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盾の誓い

「ふざけるな!」


 ディオクレスが怒鳴り、地面を踏みつけて立ち上がった。

 大きく灰が舞い上がり、彼の隣に腰を下ろしたフェイディアスが顔を背けて片手を振る。

 スパルタの戦士たちのうち、年嵩の者たちが中央に、若い者たちは外周に集まり、大きな輪を作っていた。

 少し外れたところでは、アテナイ艦隊から派遣されてきた使者が交差した槍で砂の上に押し伏せられ、蒼ざめた顔だけをこちらに向けている。


無条件降伏・・・・・だと!? 誰に向かって物を言っている! 下らぬことを抜かすその舌を叩き切り、肉も一寸刻みにして送り返してやるわ! それが、我らの答えだ!」


 激しい賛同の唸りと、武具を打ち鳴らす凄まじい物音が上がり、使者の顔色は死人のそれのようになった。


「まあ、皆、落ち着け」


 エピタダス将軍が立ち上がり、静かに言った。

 部下たちが示す興奮とは対照的に、将軍は腕を組み、その視線はまっすぐに据えられ、まるで自分たちとは何ら関わりのないことを話しているかのようだ。


「聞いての通り、アテナイ側の主張は、無条件降伏か、それとも全滅か、日暮れまでに選べと、こういうことじゃ。ディオクレスの意見は徹底抗戦。皆、それでよいかな?」


「無論だ!」


「戦おう! 大地の上でスパルタ人を相手取るとはどういうことか、とくと教えてやるわ!」


 年嵩の者も、年若い者も一様に熱狂的な叫びをあげる中、フェイディアスだけは、炎を見つめて黙り込んでいる。


「《獅子隊》を預かるフェイディアスよ。そなたの考えを述べるがいい」


 エピタダス将軍の言葉に、皆が静まり、ディオクレスが「ふん」と鼻を鳴らす音だけがやけに大きく響いた。

 フェイディアスは食い入るように見返してくる一同の顔を順に見渡してから、立ち上がり、おもむろに口を開いた。


「俺も、戦うことに賛成だ」


「おお!」


「やろう! アテナイ野郎どもを冥府の河ステュクスに叩き込め!」


「――ただし!」


 出し抜けに両手を強く突き出した、フェイディアスのただならぬ剣幕に、再び全員が押し黙る。

 今度は、しわぶきひとつ聞こえない、本当の沈黙だ。


「交渉の余地は、本当に、もう、全くないのか?」


「……交渉だと!?」


「俺たちは、いいだろう!」


 喚き出したディオクレスを、目玉を剥いて怒鳴りつけ、フェイディアスは再び急速に声の調子を落とした。


「そうだ。俺たちは、いいだろう。この手に盾と槍を持ち、父祖の名に恥じぬ戦いをし、恐れることなく死ぬだけだ。だが……戦えない者は、どうする? 負傷兵たちは。俺たちの、同胞たちは……」


 フェイディアスのその言葉に、全員が黙り込んだ。


 スパルタの男たちは、一定の年齢になれば全員が兵舎で共同生活を送る。

 戦士たちの誰もが、互いに食事を共にした仲であり、幾度もの遠征を乗り越えてきた戦友同士だ。

 ここにいる全員が、全ての負傷兵たちと、直接、言葉を交わしたことがある。

 特に、自分自身の念弟エローメノス、あるいは念者エラステースが傷を負い横たわっている者たちは、顔を伏せて苦しげな表情を見せた。


 誰もが、分かっている。

 自分たちは、素晴らしい武勲をあげるだろう。

 一人が十人、二十人を殺し、最後の一人まで敵に背を向けることなく戦い続けるだろう。

 そして、最後の一人が倒れた後には、血に塗れた盾と槍と、名誉だけが残されるのだ。

 だが、戦えない者たちは?


