嵐の前
雲ひとつない空から日の光が射し、船端を叩く波の上にきらきらと踊っている。
陽光のあたたかさを肌ではっきりと感じるほどに風は冷たく、乾いていた。
遮るもののない海上では、吹き抜ける風の冷たさはいっそう厳しいものとなる。
だが、デモステネスはそれをほとんど感じることなく、今しも真新しい三段櫂船から小舟に乗って漕ぎ寄せてくる男の姿を、感無量の面持ちで見つめていた。
「久しぶりやなァ、デモステネス君」
護衛の兵士や付き人たちの先に立ち、砦の海側の壁に垂らされた縄梯子を身軽に登ってきたその男は、デモステネスに向かってにやりと笑いかけた。
「ちょっと痩せた? それに、寝不足やな。隈がすごいで」
「クレオン君……」
デモステネスは呻くように言った。
目の前に立つクレオンは、真新しい武装に身を包み、塵ひとつついていない鮮やかな紫の布を肩から垂らしていた。
その布が潮風に煽られ、鳥の羽ばたきのように軽やかな音を立てている。
「ほんまに、よう来てくれた。君なら、この状況をどないかしてくれるやろう。これ以上、この砦でスパルタ軍の攻撃をしのぎ切ることは、無理や……」
自身の副官や、クレオンの付き人たちをも下がらせ、彼と差し向かいで立ったデモステネスの表情には、深い疲労感が滲み出ていた。
「もう、限界寸前や。これ以上はもたへん。今かて『この砦をこれ以上攻撃するなら、アテナイ艦隊の全兵力が即日、スファクテリア島に上陸し、人質となっている戦士たちを殲滅する』て脅して、辛うじて、向こうさんの攻撃を食い止めてる状態やねん。……けどな。君なら分かるやろうけど、そんなもん、ハッタリや。来る時に、あの島を見たやろう? あれがスファクテリア島や。全部が森に覆われて、どこに、どんだけの敵がおるかも分からへん。それに対して、向こうは島の地形を知り尽くしとるはずや。スパルタの戦士が手ぐすね引いて待ち構えとるところへ、上陸して、殲滅する? そんな芸当、できるくらいなら、とっくの昔にやっとるっちゅうねん!」
ははは! と自分が笑い声をあげたことに、デモステネスは驚いた。
何も面白い場面ではないのに、発作的に笑ってしまったのだ。
やはり、相当に疲れているらしい。
「とにかく、君が来てくれて、ほんまに嬉しいわ。こんな状況が、あとひと月も続いたら、僕、確実に発狂しとったわ。いや、それより、兵たちの神経が完全にやられるのが先か……」
傷と汚れだらけになった鎧を着込み、無精ひげを生やしたデモステネスの姿は、これまでの筆舌に尽くし難い労苦を雄弁に語っている。
クレオンが指摘した通りに、やや落ちくぼんだ目の下にはくろぐろと隈が浮き、以前よりも頬骨や顎の線が目立つようになっていた。
家族が見れば、心痛のあまり涙を浮かべたに違いない面相の変わり様だったが、
「ああ、そらァ、良かった!」
クレオンは、労いの言葉もなく、笑顔のままであっさりとそう言った。
今、向かい合っている相手がもっと短気な男だったら、彼はその場で顔面をぶん殴られていたかもしれない。
だが、デモステネスは元が穏やかな性格であったし、何しろひどく疲れていたので、一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
ただ「え?」と口を開けただけだ。
そのあいだに、クレオンは続けた。
「僕かて、こんな仕事にひと月もかける気ィなんか、さらさらないもん。デモステネス君、安心せえ。この砦とは、今日を限りにおさらばや!」
「……え?」
「君らは、今日の昼、僕たちと共にこの砦を引きはらう。今この時から、そのつもりで、皆に準備を進めさしてくれ」
「え?」
「具体的には、水源池からできるだけの水を汲み、船に積み込むための準備をさせておくということや。もちろん、静かにやってや? スパルタの連中に、動きを気取られへんようにな。船への水の積み込みと、君らの乗船は、昼前に一気に行う。連中が気付いたときには、この砦は、もぬけの殻っちゅうわけや――」
「ちょ……ちょっと、待てや!」
この時になってようやく、デモステネスは、饒舌に語るクレオンに向かって強く片手を突き出した。
