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共に、この人を

『クレイトス』


 あの夜のことを、思い出す。


『俺は……あの日から、ずっと』


 熱い唇が触れ、強い腕がこの身を抱いた。

 傷の痛みも忘れるほどの、体が震えるほどの、歓びだった。

 心から敬愛し慕う方から、同じように強く求められることがこれほどの幸福であるとは、その瞬間まで知らなかった――


 この強い腕が動くことは、もうない。

 自分を抱くことも、重い槍を若枝のように軽々と持ち上げることも、もうない。


「レオニダス様」


 抜き身の剣を掴んだまま、クレイトスは夢を見ているような心地で口にした。

 名をお呼びするたびに、何も言わず、だがすぐにこちらに投げかけられた視線。

 その目が再び開くことも、もうない。


「お慕い申し上げています、誰よりも」


 抑え難くそう口にするたび、困ったように黙って見下ろした、あの表情が忘れられない。

 今は見る影もなく半面が崩れたその顔は浮腫むくみ、両の眼は閉じ、口は薄く開き、既に運命の女神たちモイライが死の覆いをかけてしまったように生気が感じられなかった。


 鼓動と、呼吸はある。

 それだけしかない。

 意識は戻らず、動きもない。


 レオニダスと同じようにこの洞窟に収容されていた数人の重傷者たちは、みな冥府からの呼び声に応えて地下へ下っていった。


 明日の朝になれば、この島にアテナイ勢が上陸する。

 ここも発見されるだろう。

 そして、クレオンがこの方を見つければ、奴はスパルタの誇りを貶めるため、傷ついた《半神》の身を晒しものにしようとするだろう。

 奴らに、貴方の誇りを穢させはしない――


「何もかも及ばぬ身でしたが、貴方の念弟エローメノスであったことは、僕の誇りです」


 レオニダスの盾と槍とを主の体の傍らに横たえて、クレイトスは呟いた。

 すでに焼け焦げた島から集められるだけの木材を集め、外に積み上げてある。


 この方は惨めな俘虜などではなく、最高の戦士としての栄誉をもって送られるべきだ。

 充分な薪や葡萄酒はなくとも、為し得る限りの礼をととのえて送って差し上げたい。

 今頃は、フェイディアス様も同じように、パイアキス様と別れのときを過ごしておられるだろう――


 クレイトスはレオニダスの傍らに膝をつき、とめどなく涙を流しながら、愛する人の顔につくづくと眺め入った。


 これが最後なのだ。

 この方はきっと西方のエリューシオンへ招じられ、自分は暗い地下へ行くだろう。

 クレイトスは身を屈めて両手をつき、《半神》の唇にほんのわずかに触れるような口づけをした。

 