 地形の点から見て、アテナイ勢を迎え撃つとすれば、もともと陣地を築いていた場所で密集し、防御を固めるしかない。

 だが、重傷の戦士たちを今いる場所から動かすことはほとんど不可能だった。

 よしんば無事に陣地まで移送することができたとしても、彼らを守りながら、押し寄せるアテナイ兵たちと戦うなどということはできない。

 傷ついた男たちは、我が身を守るために盾を掲げることすらできず、切り刻まれ、踏み躙られて息絶えてゆくしかないのだ。


 しばらくして、男たちのあいだから、呟くような声がいくつも上がった。


「もしも、交渉の余地が、あるのだとすれば……」


「せめて負傷兵たちだけでも本土に後送することができるよう、掛け合うことはできないものか?」


「馬鹿な! こんな卑怯な手を使うような男相手に、交渉など!」


「――使者殿よ、どうなんじゃ?」


 エピタダス将軍に、視線さえも向けずに問われ、アテナイ側の使者はもはや歯の根の合わぬ口を必死に動かして返答した。


「わ、我らの司令官は……む、む、無条件降伏か、全滅か、それより他に、一切、選択肢はないと伝えよ、と……」


「戦いましょう!」


 不意に決然と響いた声の源に、一同が注目する。

 輪の外周で、クレイトスが立ちあがっていた。


 年が若いということもあり、彼がこのような場ですすんで発言したことは、これまでに一度もない。

 一瞬、場がざわめいたが、一同はやがて静まり、彼の言葉に耳を傾けた。


「クレオンは、神々をも恐れぬ、残虐な卑怯者です。正面からの戦いを恐れ、火をもって我らを焼こうとするような男だ。そんな男に、スパルタ人が降伏することなど、絶対に有り得ない。……フェイディアス様、失礼を承知で申し上げます。交渉など、初めから無駄です。それを守る気もないような男を相手に、交渉をするなど馬鹿げている。飛び道具をもって勇士を討ち取ろうとするような男相手に、いったい、どんな交渉が成り立つというのでしょうか?」


「おお……その通りだ!」


「クレイトスの言う通りだ!」


 周囲から賛同の唸りが上がり、がちゃがちゃと武具が打ち鳴らされた。

 フェイディアスは、クレイトスの目をじっと見つめた。

 そこに、不退転の覚悟を読み取り、フェイディアスはかすかに頷いた。

 そして自分は腰を下ろし、腕を振って、クレイトスに先を続けるよう促した。


「僕は、この目で、クレオンの姿を直接見ました」


 クレイトスは、一同のあいだを一歩、また一歩と進みながら語った。

 その美しい青い目は、今は怒りと憎悪に翳っているように見えた。


「奴は……レオニダス様を撃ったとき、笑っていた! あれは、血も涙も持たぬ魔物です。覚えておいでですか。かつて、ミュティレネ市が、アテナイ率いるデロス同盟から脱退しようとしたときのことを? 報復として、ミュティレネの市街を完膚なきまでに打ち壊させたのがクレオンだったはず。それだけではない。奴は、成年男子は全員処刑し、女子供は奴隷として売るよう提案したといいます」


 彼は一同を見渡し、最後に、エピタダス将軍を見た。

 その目には、ほとんど睨みつけるような、強い光があった。


「交渉も、降伏も、結果は同じ。名誉なき死が待つだけだ。我らは、スパルタ人としての名誉を守り、最後の一人まで戦いましょう!」


「無論だ! よく言った、小僧!」


 ディオクレスが勢いよく立ち上がり、叫んだ。

 彼がこのようにクレイトスを讃えたのは、皆の記憶にある限り、今この時のただ一度きりだった。


「小僧の言う通りだ。――皆! あの誓いを思い出せ! 『この盾を携えて、さもなくば、この盾に載って』! スパルタの戦士には、勝利か、さもなくば死かの選択肢しかないのだ。生きて虜囚の辱めを受けるなど、思いもよらん!」


