家畜の群れ
スパルタは、ピュロスにさらなる兵力を差し向け、アテナイの砦を再び猛然と攻撃しはじめた。
もちろん、陸からだ。
もう一度アテナイ海軍に挑んで、再び大敗を喫するような愚を犯すつもりは彼らにはなかったし、仮にそうする決意があったとしても、艦船の絶対数が足りなかった。
怒りに燃えるスパルタの攻撃を迎え撃つことになったのは、砦に残っていたアテナイのデモステネスだった。
情勢にかんがみて、家に帰ることをすっかり諦めざるを得なかったデモステネスは、かりそめの休戦のあいだに部下たちの尻を叩きまくり、すさまじい勢いで防壁の強化を進めさせていた。
こうして、スパルタによる攻撃が再開された頃には、既にあらかたの工事が終わり、堅固さを増した防壁の内側には、戦意も充分な新しい兵士たちがぎっしりと立て籠もっていた。
彼らはデモステネスの指揮の下でよく戦い、押し寄せるスパルタ軍の攻撃を辛うじてしのいでいた。
だが、当然のことながら、デモステネスは砦の中で焦燥に蒼ざめていた。
(えらいことになってしもた……! いつ終わるねん、この仕事!?)
夜、スパルタ軍の攻撃が止む束の間の休息のあいだに、デモステネスは疲労困憊した身体を引き摺るようにして防壁の上に立ち、隈の浮いた目の下を擦りながら、海上の様子を見据えた。
星明かりを映す海面に、それよりももっと明るく赤みがかった光点が複数、点々とあいだを空けて移動している。
スファクテリア島の周囲を取り囲み、昼も夜もなく湾内を巡航するアテナイ艦隊の舳先の灯りだ。
この艦隊は、いまや二つの役目を負っていた。
ひとつは、スファクテリア島に孤立した百名を超えるスパルタの戦士たちを逃がさぬため。
もうひとつは、アテナイの砦への唯一の補給路、海上の道を守るためだ。
そう、唯一の補給路――
陸上にはスパルタ軍がひしめいている以上、アテナイの砦に物資や戦闘員を運びいれるためには、ピュロス湾内を通過して、船で砦に近づくより他に方法はなかった。
そして、アテナイの砦だけでなく、アテナイ艦隊そのものにとってもまた、ピュロス湾内の道は『唯一の補給路』なのだった。
なぜかといえば、この辺りでアテナイ艦隊が使用できる水源は、ただひとつ、ピュロスの砦の中にしかなかったからである。
デモステネスとしては、ここに砦をこしらえてスパルタ軍をおびき寄せ、ニキアス率いるアテナイ艦隊にスパルタ艦隊を叩かせて大打撃を与えた時点で、任務はきっちり果たしたはずだった。
だが、スパルタの戦士たちをスファクテリア島に囲い込んだことから、その監視のためにアテナイ艦隊がピュロス湾内に居残ることとなり、デモステネスの砦は期せずして、アテナイ艦隊に水を補給するための前線基地として機能せざるを得なくなってしまったのだ。
(こーんな急造ボロ砦――って、まあ僕が建てさせたんやが、ともかく、こんな一時しのぎの掘っ立て砦に籠もらされて、いつまでも戦争やらされてたまるかいな! こんなもん、ニキアスがとっとと島に上陸して、スパルタの連中を殺すなり、とっ捕まえるなり、ケリを着ければすむ話やないか! ほんだら僕らは、こんな砦なんかすぐにでも捨てて、アテナイに帰れるんや――)
デモステネスは、ぎりりと拳を握り締めた。
ニキアス率いるアテナイ艦隊は、何度となく小舟を出し、スファクテリア島への上陸を試みていた。
だが、そのたびにスパルタの戦士たちの凄まじい抵抗に遭い、島の海岸をいたずらに血で洗ったのみで撤退するということを繰り返していた。
スファクテリア島は全島が森林に覆われているために、アテナイ艦隊からは、スパルタ人たちがどこに潜んでいるのか、まったく見て取ることができなかった。
森林に身を隠し、こちらが上陸すればゲリラ的に姿を現して襲い掛かってくるスパルタの戦士たちに、アテナイ側は完全に手も足も出せない状態だったのだ。
戦況は完全に膠着したまま、すでに、ひと月近くが経とうとしていた。
ニキアスの当初の計画では、アテナイ艦隊によって海上を封鎖し、スファクテリア島を孤立状態にしてしまえば、食糧や水の補給を断たれたスパルタの戦士たちは遠からず降伏してくるはずだ、ということになっていた。
たとえ、誇り高い彼らが最後まで降伏の道を選ばなかったとしても、時期を待って上陸しさえすれば、飢えと渇きによって衰弱した戦士たちを始末するのは容易いことと思われた。
だが、事はそう簡単には運ばなかった。
スパルタ本国では、スファクテリア島の戦士たちが極度に窮乏することのないよう、多額の報酬と自由とを交換条件に国有農奴たちの志願者を募り、ピュロス湾に小舟を出させ、こっそりとスファクテリア島へ物資を搬入させていたのだ。
いかにアテナイ側が監視を強化しても、夜の闇に紛れて島に漕ぎ寄せる小舟をすべて発見し、拿捕するなどということは不可能だった。
命知らずの国有農奴たちの働きによって、練った小麦粉、葡萄酒、芥子の実をすりつぶしたものなど、多くの物資がスファクテリア島の戦士たちのもとにもたらされた。
中には、水が浸み込まぬよう工夫した革袋を引き、泳いで島まで渡る剛の者もいたほどである。
このような状況では、戦争が長引けば長引くほどに、不利になってゆくのはアテナイ側のほうだった。
もうすぐ冬が来る。
冬になれば、海が荒れる。
そうなれば、アテナイ艦隊はピュロス湾から撤退せざるを得ず、デモステネスたちが立て籠もっている砦への補給は、完全に途絶えてしまう――
(あかーん! 今のままやと、僕らはこの砦で総員討ち死にどころか、餓死する破目になる! このままニキアスに任してはおかれへん。こうなったら……彼に、頼るしかないか?)