 そのとき、外から駆けてくる足音があった。

 クレイトスは剣を手にしたまま跳ね起き、身構えた。

 恐怖ではなく廉恥の心がさせた動きだったが、自分自身の狼狽に対する腹立ちが込み上げた。

 今のような時こそ、最も心静かにあらねばならぬ時だというのに――


 洞窟の入り口から誰かが駆け込んできた。

 その人物は、こちらをみとめ、つんのめるようにして立ち止まった。


 それが一体誰なのか、はじめ、クレイトスには分からなかった。

 垢じみて泥に汚れた衣をまとい、髪を刈り上げた姿から、国有農奴たちヘイロータイの一人が迷い込んできたのだと思った。

 神聖な別離を奴隷ごときに邪魔されて、かっとして怒鳴りつけそうになった瞬間、その者の目と視線がぶつかった。


 それは、知っている顔だった。

 レオニダスの妻、リュクネだった。


 クレイトスは自分の表情が凍りつくのを感じた。

 これまで、彼女と言葉を交わしたことはなかった。

 戦士の妻が兵舎を訪れるなどということはなかったし、クレイトスは一度もレオニダスの家を訪ねたことがなかったからだ。

 だが、顔はわかる。間違いない。


 クレイトスは、ようやく口を開け、閉じ、また開けた。

 だが声は出てこなかった。

 彼女は、どうやってここに来たのか。

 なぜ、こんな姿になっているのか。

 いや、まさか。こんなことが現実に有り得るはずがない。

 自分はきっと、幻でも見ているのだ――


 混乱するクレイトスの目の前で、リュクネは、もはやクレイトスを見てはいなかった。

 彼女の目が横たわるレオニダスの姿に向けられていることに気付き、クレイトスははっとした。

 自分が犯した失態の数々を全て見通されたという気がした。

 彼女は、泣くだろうか。自分をなじるだろうか。

 強く誇り高い女性だと評判を聞いている。それでも――


 リュクネはしばらくのあいだ、何も言わず、不思議な表情を浮かべていた。

 それが、泣くのと笑うのと両方をこらえているのだと、気付くのに時間がかかった。


「婿殿」


 やがて、浮かんだ微笑みがくしゃりと歪んで、細められた目から涙が流れ落ちた。

 クレイトスがものも言えずにいるうちに、リュクネは横たわるレオニダスにゆっくりと歩み寄り、その側に両膝をついた。

 躊躇ためらいもなく両手を伸ばし、レオニダスの無事なほうの手をとり、慈しむように撫でた。

 その手つきの親密さが、クレイトスの胸を刺した。


「苦しかっただろう……こんな、酷い傷を負って」


 リュクネはレオニダスの手を頬に押し当て、叫ぶように言った。


「生きていてくれて、良かった……!」


 クレイトスは、見えぬ手に思い切り殴りつけられたような気がした。

 先ほど自分がレオニダス様の胸に剣を突き立てていたならば、この女性はどうしただろうかと思った。


 クレイトスが受けた衝撃はまた、反射的に湧き上がった不快の念でもあった。

 生きてさえいれば、良いというのか?

 こんな酷い傷を負い、美しさを失い、戦士としての力を失ってもなお、生きてさえいれば良いと?

 この女性は、レオニダス様がそれを望むと考えているのだろうか。

 スパルタの男が、こんなふうになってもなお、生き永らえることを望むとでも?


 自分ならばそんなことにはとても耐えられない、とクレイトスは思った。

 生きていても、戦士として立つことが出来なければ、何の値打ちもない。

 スパルタの男にとって、戦士でなくなるということは、肉体の死よりも遥かに過酷な運命なのだ。


 そうだ、だからこそ、このように教えられるのではないか。

『この盾を携えて、さもなくば、この盾に載って』と――


 だが、心のうちに溢れたそれらの言葉は、リュクネが身を起こして振り向き、涙に濡れた顔で輝くように微笑むのを見たとき、風に吹かれた砂のようにぼやけ、霞んでしまった。


「おまえが、クレイトスだな」


 彼女の笑顔の理由が、クレイトスには分からなかった。

 自分にはとても笑うことなどできない、と思った。

 こんなふうにレオニダス様が傷ついておられるのに。

 あなたと僕とは、レオニダス様を挟んだ敵同士でもあるというのに――


 やがて、彼女は言った。


「ありがとう。婿殿を、守ってくれて」


 一瞬、理解できなかった。何を言われたのか。


「いいえ!」


 気付いたときには、クレイトスは声を限りに叫んでいた。


「全て……全て、僕のせいなのです! 僕を庇って、レオニダス様は負傷され、僕が――」


 あのとき、自分がもっと善戦していれば。

 クレオンの動きを、もっとはやく察知することができていれば。

 あの瞬間に、レオニダス様を庇うか、せめて警告の声を発することができていれば。

 もしも、もしも、もしも――


 睨みつけるように見返した目から、涙が流れた。

 スパルタの男が女の前で涙を流すなど、あってはならないことなのに。


「この命で償えるような罪ではない。僕にできることはただ、明日の戦で、スパルタの戦士として、レオニダス様の念弟エローメノスの名に恥じぬ働きをして死ぬことだけです。……ですが……もしも、あなたが望むのなら……」


