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《獅子隊》を継ぐ者

 あの朝の出来事を、思い出す。


『いいえ、王よ。ふさわしい少年はおります』


 その声を合図に、居並ぶ勇士たちの間をぬって隊列の前へと出ていった。

 今にも駆け出さんばかりに心が逸り、それを抑えてことさらにゆっくりと歩を進めながらも、心臓は早鐘のように打っていた。


 その方の名は、前々から知っていた。

 知らぬ者などいようはずもない。

 姿も、遠くから拝見したことがあった。

 美しく体を撓らせて、誰よりも遠くへ槍を投げる姿は本当に《半神》そのものだった。

 他でもない自分がその方の念弟エローメノスとして選ばれたと聞いたとき、初めは、それが本当のことだなどとは、とても思えなかった――


『リュシッポスの息子、クレイトス……』


 自分の名を呼び上げる声が、まるでずっと遠くから響いてくるように聞こえた。

 初めてその方と間近に向かい合い、視線を合わせたとき、あまりにも静謐なその眼差しに圧倒された。


『レオニダス様』


 緊張のあまり声が上擦らなかったのは、奇跡のようなものだ。


『レオニダス様の念弟エローメノスとして選ばれたことを、この上ない栄誉と思います』


 その瞬間、地平線から最初の陽光が射し、《半神》の姿を眩く照らし出したことを、今でもはっきりと思い出すことができる。

 あの瞬間の全てが、心に鮮やかに焼き付いていた。


 西に星々が残り、東に太陽が昇ろうとする夜明けの空の色も、大気の冷たさも、風の音も、深く静かな眼差しも――




「レオニダス様……」


 呟きは、声にはならず、ただ唇の動きだけにとどまった。


 スファクテリア島の海岸に幾つか見られる、潮が満ちても水没することのない洞窟のひとつに、重傷の負傷兵たちが集められている。

 ある者は、燃え残りの木の枝葉を集めてこしらえた即席の寝床の上に、ある者は、ただ地面の上にマントを置いた上に、あるいは弱々しく唸り呻き、あるいは声もなく横たわっている。


 その中に、《獅子隊》の隊長レオニダスもいた。

 頭頂部から顔の右上半分、そして肩から腕、胴の右半分を覆う火傷は、完璧な素描を汚い手で擦り回したように、レオニダスの整った容貌を完全に損なってしまっていた。


 その傷が、手当てを心得た兵たちの手によって薬草を煮出した汁で清められ、布で覆われていくのを、クレイトスはただ呆然として見ていた。

 そしてレオニダスがここに運び込まれてからというもの、クレイトスはずっと、その側についていた。


 部隊が未曾有の危機にある今、それどころではないはずだということは理解している。

 だが今、他に何をすることも、どこへ行くことも、クレイトスにはできなかった。


 辛うじて、息はある。

 だが、どれほどもつものであろうか?

 手を近付けると、布越しに血と汁をじくじくと滲ませる焼けた膚が熱を持っているのが分かった。

 傷が広ければ、傷口から毒が入る恐れも大きくなる。

 戦で死ぬ者は、即死するのでなければ、皆、傷が腐って死んでいくのだ。


(……死ぬ?)


 レオニダス様が?

 だとしたら、それは、自分のせいだ。


 あの呪うべき瞬間の出来事は、混乱した記憶の中でも、はっきりと浮かび上がってきた。


 あの時、自分は、いったい何をしていた?

 腑抜けのように砂の上にへたり込み、ようやく立ち上がろうとしていたところだった。

 こんな自分を守るために、レオニダス様は戦い、そしてあの卑怯者の矢を受けられたのだ。


 もしも、自分がもっと善戦していれば。

 もしも、クレオンの動きを、もっとはやく察知することができていれば。

 あの瞬間に、レオニダス様を庇うか、せめて、警告の声を発することができていれば。

 それを考えると、耐え難いほどに胸が痛み、隠しようもなく涙が溢れた。


「申し訳ありません」


 クレイトスは愛する人の傍らに膝をつき、肩を震わせ、声を立てずに泣いた。

 レオニダスの苦しみを、我が事のように感じるからだけではない。

 クレイトスが感じているのは、自身の失態によって代えのきかぬ至宝を打ち砕いてしまった者が感じる、どのような他者の目よりも言葉よりも苛烈な、自責の念だった。


 レオニダスはスパルタの男たちの理想の顕現であり、《獅子隊》最高の戦士であり、その象徴だった。

 彼がこのような災禍に見舞われて倒れたことは、誰ひとりとして言葉には出さぬが、不吉な神託と同様、暗い運命を予言しているように思われた。


(僕のような者のために、レオニダス様が……)


