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スファクテリア炎上

 レオニダスは、ようやく動きを止め、激しく肩を上下させた。

 たったの三人――自分とテレシクラテス、オルセアスで、十人以上の敵を相手取り、全滅させたのだ。


 いや、自分は、最初に槍で殺した一人と、隊長のほかは相手にしていないのだから、テレシクラテスとオルセアスが、残る全ての敵を二人で片付けた計算になる。

 スパルタの男の名に恥じぬ、見事な戦いぶりだ。


 テレシクラテスは腿のあたりにやや深い手傷を負わされたらしく、オルセアスが彼に駆け寄り、肩を貸している。

 だが、テレシクラテスはレオニダスと視線が合うと、にやりと笑い返してきた。

 命に別条はないようだ。


 もう一人、一緒に来ていたオイクレスは、この戦いに突入する直前、炎を目にした時点で伝令として走らせた。

 今頃、彼は暗い斜面を猛然と駆け上がり、北の陣地に到着して状況を報告しているだろう。


 ここに至って、レオニダスは初めて、クレイトスを振り返った。

 クレイトスは、よろめきながら辛うじて立ち上がり、今にも泣き出しそうな顔でこちらを見ていた。

 レオニダスは、賞賛の意をこめて自分の念弟エローメノスを見つめ、小さくかぶりを振った。


 きっと、お前はまた、自分には何もできなかったと嘆いているのだろう。

 そうではない。

 神代の英雄にも比すべき偉業を、お前はなしとげたのだ。

 あの砂浜でのお前の行動、お前の機転がなければ、我々は状況を何一つ理解することができないまま、何の備えもなしに炎に襲われていただろう。


(だから、そんなふうに、泣かなくていい)


 レオニダスは、そう言おうとした。

 彼がかすかに口を開いたとき、ひゅうと音がして、暗い海から一条の光が飛来した。

 赤みがかった小さなその光は、斜め後ろから、勢いよくレオニダスの肩にぶつかり――

 次の瞬間、爆発的な炎が、レオニダスの体を呑み込んだ。



 テレシクラテス、オルセアスが、石と化したように硬直する。

 クレイトスにもまた、何が起きたのか分からなかった。


 レオニダスが苦痛の叫びを上げ、燃え上がる衣を振り払おうと身をよじるのを見て、男たちはようやく何が起きたのかを悟った。


 レオニダスの背に、一本の矢が突き立っていた。

 海から飛来した一条の光と見えたもの、それは火矢・・だったのだ。

 先ほどアテナイ兵が投げつけた壺を叩き割ったとき、レオニダスは、全身に油を浴びていた。

 火矢の炎は、その油に引火して――

 

 クレイトスは、絶叫した。

 自分自身の苦痛など、完全に意識から消え去った。

 彼はもつれる足でレオニダスに向かって突進し、身を焼く炎を振り払おうと虚しく振り回される腕を掴んだ。

 油のにおいに混じって、髪の焦げる嫌なにおいが鼻をついた。

 愛する人を焼く炎が、自分自身の皮膚をも焼く。

 その痛みにも構わず、クレイトスはレオニダスを抱きかかえ、無我夢中で走った。


(どうか!)


 走りながら、クレイトスは泣いていた。

 自分が泣いていることにも気付かずに、泣きながら祈っていた。


 どうか、神々よ、愛するこの方をお救い下さい。

 レオニダス様の命が助かるのならば、僕の命を捧げます。

 どうか、どうか――


 ずいぶん長い時間に思えたが、実際にはほんの少しのあいだだったのだろう。

 彼は思い切り砂を蹴り、レオニダスの体もろとも、暗い海へと突っ込んだ。

 激しいしぶきが上がり、拷問のような熱と入れかわりに刺すような冷たさが全身を包み込んだ。

 海水が焼けた肌に触れる激しい痛みに、クレイトスは水中で悲鳴を上げた。

 ごぼりと泡を吐いて海水を飲み、腕と足をばたつかせて、辛うじて波の上に顔を出した。


(レオニダス様!)


