守るべきもの
反射的に動きを止めた、刹那の判断が仇となった。
頭の右側面に激しい衝撃が走り、目の前が真っ暗になる。
クレイトスはよろめき、その場に崩れ落ちるように両膝をついた。
背後から駆け寄り、槍を振り回して石突でクレイトスの後頭部を殴り付けたのは、黒い武装の隊長だった。
だがその時のクレイトスには、そんなことは分からなかった。凄まじい眩暈と吐き気に耐え、意識を失わないように堪えるのが精いっぱいだった。
背後から太い腕が首に巻き付き、引き千切らんばかりの強さで絞めつけてくる。
一旦は暗くなった目の前が真っ白になった。
これが、最期か。
奇妙に冷静に、クレイトスはそう感じた。
こんなところで。たった六人を斬って終わりか。こんな。
こんなことで、レオニダス様に顔向けができるとでも思うのか?
若者の体がぐったりと力を失うのを感じ、隊長は、満身の力で絞めていた腕を緩めた。
瞬間、力無く垂れたはずの両手にがっちりと腕を掴まれて、隊長が驚愕に目を見開く暇もあらばこそ――
クレイトスは相手の腕に手をかけ、大地に足をつけたかと思うと、渾身の力で体を跳ね上げた。
真下から顎に頭突きを食らわされ、隊長が片手の槍を取り落としてのけぞる。
クレイトスは痛みを堪え、首にかかった相手の腕を掴んだまま、上体を思い切り前に倒した。
隊長の両足が浮く。
彼は宙で完全に一回転して、背中から砂の上に激しく叩きつけられた。
クレイトスは、体格で遥かに上回る相手を背負い、投げ飛ばしたのだ。
だが、大きな動作はそれだけ大きな隙を生む。
目の前に転がった隊長に留めを刺そうと剣を振り上げたクレイトスの動きが、そのままの姿勢で、凍りついたように止まった。
眼前に、槍の穂先が突きつけられている。
ひとつだけではない。
周囲のぐるりから、アテナイ兵たちの無数の穂先が彼を取り囲み、ぶつかり合いながら突き出された。
後頭部の痛みがいっそう激しくなり、がんがんと頭の中で金属が乱打されているようで、周囲の風景がぐらりと揺らいで見えた。
倒れていた隊長が、部下たちの槍の柄の下からゆっくりと起き上がり、落とした槍を持ち上げ、ごきりごきりと肩を鳴らすのが悪夢のように見えた。
(また……駄目なのか。僕は、また)
スパルタの戦士らしく、死を目前にして鉄壁の無表情を守りながら、クレイトスは泣きたいような思いにとらわれていた。
入り江の戦いでの出来事が甦った。自分は最後まで、役立たずの間抜けのままだ。
恐怖はなく、ただ、自分の不甲斐なさが哀しかった。
(レオニダス様、僕は……)
その瞬間だった。
どっと鈍い音がして、クレイトスの目の前の兵士が血を吐いた。
ゆっくりと後ろざまに倒れてゆくその胸を、投槍がまともに貫いていた。
何の飾りもないその槍の柄に、覚えがある。
忘れるはずがなかった。あの人の武器を。
時間が引き延ばされたように奇妙にゆっくりと見える中、自分を取り囲んでいた兵士たちの槍の穂先が、狼狽したようにわずかに逸れてゆく。
それらは一様に、クレイトスの背後に向けられた。
背後から遠雷のごとき響きが近付いてきたと思うと、突然、膜を引き裂いたように全ての音がはっきりと聞こえるようになった。
それは戦いに挑む男たちの雄叫びだった。
槍を構え、盾を押したてたスパルタの男たちが、その場に突っ込んできたのだ。
頑強な盾に槍の穂先を跳ねのけられて、アテナイ兵たちが後退する。
たちまち周囲は、敵味方の入り乱れる乱戦となった。
目の前がちらつき、砂の上に両手をついて喘いだクレイトスの視界の端に、炎の照り返しを受けて緋色に輝くマントがひるがえった。
クレイトスを背後にかばい、レオニダスが盾を構え、投げ放った槍のかわりに剣を抜き放っていた。
その姿勢には一部の隙とてなく、腕と脚の筋肉がくっきりと浮かび上がった後ろ姿は、神代の英雄が地上によみがえったかと思わせるほどの力強さを備えていた。
《半神》の前に立ちはだかる黒い武装の隊長もまた、盾を構え、槍を握り込んだ。
周囲では、兵士たちがそれぞれに激しく武器を交えている。
ふたりのつわものの激突に、干渉する余裕は誰にもなさそうだった。
そんな二人の姿がまたもや大きくぼやけたが、クレイトスには、もはやそれが涙のためか、眩暈のためかさえ、区別がつかなかった。
彼は砂に突き立てた剣に縋って立ち上がろうとしたが、頭が割れそうに痛み、身動きさえも満足にできなかった。
声すら立てずに、レオニダスが、動いた。
わずかに踏み込み、敵の動きを誘う。
ほぼ同時に恐るべき速度で突き出されてきた穂先を、盾で打ち払い、さらに圧倒的な速度をもって踏み込んだ。
辛うじてその様子を視野に収めながら、先ほどの自分の戦い方をクレイトスは思い出した。
同じ動きだ。
いや、そうではない。あの動きは、レオニダス様から教えられたものだった。
そしてレオニダス様の動きは、自分よりもずっと速く、鋭い――
《半神》の体が旋風のように回転し、花が咲くように赤い衣が広がった。
死をもたらす切っ先が弧を描き、黒い鎧の胸板を削った。
黒い武装の隊長は盾を跳ね上げ、レオニダスの次の一撃を辛うじて受けた。
力が拮抗して押し合いになるよりも早く、彼は自ら飛び退って距離をとると、猛然と反撃に転じた。