「よし」


 エピタダス将軍が、淡々と、穏やかな笑みさえ浮かべて頷き、立ち上がった。


「話は決まった。此度が、我らの最後の戦となるじゃろう。皆、これより身を清め、髪をくしけずり、膚に香油を塗っておけ。もしも、まだあればの話じゃが。……おお、そうじゃ」


 とぼけた道端のじいさんのような調子で振り向いたエピタダス将軍に見つめられ、アテナイ側の使者はがちがちと歯を鳴らして身をもがいたが、槍の柄でますます強く砂の上に押し伏せられただけだった。


「この話を、クレオンに伝えてもらわねばならんな。誰か、返事を書いといてやれ。そうじゃな、こういう仕事は、ディオクレスが得意かのう」


「お任せを」


 短剣を引き抜いたディオクレスが、舌舐めずりをしそうな顔で近付いてくるのを見て、使者はとうとう悲鳴を上げ、失禁した。


「ああ、そう怖がることはない。殺しはせんよ。……そう、本物の男なら、これくらいのことで死にはしないはずだ。そうだろう?」

 


     *     *     *



「うっわ……えっぐい真似しよんなぁ!」


 二人がかりで担ぎ込まれてきた使者が、自分の足元に倒れ込んだのを見て、クレオンは両手と片足を上げて驚きを表した。


勝利をもたらす者フェレニケー》号はやや沖合に投錨させ、小舟で半島の海岸に上陸したクレオンは、大きな天幕を張らせてそこに陣取り、報告を待っていた。

 そこへ、スファクテリア島から小舟で送り返された、半死半生の使者が運び込まれたのである。

 血塗れになった使者の裸の背中には、一面に、刃物で付けられたと思しき傷で“ΜΟΛΩΝ ΛΑΒΕ”と刻みつけられていた。


 天幕にはクレオンと、出入口を守る付き人たちしかいないが、ここにたどり着くまでに、多くの兵士たちが使者の無残な姿を目にしたはずだ。

 戦うより先に、恐怖をもって敵を威圧する。

 スパルタの常套手段だ。


「大丈夫か、君? よう、生きて戻って来れたねえ」


 自分で送り出しておきながらそんなことを言って、クレオンは、急に笑い出した。


「それにしても、また、この台詞かいな! 《来て、手に入れモローン るがいいラベ》……ああ、そう来ると思うとったよ。ほんま、あの人らの頭ァ、揃いも揃って、岩と鋼でできとるんとちゃうか? 後悔しても、知らへんでェ」


「……クレオン様!」


「うん、何?」


 急に、使者の男が血塗れの手でクレオンの足首を掴んだ。

 クレオンは大して嫌な顔もせず、その場にしゃがみ込んで首を傾げた。


「どないしたん? 遺言やったら、誰か呼んで記録さしとくけど。いや、でもなー、この傷の程度やったらまだ大丈夫やと思うで? 僕は」


「あの話、本当なのですか!?」


「あの話? ……て、どの話?」


「あの島に、火を放ったのが、貴方だと!」


 使者は肘をついて身を起こし、目を剥いてクレオンを見た。


「スパルタ人たちが、そう話しておりました! 貴方は、まさか」


 目にも止まらぬ速さで引き抜かれた短剣が背中に突き立ち、使者は全身を硬直させると、ごぼりと血を吐いて死んだ。

 頭が床にぶつかるごとんという音が、重く、虚ろに響いた。


「あかんて……そんな、いらんこと言うたら」


 使者の服の端で短剣を入念に拭い、クレオンは、嫌そうな顔で付き人を呼んだ。


「君、ここ、片付けといて。――彼は、傷の痛みのためと、血を失い過ぎたために死んだっちゅうことにしよう。非戦闘員である使者に残虐な行為を加え、死に至らしめたスパルタ人どもには、それなりの代償を支払ってもらう必要がある……」


