愛する者たち
見渡す限り、金色の麦の穂が揺れている。
ざあざあと風に揺れて鳴る、その音に紛れて、彼女が何と言っているのか聴き取れなかった。
だが、レオニダスは、訊き返そうとはしなかった。
その必要を感じなかった。
こちらを振り向き、微笑みながら口を動かしている、彼女の姿を見ているだけで、心が満たされる――
ざあっと、ひときわ強い風が吹きつけ、彼女の、麦の穂よりも一段深い色合いの黄金の髪が踊った。
彼女はからかうような笑みを浮かべると、さっと身を翻し、一面の黄金色の中へと駆け去っていく。
追おうとしたが、足がまるで石と化したように動かなかった。
驚き、自分の足を掴んで持ち上げようとしても、地面と一体になってしまったかのように、髪ひと筋ほども動かすことができない。
彼女の姿が、小さくなってゆく。
「リュクネ!」
思わず、手を伸ばし、声を上げた――
そしてレオニダスが目を見開いたとき、そこには、一面の麦の穂も、愛しい妻の姿も、懐かしいスパルタの地に吹く風のにおいもなかった。
辺りは、夕暮れ時の薄闇に包まれている。
背中に、もたれかかっていた岩の固い感触があった。
耳に届いていたのは、黄金の麦畑のざわめきではなく、周囲を取り囲む木々の葉が風に鳴る音。
そして、もっと遠く微かな、途絶えることのない波の音。
ほんの一瞬、眠りに落ちて、夢を見ていた――
ここはまだスファクテリア島で、周囲の海にはアテナイ艦隊が浮かび、故郷は遥かに遠い。
彼らがいる場所は、島の中でもかなり地勢の高い位置であったから、重なり合う木々の隙間から、茫々と広がる海面が太陽の最後の光を反射するのを見て取ることができた。
レオニダスは身動きもせず、ゆっくりと瞬きをし、それから、視線を腕の中に落とした。
彼の腕の中で、クレイトスが疲れ果てたように目を閉じている。
こうしてクレイトスを抱きながら、リュクネの姿を夢に見ていたことが、ひどく罪深いことのように思えた。
あの、月のない夜以来、これまでの数年分の空白を埋めようとするかのように、幾度も身体を重ねてきた。
それでも、リュクネを夢に見る。
手に入れたから、クレイトスへの熱情が冷めたわけではない。
むしろ、その逆だった。
暗闇。月の光。濡れたような乳色の肌。赤い果肉――
かつて幾度も夢想したことの全てよりも、レオニダスの腕の中にあるクレイトスの姿は美しく、恍惚にけぶったような目の深い青色はほとんどこの世のものとも思われなかった。
唇を押し当てた熱くしなやかな肌はどこも、彼らが身を清める海の味がした。
互いの身体を締め付けるように引き寄せ合い、夢中で動いているあいだ、他の何もかもが溶けて流れるように消え去り、暗いがらんどうのような世界に、ただ自分と、腕の中にいる青年の息遣いだけが響いているような気がした――
それでも、眠れば、リュクネを夢に見る。
あの黄金の麦畑と、そこに立つ妻の姿を。
(帰りたい)
おそらくはそれこそが、自分の心の最も奥底にある望みなのだろう。
誰も口には出さないが、戦士たち皆が、心の底で同じことを望んでいるのではないかと、レオニダスは考えていた。
もしも自分たちが神々のように、望むままにその身を他の生き物のかたちに変えることができたとしたら、今この瞬間に、この島に留まろうとする者はどれだけいるだろう。
多くの者は、たちまち翼ある鳥になって、家族の待つ故郷へと飛び立つのではないだろうか――
(馬鹿な)
レオニダスは、己の想像の飛躍を笑おうとしたが、うまくそうすることはできなかった。
それは、笑い飛ばすには、あまりにも切実な思いであったから。
だが、今や、まったく空虚な望みというわけでもなかった。
スファクテリア島に閉じ込められたスパルタの戦士たちは、当初こそ総員討ち死にを覚悟したのであるが、日が経つにつれて、ごく僅かずつではあるが、状況が好転しつつある――
無論、有利とまではいかないにしても、確実にましになりつつあることを感じとっていた。
それは、スパルタ本国からもたらされる救援物資のためでもあったし、また、彼ら自身の奮闘の賜物でもあった。
