ」


 フェイディアスの口から、ぽつりと呟きが漏れた。


「なぜ、死ななければならないんだ?」


 その声がひどく静かで、日頃の彼の様子とはまったく違っていたために、男たちは思わず口を閉ざした。


「なぜだ。……なぜ、隊長は死ななければならない?」


 フェイディアスは繰り返し問いかけながら、一歩、また一歩と進み出て、男たちの輪の中央に立った。

 周囲のぐるりに立つ仲間たち一人一人の顔をゆっくりと見渡しながら、彼は続けた。


「俺もスパルタの男だ。皆の言わんとすることはよく分かる。この俺も、皆と同意見だったのだ。……先程までは、な。パイアキスをこの手で刺して、命を奪うつもりだった。あいつを敵に踏み躙らせるなど、絶対に許せないからだ。だが……そこへ、リュクネ様が来た」


 フェイディアスのその瞬間の表情を、はっきりと目にした者は少なかった。

 だが、それを見て取った者は、残らず息を呑んだ。

 フェイディアスの顔に、はっきりと、恐怖の色があった。

 たやすく命の消し飛ぶ戦場でも、これまで決して見せたことのなかった、恐れの色が。


「その時、俺は、思ったのだ。……ここへ来ることが出来たのならば、戻ることも出来るはずだと。怪我人を、小舟に乗せて送り出せば、アテナイ人どもの目を掠めて脱出させることも可能なのではないか」


 フェイディアスは言いながら、男たちの顔をゆっくりと見回していった。


「望みが、わずかにでもあるのならば、それに賭けるべきだ! 俺は……もう少しで、取り返しのつかぬ過ちを犯すところだった。あとわずかにでも早まっていれば、俺はこの手で、最も大切な者を救うどころか、彼から太陽の光を取り上げ、永久に暗がりの中へ追いやるところだった――」


「どちらが取り返しのつかぬ過ちか、分かったものではないぞ!」


 年嵩の戦士の怒声が、闇を震わせてとどろいた。


「この変節漢が! 父祖からの教えを忘れたか!? 『この盾を携えて、さもなくば、この盾に載って』! どれほど深い傷を負おうとも、勝利を得ずしておめおめと生き延びようと考える者など、スパルタの男には一人もおらぬわ! 想い人にそのような不名誉をなすり付けようと考えるなど、あの剛勇のフェイディアスが、急に気でも狂ったのか!? それとも、男ではなく、女になり下がったのか!?」


 そのとき、輪の外にいたリュクネがものすごい咳払いの音をたて、一同は一瞬、気を殺がれて、そのまま黙り込んだ。


「……なぜ、死ななければならない?」


 フェイディアスが再び、口を開いた。


「なぜ、無駄に死ななければならないんだ? ……確かに、戦う力を充分に残した男が勇気を失い、敵に背を向けるのは、最も蔑むべき怯惰のふるまいだ。だが……戦う力を失った者を戦場から遠ざけるのが、誤ったことだというのか? 戦えるにもかかわらず怯えて逃げることと、戦うことができないために戦を避けることとは、全く別のことではないのか!?」


「貴様は……《半神》やパイアキスを、年寄りや女子供のように扱うというのか!」


 目を剥いてそう怒鳴った年嵩の戦士に、誰が止める間もなく、フェイディアスが飛びかかった。

 だが彼は相手を殴りつけることはなく、年嵩の戦士の肩を掴むと、唾がかかるほどの剣幕で怒鳴り返した。


「では、戦えなくなった者には、もはや用はないというのか!? だから、さっさと死ねというのか!?」


「そういうことを言っているのではないわ、馬鹿たれが! 俺は、名誉の話をしているんだ!」」


 年嵩の戦士もまた、フェイディアスの両腕を掴んでねじ上げようとしながら、喉も破れよとばかり叫んだ。

 そんな相手を、フェイディアスは突きのけるようにして放し、


「戦う力を失った者は殺せと、それが、その者の名誉を守ることだと、あなたは考えるのか!?」


 相手の顔に指を突きつけ、激しく詰め寄った。


「生き延びて……生きて、いつかその四肢に力を取り戻す希望が残されているとしても、それを取ることなく、速やかな死を選べと? それが、俺たちの名誉だというのか!」


「その通りだ!」


 フェイディアスの指を払い除け、年嵩の戦士は地団駄を踏まんばかりの剣幕で喚いた。

 二人のやりとりのあまりの激しさに、周囲の男たちは割って入ることもできず、その場に黙って立ったままでいる。


「勝つか、死ぬか……俺たちには、そのどちらかの道しか許されない。それが、俺たちの名誉だ! おまえは、大切な者に自ら手を下すことを恐れているだけだ。臆病者だ……」


 年嵩の戦士は囁くように言い、腰の剣に手をかけた。


「フェイディアス。おまえがやらぬというなら、俺がやる」


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