 そうだ、こんなことをしていては、レオニダス様が溺れてしまう。

 暗く濁った水の中で何度も手足を突き出し、クレイトスはようやく右手が砂に突き刺さったのを感じた。

 ここは波打際なのだ。

 水深はほんのわずかしかない。

 水底がどこにあるのかさえ分かれば、立ち上がることは困難ではなかった。


 クレイトスは海水を飛び散らして立ち上がり、激しく瞬きをしながら必死に辺りを見回した。

 すぐ側に、力無くうつぶせに浮いている体を見つけ、鎧のふちを掴んで力任せに引き上げた。


「レオニダス様!」


 その背に突き立った矢を掴み、引き抜く。

 クレイトスは片膝をつき、そこにもたせかけるようにして、レオニダスの体を仰向けにした。


 がくりとレオニダスの首が仰け反った瞬間、クレイトスはもう少しで悲鳴を上げるところだった。

 神の血を受けたと謳われた美しい顔の右半分に酷い火傷が広がり、焦げて縮れた髪が濡れてはりついていた。

 凝固したようになったクレイトスの側で、海面が小さく弾けた。


 クレイトスは、振り返った。

 やや離れた海の上に、ボートが浮かんでいる。

 その船端に片足をかけ、弓を構えて矢をつがえ、こちらに狙いをつけている男がいた。


 その右隣には、恭しく松明を捧げ持つ男が控え、左側には、何事か怒鳴りながら二人がかりで押さえつけられている男の姿があった。

 再び、びゅっと空気が鳴り、先ほどよりも近い場所で水面が弾けた。


 クレイトスの顔が、悪鬼のように歪んだ。

 彼は腹の底からほとばしるような絶叫を発し、その場に立ち上がった。


 弓を構えた男、この卑劣な策を主導した男、レオニダスに火矢を射かけた男――

 クレオンと、まともに視線がぶつかる。

 彼は薄く笑いを浮かべ、波に上下するボートの上で慎重に狙いを定めていた。

 クレイトスは言葉にならぬ咆哮をあげながら、レオニダスの体を背後にかばい、大きく腕を広げて立った。


 こちらを見据えていたクレオンの顔に、軽い驚きの表情があらわれる。

 やがて、彼は、つがえていた矢を弦から外し、弓を下ろした。

 その顔にゆっくりと笑みが広がり、彼は、声を立てて笑い始めた。


 三度、クレイトスは絶叫した。

 悲愴な咆哮と、狂ったような哄笑が、炎に呑まれた木々の幹が弾ける激しい音にかき消されていった。



* * * * *



 激しい蹄の音がふたつ、夜の闇を裂いてゆく。

 ふたつの騎馬の影が、月明かりに照らされてスパルタの西方、メッセニアの大地を突っ走っていた。


 夜に、こんなふうに馬を疾駆させるなど、本来ならば正気の沙汰ではない。

 だが、馬上の二人には、一時も無駄にはできぬ用事があった。

 どちらも厚いマントで体を包み、頭も顔も覆っている。


 馬に乗ることができたのは幸いだった、と先を駆ける男は思った。

 かつての追い剥ぎ稼業で、馬を扱う機会も多かったのだ。

 野蛮な暮らしをしてきたことも、こうなってみれば、何かしらの役には立つものだ。


 だが、後に続くもう一人が馬に乗れたとは驚きだった。

 これまでも型破りな方だとは思っていたが、ここまで来ると、いったいこの方の父上や母上はどのような教育方針だったのだろうかと思わないでもない。


 ここまでの道は、登り坂の連続だった。男が先に駆けのぼり、後に続くもう一人も、やや遅れながらではあるが、それ以上に引き離されることなくついてくる。

 ようやく、長い登り坂の頂点が見えてきた。


 星空に飛び込むようにして坂の頂に達し、目の前に広がるイオニア海を見下ろした男は、いきなり手綱を引いた。

 夜の闇に、鋭い嘶きが響き渡る。


「あれは……」