 そうだ、どうして自分に、この女性を非難することなどできるだろうか。

 自分は、この女性から、大地の上で最も優れた夫を奪ったのだ。

 ほとんど衝動のままに、クレイトスは、手にしたままだった剣を突き出した。

 リュクネに向けて柄を差し出し、その場に膝をつき、頭を垂れた。


「どうとでも、あなたのお気の済むようになさって下さい」


 激情の迸るままにそう口にしながら、ああ、とクレイトスは悟った。

 自分は、もう、生きていたくないのだ。


 明日の戦いまで待つことはない。

 今、この女性の手にかかることができるならば――


 死ねば、胸を掻き毟られるようなこの哀しみは終わる。

 レオニダス様をこんなふうにしてしまった自責の念に苛まれ続けることからも、レオニダス様を喪ってなお虚しく戦うことからも、解き放たれることができる。

 死が神からの賜り物と呼ばれる理由が分かったと思った。

 愛する人を喪うならば、生きることは、こんなにも苦しいのだ。


 クレイトスは目を閉じなかった。

 リュクネが一歩、そしてもう一歩、近付いてくるのが分かる。

 伏せた目の視界に彼女の爪先が映り、リュクネの手が、クレイトスの手から剣を取り上げた。

 そして、リュクネはその場にしゃがみ込み、剣を丁寧に地面に置いた。


「なあ、クレイトス」


 間近から呼びかけてきた声は、驚くほどに穏やかで、優しい。


「婿殿は……多分、わたしのことを、あまりおまえに話さなかっただろう? この人は、とにかく無口だから。だがな、わたしには、わりあいによく喋るのだ」


 クレイトスには、分からなかった。

 リュクネが、何を言っているのか。


「婿殿はな……遠征のあいまに家に戻ると、いつも、おまえのことを話していた。その美しく清廉なことは、俺の誇りだと。勇敢な戦士で、信頼できる念弟エローメノス……おまえを見ていると、心が、休まるのだと」


 クレイトスは思わず顔を上げ、リュクネの顔を見た。

 彼女は涙を流しながら微笑み、彼を見つめていた。


「婿殿は、おまえを愛しているのだ。心から。……わたしは言った。あなたのその想いを、クレイトスに伝えるべきだ、と。全てを分かち合い、生死を共にする者との絆は、妻とのそれとは違うものを、男に与えるから」


 リュクネの手がクレイトスの両肩にかかり、包み込むように力強く掴んだ。


「クレイトス。婿殿は、おまえがいることで、どれほど救われていただろう。この人は、戦いながら、いつも哀しんでいた。おまえがいなければ、その哀しみは婿殿を呑み込んでしまっていたに違いない。おまえは、ずっと、この人を守ってくれていた……」


「リュクネ、様」


 敗れた、と思った。

 これまでに味わったどのような敗北よりも完全に、圧倒的に敗北したと感じた。


 クレイトスはいまだ妻というものを持たなかったが、スパルタの男たちのあいだで結ばれるほどに強く深い絆は、男と女との間には成り立たないものと考えていた。

 スパルタの男であるということは、戦士であるということ。

 いかに優しく機転が利こうとも、戦場を知らぬ女たちには、男を理解することなどできないと思っていた。


 だが、そうではない。

 この方は、自分などよりもずっと昔から、ずっと深く、レオニダス様の心を知っていた。

 かつての夜、凄まじい戦いの後で神殿のきざはしに座り、哀切な詩をうたっていたレオニダスの姿が記憶によみがえった。


 この女性は、レオニダス様の強さを賞賛するだけでなく、その苦悩も、哀しみも……弱さも、全て知って、母鳥がその翼で雛を抱くように包みこんできたのだ。

 戦列で隣に立つのではなく、スパルタの地で家を守りながらも、ずっとレオニダス様の支えであり、その心の守りであり続けていたのだ。


 自分にはできなかったことを、目の前の女性がずっと果たし続けていたこと、そして、彼女が夫だけでなくクレイトス自身をも労り包もうとしていることを感じ、とめどもなく涙が流れた。


 だが、時が迫っている。

 いつまでもこうしていることはできない。


「僕らは、間もなく泉の陣地に移ります」


 荒々しく腕で涙を拭い、クレイトスは告げた。


「明日の夜明けと共に、戦いが始まる。あなたは、お戻りください。この島を逃れて、スパルタの地へ。そして、我らのことを皆に伝えてください。ですが、その前に……」


 リュクネが地面に横たえていた彼の剣を取り、驚いたような顔をしている彼女に向けて、再び差し出す。


「奴らは、レオニダス様を見出せば、捕らえてその名誉を傷つけようとするでしょう。そんなことを許すわけにはいかない。……レオニダス様は、心からあなたを愛しておられる。あなたの手で逝くことを、望まれるはずです」


 クレイトスに見つめられ、リュクネはしばらくのあいだ、表情を変えなかった。

 少し驚いたような……この者は、何を言っているのだろうか、というような。


「何故?」


 やがて彼女は、本当に理解できないという調子でそう言った。


「何故、わたしが、婿殿を殺すなんて真似をしなければならないんだ? わたしは、ここに残り、婿殿を守る」


「無理だ!」


 この女性は一体何を言っているのか?