ニキアス率いるアテナイ艦隊は、島のスパルタ人たちを飢えさせる作戦が成功しそうにないと見ると、何度もスファクテリア島に上陸を試み、スパルタ兵たちを殲滅しようとした。
だが、レオニダスをはじめとしたスパルタの戦士たちは、そのことごとくを押し返し、海に叩き込んできた。
険阻な地形と密生した木立のために、スパルタ陸軍の御家芸である強固な密集陣形は、この島ではほとんど役に立たなかった。
そこで彼らは伝統的な重装歩兵の戦い方をあっさりと捨て、訓練の内容もがらりと変えていた。
少人数の部隊に分かれて木々の合間に姿を隠し、上陸したアテナイ兵たちをじゅうぶんに森の奥へと踏み込ませたところで、密かに忍びよっては突然襲い掛かって殺す、ゲリラ戦法をとることにしたのだ。
この戦法はアテナイ兵を苦しめ、恐怖させた。
はじめのうちこそ、一日に二度、三度と上陸戦を挑んできたアテナイ海軍が、敗退を重ねるうちにすっかり恐れをなし、スパルタ人が待ち受ける暗い森に踏み込むのをためらって、指揮官が武器を振り上げて命じても、誰ひとり砂浜より先に進もうとしないという状態にまでなったのだ。
この調子で、冬までを凌ぎ切ることができれば、海が荒れはじめ、アテナイ艦隊は島の包囲を解き、ピュロス湾から引き揚げざるを得なくなる。
そうなれば、あとは簡単だ。
荒海をついて船出する胆力と、確かな操船の技術さえあれば、祖国に帰ることができる――
冬が近付くにつれて、アテナイ海軍の兵たちの士気は目に見えて衰え、反対に、島に閉じ込められているスパルタの戦士たちの意気は軒昂たるものであった。
(もうすぐ、故郷に帰れる)
そんな空気が、スファクテリア島にみなぎっている。
(だが……)
希望ばかりではない。
アテナイ艦隊の司令官が交替するという情報は、国有農奴たちによって既にもたらされていた。
ニキアスの後任であるクレオンは、既にピュロス湾に入ったとみられている。
今朝早く、物見の兵たちが、海峡を抜けてゆく新造の三段櫂船の列を目撃していた。
新造船だとはっきり分かったのは、それらの三段櫂船の船腹には傷ひとつなく、工匠の手を離れたばかりの像のように鮮やかな彩色が施されていたからだ。
旗艦と思しき船の横腹には、金塗りの文字で《勝利をもたらす者》と大書されている始末だった。
彼らは、スパルタ人たちがその文字をはっきりと読めるよう、わざわざ島のすぐ側を通り、最も岸壁に近づいたときには一斉に櫂を引っ込めて船腹を見せつけさえしたのだ。
無論、そんなことで恐れ入るようなスパルタ人たちではない。
軟弱者らしいこけおどしよ、と、一同、鼻で笑って取り合わなかった。
だが、レオニダス自身は、妙な胸騒ぎを感じていた。
アテナイのクレオン。
評判通りの人物なら、単なる見かけ倒しではなく、狡猾で、情け容赦のない策略家のはずだった。
必ず、仕掛けてくる。
おそらくは、これまでのニキアスのやり方を上回る方法で。
そうなったとき……
自分は、部下たちを、クレイトスを、守り切ることができるだろうか。
もしも、彼らを喪ったら……クレイトスを、喪ったとしたら……
自分は、戦い続けることが、できるのだろうか。
レオニダスは、胸中に湧き上がった不安感を抑え込むように、腕の中のクレイトスを強く抱き直した。
そのとき、クレイトスの身体がびくりと震えた。
ほんの僅かな、注意して見ていた者があったとしてもほとんど気付かなかったであろうと思われるほどに微かな筋肉の反応だったが、レオニダスは気付いた。
「クレイトス」
伏せられたその顔を覗き込み、囁くように、呼びかける。
「起きているのか……」
一瞬の躊躇いがあってから、青年の瞼が開いた。
その目が開き、虹彩の深い青があらわれるたびに、いつも、それを初めて目にしたときの感情を思い出す。
そうだ、あの時は、こんな風に身体を重ねることになるなどとは、思いもよらなかった。
確かに、心の奥底でそれを渇望したが、その望みが叶えられる日が来るとは、思っていなかった――
「レオニダス様」
身を起こし、見上げてくるクレイトスの表情は、幾分か憂いを帯びているようだった。
「夢を、見ておいでだったのですか?」