「この砦を引きはらう、て……そんなことしたら、湾内のアテナイ艦隊が維持でけへんやないか! 一度に持ち出せる水の量には、限りがある。僕らがここに留まって、この砦の中にある水源池を確保しとかなんだら、アテナイ艦隊が、湾内に三日以上留まることはでけへんぞ!?」
「うん、うん、分かってるがな。でも、アテナイ艦隊が湾内にこれ以上留まる必要なんか、もう、ないで」
「必要が、ない!?」
今度こそ止めようもなく、デモステネスの声が跳ね上がる。
「なんで……何が、必要ないんや!? 僕らがこれまで、延々とここで踏ん張ってきたのは、スファクテリア島のスパルタ人どもを夜昼なしに見張るアテナイ艦隊を支えるためやないか! アテナイ艦隊が、この湾から退いたら、スパルタの連中、あっという間に海峡を渡って逃げてまうぞ!? そんなことになったら、僕らは何のために、これまで――」
昂奮のあまりに喉が詰まり、デモステネスは眼を見開いて、片手を上げ下げした。
ややあって、渇いた喉に音を立てて唾を飲み込み、デモステネスはゆっくりと言った。
その目つきは、常の彼を知る者ならば別人ではないかと疑いを起こしたであろうほどに、険悪なものになっている。
「クレオン君。まさかとは思うけど、君、ここまで来て、スファクテリア島のスパルタ人どもを、みすみす見逃すつもりやないやろうな? その選択肢も、最悪の場合、ないではないかもしれんけど……僕は、今、それを聞かされて、大人しく聞く気には、とてもなられへんわ。これまでの僕たちの苦労が全部パア、無駄、無意味やったなんて、とても……とてもやないけど、死んだ兵たちに、申し訳が立たへん……」
「うん、うん。まあ、落ち着け、デモステネス君」
怒りのあまりに震えてさえいるデモステネスに、クレオンはあっさりとした態度で近付き、ぽんぽん、とその肩を叩いた。
その顔から、最前の笑みは消えていないばかりか、いっそう深くなっているように見えた。
「スパルタ人どもを、みすみす見逃がす? この僕が、そんな間抜けな成り行きを許すとでも思うんか? 第一そんなもん、たとえ僕が許したかて、アテナイで待っとる市民諸君が許さへんわ。……大丈夫やで、デモステネス君。僕は、三日でスファクテリア島を落とす」
「え?」
「今日、明日、明後日で三日や」
「三日……?」
「まあ、アテナイでは、二十日て言うてきたわ。まあ一応、ちょっと余裕を見といたほうがええかなと思って」
「二十日?」
デモステネスは既に、クレオンの言葉を、語尾だけ上げてそのまま繰り返すことしかできなくなっていた。
目の前の男が何を言っているのか、今度こそ、本当に、理解できなかった。
「あーっと、三日っちゅうのは、まあ、準備も入れたら三日はかかるかな、っちゅう意味の三日であって、僕としては今日、明日の二日でもええねんけど。準備……つまり、君らをこの砦から引き揚げさすっちゅう段階があるからなあ。
君らをこの砦に残したまま、僕らだけで、ぱっぱっぱーと仕事を済ませてまうっちゅう方法もあるけど、僕が作戦を開始すれば、スパルタの陸軍も、これを先途と、この砦に総攻撃をかけてくるかもしれへん。そないなったら、海上の僕らは無事でも、君らは、やられてしまうやろうからなあ。
そんなん寝覚めが悪いし、僕は、君をみすみす見捨てたくはないんや。だって、僕らは友だちやんか。自分の目と鼻の先で友だちを見捨てるなんて、市民たちに対して、これほど聞こえが悪い話もあらへんやろ?」
クレオンはそう言い、デモステネスに微笑みかけた。
それが高度な冗談なのか、それとも本気なのか、デモステネスには、判断がつかなかった。
「え? いや……けど……三日て」
「大丈夫、大丈夫。僕はニキアスの阿呆とは違って、もっと効率のええ方法をとるつもりや。……さあ、デモステネス君! この砦をこれまで守り抜いてきた勇士諸君を集めてくれ。これからの行動について、君から、皆に説明してもらわなならん。これ、絶対、僕が言うより、君が言うてくれたほうが、皆の反発が少ないからな。苦しい戦いを共に凌ぎ切ってきた指揮官の言葉は、ひょこっと出てきた若造のそれよりも、格段に重い――」
デモステネスの肩に手を置き、クレオンは大きく頷いた。
「そして、それが、この戦いにおける君の指揮官としての最後の仕事や。ほんまにお疲れ様やったなあ、デモステネス君。……後は、すべて、この僕が引きうける!」