 愛する人から、神々に与えられた美を奪い、戦士としての力を奪ってしまったのだ。

 死をもってすら償うことのできぬ罪だ。


「申し訳……ありません……」


 何度も何度も、その言葉を繰り返し、岩の床についた両手を握り締めて、クレイトスは泣いた。

 自分にはそんな資格などないと思いながら、涙を止めることができなかった。


 その頬に、ふと、何かが触れた。

 クレイトスは、目を見開いた。

 レオニダスの左手が上がり、そっと、クレイトスの頬を撫でている。

 息を飲むクレイトスの顔を、レオニダスは布に覆われていない左の目を薄く開けて見上げていた。

 右端が火傷で癒着した唇が、やや不明瞭な囁きを発した。


「何故……泣く?」


 クレイトスの目から、新たな涙が溢れ出した。

 これと同じことが、遠い昔にもあった。

 ――自分が、あまりにも、不甲斐なく。

 あのときの自分は、確か、そう答えたのだった。


 今はもう言葉にさえならず、クレイトスは震える手でレオニダスの左手を取り、握り締めて、自分の額に押し付けた。

 申し訳ありません、申し訳ありません、と口の中で呟きながら、涙を流すことしかできなかった。


 レオニダスはされるがままになりながら、薄く開いた目で、クレイトスをただ見つめていた。

 やがて、彼は囁いた。


「お前は、よくやった」


「いいえ!」


《半神》の一言が、心の堰を突き崩す。

 他の負傷兵たちへの気遣いも忘れ、クレイトスは目を見開いて叫んだ。


「僕のせいです! あなたをお守りすることもできず、あの炎を食い止めることもできず! 僕のせいで、あなたを、こんな目に! ……僕のほうが! あなたではなく、僕が受けるべき運命だったのです!」


「クレイトス」


 レオニダスの左手が、不意に驚くほどの力で、クレイトスの手を握り返した。

 その手が、ゆっくりと二度、振られた。


「お前が、無事で、良かった」


 その瞬間、レオニダスはわずかに微笑んだように見えたが、その表情はすぐに引きつり、苦悶を堪えるように大きく歪んだ。

 食い縛られた歯のあいだから軋るような唸りを上げ、レオニダスは弱々しく身をもがいた。


 クレイトスは跳ね起き、すっかり冷め切った薬湯の器を手に取った。

 痛みを和らげる、柳の樹皮の煎じ汁だ。

 レオニダスの口元にあてがい、わずかずつ注ぎ込んだが、レオニダスは激しく咳き込み、飲み下すことはできなかった。

 大きく身動きをしたことで更なる苦痛が襲ったのだろう、彼は獣のように唸り、身を捩じった。


 愛する人の苦悶する姿が、心を抉る。

 クレイトスは短剣を引き抜いた。

 自身の衣服の裾を裂き、その布地に薬湯を含ませて、レオニダスの口元にあてがった。

 わずかずつ、滴らせるように薬湯を飲ませながら、もう一方の手でレオニダスの胸板を押さえ、どうか動かないでください、どうか、と祈るように囁き続けた。

 