 しきりに後足で立ち上がろうとする馬の胴をぐっと膝で挟み込みながら、男はそう呻くなり、黙り込んでしまった。


「どうした!」


 背後から蹄の音が近付き、ここまで長く乗り続けてきた疲れをほとんど感じさせない張りのある声が呼びかけた。

 だが、男が目にしたのと同じ光景を見て、もう一人もまた、そのまま言葉を途切れさせた。


「嘘だろ」


 やがて、男は言った。言わずにはいられなかった。


「島が、燃えてやがる……」



* * * * * 



「あー、あー……」


 笑い過ぎて涙さえ浮かべた目で、クレオンはもう一度、スファクテリア島を見やった。

 炎は、もはや天空の最高神が突然の雷雨でももたらさぬ限り、何人たりとも止めようがないほどの勢いと範囲で燃え盛っている。

 そんなクレオンの顔面に、いきなり、拳が叩きつけられた。


「この、恥知らずが! 何ちゅうことをするんや!」


 デモステネスだ。

 彼はクレオンの付き人たちの手を跳ね除けると、大きく揺れるボートの上で立ち上がり、クレオンに激しく詰め寄った。


「あれほどの男を、正々堂々の戦いやなしに、弓矢で……火矢で焼き殺すなんちゅうことが、許されると思うんか! 何ちゅう、汚い真似を! アテナイの恥さらしや! このっ」


 デモステネスは普段の冷静さと温和さをかなぐり捨て、倒れたクレオンに打ってかかろうとしたが、それは付き人たちに阻まれた。

 殴られて舟底に引っくり返ったクレオンは、くくく、とまだ小さく体を震わせながら、両の目を星空に向けていた。

 やがて、彼は呟いた。


「デモステネス君。僕は……そうやなあ、多分、明日くらいに着くことにするわ」


「はあ!? 何が、明日や!? おい! 僕の話を――」


「よし。じゃあ、そういうことで。僕は、明日くらいに、ここに着くことにするわ」


 クレオンはむっくりと起き上がり、殴られたことなど忘れたような顔でデモステネスに笑いかけた。


「だから、今日、僕はまだ、ここにはおらへん(・・・・)ねん。あの火ィは……あれは、何やろうなあ? 山火事かな」


「何を言うとるんや! おい!」


「風も強いしなあ」


 デモステネスはなおも激昂していたが、クレオンはこの状況からすれば一種異様なほどに涼しい顔と口調で、続けた。


「きっと、浜で炊事でもしとって、うっかり火の粉でも飛んでしもたんやろなあ。僕が着いたときには、島がもう丸焼けになってしもうてて、ほんま、びっくりやで!」


「は!? おい、ふざけとるんか!? さっきから、一体、何を言うとるんや!?」


「そう記録(・・)しとく、ちゅうてるねんやんか」


 クレオンは微笑を絶やさず、はっきりと言った。


「敵を焼き殺すために、島に火ィ放つ? 勇士を火矢で焼き殺す? そんな奴、恥も外聞もない、悪逆非道の最低野郎やんけ! なあ? そんな評判、僕は絶対いらんわ。――あの火ィは、不慮の事故! 失火! そう書いておけば、もう大丈夫や。アテナイの今の市民たちも……百年後、千年後の市民たちも……それを読めば、みんな、納得してくれる」


 デモステネスは、言葉を失った。

 クレオンは急速に腫れ上がる頬を意にも介さず、まるで慰めるように、デモステネスの肩をぽんぽんと叩いた。


「歴史は常に、勝者によって記される。つまり、これから僕たちが語ることこそが事実であり、真実であり、歴史や。なあ、デモステネス君。君かて、悪逆非道の作戦を知りながら黙って片棒担いだ共犯者として、歴史書に載りたくなんかないやろ? 僕たち二人で、スファクテリアの英雄になろうや!」


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