レオニダスは虚を突かれ、沈黙した。
クレイトスの青い目が、こちらの心の内を見透かしているように感じてしまうのは、自分自身の後ろめたさのためだ。
『夢を、見ておいでだったのですか?』
麦畑に立つリュクネの笑顔が心に浮かび、消えていった。
「何故」
短く問うと、青い目が再び伏せられた。
「先程……リュクネ様の、名を」
レオニダスは、自分自身を殴りつけたくなった。
何故だ。
何故、いつも自分は、クレイトスの心を傷つけるような真似ばかりしてしまうのか。
リュクネとクレイトスとを天秤にかけた事などなかった。
レオニダスにとって、二人はそれぞれに心のまったく別の場所で、抜き差しならぬほどの大きさを占めていた。
太陽と雨のどちらが大切かと問われるようなもので、選ぶことなどできない。
どちらも、この上ないものなのだ。
だが、この心情を説明できるとは思わなかったし、説明したところで、クレイトスにとっては慰めにもならないということは分かり切っていた。
「お前が、彼女の代わりだというのではない」
苦しい沈黙の後で、ようやく口にした言葉がそれだった。
「分かっています。僕などでは、とても……」
「そうではない」
神々はなにゆえに、言葉などという不自由な代物を人間に与え給うたのだろう。
なにひとつ、伝えることができない。
本当に大切な事は、なにひとつ――
結局、できたのは、立ち上がろうとするクレイトスの肩を押さえ、そのまま抱きすくめることだけだった。
だが、そんな動作でさえも、何かを伝えることができるとは思われなかった。
素行を咎められた不実な男が、幾人もの恋人のひとりを宥めようとするように、抱けば相手の心を和らげることができるなどとは思わなかった。
クレイトスの誇りを傷つけたまま、立ち去らせることはできない。
「お前は……」
どう言えばいい。どう言えば?
何度も、口を開け閉めして、首を振り、吐き出すように言った。
「お前が、いなければ、俺は」
俺は、もう、戦うことはできないかもしれない。
「レオニダス様……」
クレイトスの口許を、微笑みがかすめた。
「その御言葉、何よりの誉れです」
何と答えるべきか、レオニダスが逡巡したあいだに、クレイトスはもう立ち上がっていた。
逞しくもしなやかな身体つきに、思わず目を奪われる。
無数の傷痕があり、日に焼けた、鍛え上げられた戦士の身体だ。
その瞬間に、レオニダスは、ふと感じたのだった。
自分は、このクレイトスの中にスパルタ人の理想を見ているのかもしれない、と。
強く、誇り高くあること。
揺るがぬ忠誠心を持ち、勇気を持ち、精神の美点があますところなく肉体の美しさにあらわれている。
彼を見ていると、いつも、スパルタの男のあるべき姿を思い出すことができた。
だからこそ、自分は、戦えるのかもしれなかった――
レオニダスがそんな思いにとらわれているあいだに、クレイトスは乱れた衣を手早く整えていた。
鎧は、身に着けなかった。
もうすぐ夜が来る。
夜のあいだは、戦いもない。
だが、レオニダスもクレイトスも、剣と手槍だけは片時も身辺から離していなかった。
初夜の床の傍らにさえ武器を横たえておくのが、スパルタ人の流儀だ。
「浜へ降ります」
クレイトスは言った。
海に入り、身を清めるという意味だ。
情交の名残の気配をまとったままで、仲間たちのところへ戻ることはできない。
レオニダスは一拍、思案した。
部隊の皆を砦に残してきている。
留守はフェイディアスに任せてあるが、あまり不在を長引かせることは望ましくない。
「俺は、先に戻る」
「はい。僕も、急ぎ戻るようにします」
クレイトスは言葉通りに、すばやく身を翻し、木々のあいだの斜面を駆け下りていこうとする。
「クレイトス」
レオニダスは思わず、クレイトスの後ろ姿に声をかけた。
斜面の下で立ち止まり、振り向いた彼に向かって、
「気をつけて行け」
ほとんど反射のように、それだけ、言った。
クレイトスは一瞬微笑み、頷いて、飛ぶように斜面を下っていった。
レオニダスは、その姿が木々のあいだに消えるまで見つめていたが、やがて踵を返し、砦へと歩き出した。