獣のような咆哮と共に、凄まじい突きが連続して繰り出される。
常人ならば、一瞬のうちに三度は串刺しになっていただろう。
だが、レオニダスはそれらのことごとくを受け、かわし、弾いて――
「何やねん、あいつ」
ボートの上から、隊長と激しい戦いを繰り広げる男の姿を眺め、面白くもなさそうにクレオンは呟いた。
ぼやぼやしとる間にスパルタ人が増えてしもたがな、えらいこっちゃ、それにしてもややこしそうな奴出てきよったなあ、せっかくええとこやったのに邪魔しくさって、などと彼はなおもぶつぶつ言っていたが、
「あ……」
その隣で、デモステネスは、あんぐりと開けた口をわなわなと震わせていた。
その顔は、まるで死をもたらす翼を目の前に見た人のように、蒼白になっていた。
「あいつ、まさか……あれとちゃうか!?」
「『あれ』? あれって何や、デモステネス君」
「何て、君、聞いたことないんか!?」
答えるデモステネスの声は、ほとんど悲鳴のようになっていた。
「あれがスパルタの《半神》……! 《獅子隊》の隊長や!」
それを聞いても、クレオンは一瞬、何ら反応らしきものを見せなかった。
一瞬だけ。
「そう……」
彼は呟き、不意に、大きく頷いた。
つまらなさそうだったその顔に、にんまりと笑みが広がった。
「そうか。そうなんや。そらまた……なるほどな。おおおい! リュコプロン!」
クレオンは出し抜けに、両手をラッパにして叫び、その手を頭上に掲げてぶんぶんと振った。
「聞こえるかァ! おおおい! こっち見ろ、こっち! どこ見とんねん、こっちやっちゅうねん!」
少し離れた海上に浮かぶボートの上で、まるで気でも狂ったように両手を振り回しながら叫んでいる男がいる。
踊りでも踊るように複雑な身ぶりをして、陸上の味方に何事かを伝えようとしているようだった。
(あれが、クレオンなのか?)
そんな疑問が泡沫のように浮かんで、すぐに消えた。
レオニダスは、目の前の敵から注意を逸らさず、一定の距離を保ちながらじりじりと砂の上を移動し続けていた。
ボートの上の男の姿も、はっきり見たというのではない。
目の端にちらりと入ったものを、漠然とした印象として認識したというだけのことだった。
周囲で戦っている敵味方の状況についても、同じようなものだった。
目の前の黒い武装の男が、再び凄まじい刺突を繰り出してくる。
盾の表面を削られながらもそれを受け流し、レオニダスはその場から一歩たりとも動かなかった。
背後に、守るべきものがあるからだ。
炎は既に凄まじい勢いで燃え盛っている。
周囲には薪が散らばり、壺が落ちていた。
この火が人為的に放たれたものであることは明らかだった。
この姦計を見抜いたクレイトスは、たった一人でアテナイ勢に戦いを挑んだのだ。
クレイトスが車の輻のような槍の群れに取り囲まれているのを見た瞬間には、全身の血が凍りつくような気がした。
辛うじて間に合ったことを、何千回でも神々に感謝したいと思った。
振り向いてクレイトスに笑いかけ、よくやったと言ってやりたかったが、今はそれどころではなかった。
相手が突いてくる。
盾で防いだが、わずかに二の腕をかすめられた。
先ほどクレイトスを救うために投げ放った槍を、もう一度、手にすることができれば。
だが、愛用の武器は敵兵の死骸の胸に深々と突き刺さったままだ。
あれを引き抜くためには、大きな動作が要る。それは、この状況においては、あまりにも大きな隙となるだろう――
そのとき、レオニダスは不意に、視界の端の上方に動くものを認めた。
何か大きな、黒いものが、こちらに向かって飛んでくる――
レオニダスは、そちらを見もせずに剣を振るった。
ガッと重い手応えがあって、何かが砕け散った。
壺だ。鋭い破片とともに、中の油が飛び散ってレオニダスの体に降りかかった。
少し離れたところからそれを投げつけたアテナイ兵は、それ以上何かをする前に、横手から突進してきたスパルタの戦士オルセアスによって首を刎ね飛ばされた。
「あああ! あかーん!」
ボートの上で両腕をわななかせ、心の底から残念そうにクレオンはそう叫んだ。
デモステネスが不気味そうに見守る中、彼はそのまま三呼吸ほどのあいだ、じっと動きを止めていたが、ふと腕を下ろし、落ち着き払ってきょろきょろと左右を見回した。
隊長は、この一瞬の隙を見逃すような男ではなかった。
これを先途とばかりに、渾身の突きを繰り出した。
空中の壺を叩き落とすために体が泳いだレオニダスの、がら空きになった脇腹目がけて鋭い穂先が奔る――
レオニダスの喉から、凄まじい咆哮がほとばしった。
赤い血がしぶく。
レオニダスは、宙に泳いだ盾で敵の穂先を受けようとはしなかった。
彼は神がかった動きで身をひるがえし、大きくひねった脇腹に浅手を受けながらも、敵に向かって踏み込み――
一回転した遠心力を活かして、握った剣の柄を、相手の顔面に思い切り叩き込んだ。
前歯が折れる感触が伝わってくる。
隊長が大きくよろめいた。
レオニダスは片足を軸に反転し、無防備だった相手の脇腹に刃を深々と埋め込んだ。
隊長がぐうっと呻き、体を折り曲げて動きを止める。
レオニダスが剣を引き抜くと、熱い血が溢れ出して彼の手を濡らし、黒い武装の隊長は、そのまま砂の上に倒れ伏した。