 先ほど見方を改めたばかりなのに、やはり女は分かっていない、という言葉が口をついて出そうになった。

 戦を経験したことがない者は、自分自身の有り得ない幸運や武勇を夢想する。

 だが、本当の乱戦の中で、そんなものは存在しないのだ。


「アテナイ兵は大勢いるのだ。女の身で、守り切れるはずがない!」


 リュクネは女だ。男のような姿のために見間違えられて殺されるならばまだしも、女であると分かれば、アテナイ人どもから辱めを受けることにもなりかねない。

 レオニダス様のためにも、それだけは、許すことができない。


「ならば、クレイトス、おまえも残ってくれ」


 リュクネは、あっさりとそう言った。


「わたしがわざわざこの島まで出かけてきたのは、婿殿と共に戦うためだった。それが叶わぬこととなった今、わたしは、婿殿を守って戦う。おまえも力を貸してくれ」


「何を仰っている!? 僕は《獅子隊》の戦列を離れられない。仮に許しが得られたところで……たった二人、逃げ場もない、こんな場所で! みすみす殺されるために残るようなものだ。たった二人でこの人を守り切るなど、無理だ!」


「最後まで戦い抜いた上で、本当に無理だったなら、その時、三人で死ねばいいではないか。……ほら、これは持っておけ、わたしにも剣はある」


 リュクネはそう言い、クレイトスに剣を押しつけた。


「確かに、神々の定め給うた運命を逃れることは、誰にもできはしない。だが、神々は、運命が窮まるその瞬間までは精一杯に抗うための力を、人間にお与え下さったのではないか? 今こそ、その力を尽くすときだ。迫りくる運命を見据えて、目を開き続けるのだ。見ろ、婿殿は、まだ生きている。渾身の力で、死に抗っているじゃないか」


 リュクネは、意識のないレオニダスに向けてちょっと微笑んでみせた。

 クレイトスに視線を戻し、真っ向からその目を見据える。


「死よりも恐ろしいことは、いくらでもある。……それすらも、恐れるべきではない」


 貴女はそれがどんなものか本当には分かっていないだけだ、と、クレイトスは言いたかった。

 死よりも恐ろしいこと。

 名誉を奪われること。蔑まれ、誇りを踏み躙られること。

 切り刻まれ、汚物と臓腑の中に横たわること。苦痛と絶望。

 貴女は、どれも知らぬはずだ。


 ――だが、自分自身もまた、未だ、それを知らぬ。


 不意に、そのことに気付いて、クレイトスは目を見開いた。

 自分は……スパルタの男として最も恥ずべき行い、恐怖から逃れることをしようとしていただけだったのか?


 レオニダス様であれば、どんな道を選んだだろう。

 仮に、今ここに横たわっているのがクレイトスであったとすれば、レオニダス様は、どんな――


「スパルタの男は、よく疲労に耐え、欠乏に耐え、恐怖に耐えるという。男も、女もだ。ギリシャ人ヘレネスの歴史が語られるようになって以来、今この時ほど、それを証するのに相応しい機会はなかったことだろう」


 リュクネの力強い両手が、クレイトスの肩を掴む。


「クレイトス。共に、この人を守ろう」


 レオニダス様であれば、どんな道を?

 いまだ、その答えは出ていなかった。


 だが、簡単なことだ。

 今、愛する者が、死と戦っている。

 ならば、自分は、命が尽きる瞬間まで、それを助けるために戦うだけだ。

 恐怖と迷いの覆いが取り除かれ、そのことに、気付かされた。


 クレイトスはリュクネの目を見据え、はっきりと一度、頷いた。

 リュクネはにっこりと笑って彼の肩を叩き、手をはなす。


「リュクネ様」


 そこへ、完全武装をととのえたフェイディアスが入ってきた。


「美少年も、いるな」


「ああ、フェイディアス殿。実は折り入って話が」


 さっそく言い始めたリュクネを、フェイディアスは片手を上げて制し、


「リュクネ様。あなたの勇気を恃み、こちらからも折り入ってお願い申し上げたいことがある。ちょっとこちらへ」


 そう言って二人を手招いた。


「美少年、おまえも来い」


 リュクネとクレイトスは、顔を見合わせた。


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