 どれほどのあいだ、そうしていただろうか。

 何度も布を薬湯で湿らせ、レオニダスの口に含ませるうちに、やがてその息遣いが少しずつ静まり、引き攣るような筋肉の緊張が解けてゆくのが手のひらに伝わってきた。


 しばらくのあいだ、どちらも、何も言わなかった。

 クレイトスはレオニダスの顔を見つめたまま、その胸と肩をゆっくりとさすり続け、レオニダスは時折かすかに眉根を寄せながら、目を閉じて浅い呼吸を繰り返していた。

 やがて、その左の瞼が再び開き、クレイトスを見上げた。

 クレイトスはすぐに顔を寄せ、その言葉を聴きとろうとした。


「……フェイディアスは」


「御無事でいらっしゃいます」


「ここへ、呼んでくれ」


 一拍おいて、その言葉が意味するところを思い、クレイトスは心臓を突かれたような気がした。

 レオニダスの左目が動き、もう一度、クレイトスを見た。


「フェイディアスを、ここへ」


「……はい!」


 クレイトスはよろめきながら立ち上がり、洞窟の入口へ走った。

 だが、洞窟を出るか出ないかのうちに、彼はそこに立っていた男にまともに突き当たり、もう少しで倒れそうになった。


「おう」


 クレイトスが出てくることを予測していたのか、その男――フェイディアスは驚いた様子も見せず、軽い口調で言った。


「すまん。さっきから、呼びかけようと思っていたのだが、機を逸した」


 彼は頷きながら、いつものように目を大きくしてクレイトスに目配せをしてみせた。

 その目は、真っ赤になっていた。


「隊長殿は?」


「中で、フェイディアス様をお呼びです」


「そうか。……美少年、お前も来い」


「いえ、僕は」


「証人だ」


 フェイディアスはクレイトスの腕を掴み、洞窟の中へと踏み込んでいった。

 彼は何でもなさそうにレオニダスの傍らに歩み寄ると、地面に膝をつき、レオニダスの顔を覗き込んだ。


「隊長殿。お呼びにより、フェイディアス、参りました」


 レオニダスは、半分を布に覆われた顔でフェイディアスを長い間見上げていたが、やがて視線を岩の天井に戻し、聞き取りづらい声で囁いた。


「次の戦いは、すぐに来る。……フェイディアス。お前に《獅子隊》を預ける。俺に代わり……指揮を」


 何を気弱なことを仰せになりますか、などと、フェイディアスは言わなかった。

 スパルタにおいて、部隊の指揮官とは、隊列の最右翼、最前列を守り、最も激烈な戦闘に身を晒す者のことを言うのだ。

 今のレオニダスに、それができないことは明らかだった。


「《半神》の如く、とはいかぬ点は、前もってお許しいただきたいですな」


 フェイディアスは、大きな目を真っ赤にしたまま、常の彼のように笑ってみせた。


「このフェイディアス、神々にかけて、力の及ぶ限り……そして、隊長殿が戦列にお戻りになるまで、《獅子隊》の隊長の役目をお預かりいたします」


 その言葉を聞くと、レオニダスはわずかに安堵したような表情を見せ、小さく頷き、目を閉じた。

 クレイトスが叫び、飛び出そうとした。

 フェイディアスはそれを強く制し、レオニダスの顔の前に、静かに耳を寄せた。

 ややあって、フェイディアスは笑いながら身を起こし、クレイトスの胸を拳で突いた。


「おい。何を慌ててる、美少年? 隊長殿は、眠っておられるだけだ」


 注意深く見れば、レオニダスの胸が小さく、しかし規則正しく上下していることが分かる。


「お前が飲ませて差し上げた薬湯が効いたのだろう。痛みから解き放たれて深く眠れば、体は、大いに回復するものだ。……おい! 聞いてるのか?」


 そう言われてもなお、クレイトスは、呆然としていた。

 レオニダスを永遠に失ってしまうという恐怖と衝撃、その直後の安堵に、精神が追い付いていないのだ。

 フェイディアスは溜息をつき、立ち上がると、いきなり拳を握ってクレイトスの頬を殴り付けた。


「俺たちに、腑抜けている時間はない」


 岩の床の上に倒れ、目を見開いてこちらを見返しているクレイトスに、フェイディアスは、むしろ穏やかとさえ言える声で告げた。


「しっかりしろ。俺たちが薄ぼんやりとしていては……守るべき者を、守ることができん」


 クレイトスの顔に、はっとしたような表情が浮かんだ。

 やがて、彼は、ひとつ頷いた。

 その動作に、再び、力が戻っていた。


「行くぞ、美少年」


「はい!」


 二人は、洞窟を出たところで、揃って立ち止まった。


「ちょうどよいわ」


 そこにいたのは、エピタダス将軍だ。

 黒光りする顔を、煤でさらに黒くした将軍は、フェイディアスとクレイトスを交互に見た。

 

「《獅子隊》の指揮官に用があったのじゃ。クレイトス、そなたも来い」


「今度は何事です?」


 これも性分か、ややおどけたふうに言ったフェイディアスだが、将軍の次の言葉に、たちまち表情を引き締めた。


「アテナイ艦隊からの使者じゃ。わしらに、最後通牒を突きつけてきおったぞ」



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