 もはや物言わぬ使者を運んで付き人たちが出ていくと、クレオンは天幕の中に運びこませてある小さな机と椅子に座り、パピルスとペンを取って熱心に手紙を書き始めた。

 記録を兼ねた報告を、本国に書き送るためだ。


 しばし一心にペンを走らせていたクレオンだが、何度目かにインク壺にペン先を突っ込んだとき、その動きが止まった。

 天幕の外で、低く抑えたやり取りの声がしたのを聞きつけたのだ。


「……ええよ。通して!」


 天幕の出入口に下がった布がめくられ、姿を現したのは、デモステネスだった。

 腫れぼったい両目は、いまだ本調子ではないことを窺わせるが、今、その視線はまっすぐにクレオンを捉えていた。


「おう、デモステネス君」


 クレオンは笑顔になり、ペンを置いて立ち上がり、両腕を広げて彼を迎えた。


「もう、具合はええんか? そない無理せんと、ゆっくり寝とったらええのに」


「懐に短剣隠し持った奴に、寝台の真横で見張られて、のんきに寝てなんかおられるかいな」


 デモステネスは、表情を変えずにそう言った。

 クレオンもまた、表情を動かさなかった。

 にこやかな顔のままで、言った。


「ほんで? どうよ。――腹ァ、括ったんかいな」


「僕も、だいぶ悩んだよ」


 そう言って視線を逸らしたデモステネスの声は、相変わらず静かで、顔つきもどこかぼんやりと、まだ眠気が去らないといったふうだ。

 そのまま、しばし、沈黙が落ちる。

 天幕の外で、クレオンの付き人たちが槍を握り込み、剣を鞘から引き抜く、その微かな音さえも聞こえそうなほどに。

 デモステネスは、盛大に鼻息を吹いた。


「僕の結論は、こうや。――僕は、奥さんが待ってるアテナイに帰りたい。名誉ある死体になってやなしに、生きて、アテナイに帰りたい。そして――生きて帰る以上は、惨めな敗戦の将軍としてやなしに、名将として・・・・・帰りたいんや」


 再びクレオンを見返したデモステネスの眼差しは、完全に据わっている。


「クレオン君。僕は、誇りを捨てても、栄誉と共に帰ることを選んだ。そのために、君に協力しようやないか。もちろん君は、僕に、正当な対価を支払ってくれる用意があるんやろうな?」


「ははははは!」


 クレオンは大声を放って笑い、使者の血に汚れた絨毯を何のためらいもなく踏んで、デモステネスの肩を抱いた。


「さすがや、デモステネス君! 君なら、きっと、僕の考えを理解してくれると思うとった。正当な対価やて? ……もちろん! そこらのいんちき商売人と一緒にせんといてや。僕は、必ず、スファクテリア島を落とす!」


「スパルタ側が、無条件降伏の勧告を蹴ったらしいやないか。まあ、それは最初から分かっとったことやけど。……後は、上陸戦しかない」


 デモステネスは、意図して茫洋と見せていた表情を引き締めた。


「明日の夜明けを待って、いよいよ、総攻撃やな?」


 もはや太陽は西の水平線に向かって傾きつつある。

 激突のときは、明日。

 夜の闇が去り、再び日が昇ってからとなるだろう――


「デモステネス君、デモステネス君」


 クレオンはにやにや笑いながら、デモステネスの肩をぽんぽんと叩いた。


「なーにを、言うてはりますねんな。相手は、痩せても枯れても、天下のスパルタ軍やで? そないに古臭い手ェ使うたら、先方さんに対して、失礼にあたりますがな!」


「はあ?」


 わざとらしいクレオンの口調に、デモステネスは眉をひそめた。


「クレオン君。……君、まだ、何か企んでるんか?」


「まあ、見とき」


 この上もなく甘美な果実を口にしたときのように、クレオンは口元を綻ばせた。


「僕は、今夜、戦争の歴史を変える」



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