デモステネスの脳裏に去来したのは、今、アテナイで最も影響力を――良くも悪くも――持つと目される男、クレオンの存在であった。
デモステネスとクレオンとは、友人と呼べるような単純な関係ではなかったが、どちらかと言えば友好的な間柄にあると言えた。
それでも、一瞬の躊躇が掠めたのは、過激に過ぎるクレオンのやり方に、デモステネス自身、やや危険なものを感じていたからだ。
(せやけど……背に腹は代えられへん、な)
デモステネスは早速、アテナイ本国のクレオンに向けて書簡を送り、現状の苦境と、近い将来において予想されるさらなる困難について説明し、この状況をどうにかして君の力で動かしてもらわれへんやろうか、と呼びかけた。
書簡を受け取ったクレオンは、激怒した。
デモステネスに対してではない。
彼からの書簡によって初めて具体的に明らかになった、アテナイ艦隊の司令官ニキアスの仕事ぶりの驚くべき緩慢さ、無能さに対してである。
「何をしとんねんな、何を……? もうすぐ冬やぞ。冬になれば何もかもが御破算になってまうことが分からへんのか、分かっていながら、どうにもできひんのか……どっちにしても、そんな無能司令官は今すぐに首ィひっ括られたほうが、アテナイのためやわ!」
クレオンはさっそく動き始めた。
彼の狙いは、ニキアスから艦隊の指揮権を奪い取り、彼自身が直接ピュロスに赴いて、スファクテリア島の問題にけりを着けることにあった。
だが、ニキアスはクレオンの事を、恐らくはクレオンがニキアスに対してそうであるのと全く同じように激しく嫌っており、指揮権の移譲に大人しく同意するなどとは、とても思えなかった。
それに第一、艦隊の指揮権はアテナイ民会の決定によって移譲されるものであり、仮にニキアスが同意したとしても、ニキアスとクレオンとのあいだで勝手にやりとりができるものではない。
クレオンは、得意の策謀を巡らせ始めた。
彼はアテナイで政治家としての経験を積むうちに、その巧みな演説や心理操作によって、人心を――それも、相手には、他でもない自分こそが状況を動かしているのだと思い込ませたままで――意のままに操る技術を研ぎ澄ましてきた。
今こそ、その威力を存分にふるうときだ。
恐らく、自分の発案は、民会では簡単には受け容れられないだろうとクレオンは予想した。
クレオンは、自分には敵が多いこと、彼らが自分を目の上のたんこぶと見なし、好機さえあればクレオンの権威を失墜させ、政治の表舞台から追い落としてやろうと狙っていることをよく知っていた。
彼は、自分の屋敷で策を練りながら、にやりと笑った。
(さて……ひとつ、連中を喜ばしたろうやないか?)
翌日から、クレオンはアテナイの広場に立ち、公然とニキアスを非難する演説をぶち始めた。
何十もの艦船を動かしながら、孤島に閉じ込めたスパルタの戦士たちにこれまで手も足も出せずにいるなどというのは、許すべからざる怠慢、低能、恥を知るべしというのである。
クレオンは続けて、艦隊の運用には金がかかるのだということを人々に思い出させた。
その金は、アテナイが盟主をつとめるデロス同盟からの拠出金によって賄われているのであり、何の成果も上げずにただ海上をぐるぐると回っているのは、アテナイを含む同盟国家の財産を日ごとに海に投げ捨てているも同然だ、と激しく非難した。
また一方で、クレオンは口調を変え、今まさに任務に従事している海軍の男たちの勇気と奮闘を称えた。
そして、現在の嘆くべき状況は決して兵士たちの責任によるものではない、そもそもの作戦がまずいのであると指摘し、もしも人間並みに頭のある者が――と暗にニキアスの無能ぶりを揶揄しつつ――現在の司令官に代わって艦隊を指揮するならば、状況は劇的に好転するだろうに、と投げかけ、たっぷりと間を取って、聴衆たちひとりひとりの顔を見回した。
アテナイ市民たちは、それぞれに首を捻り、ひげをしごいて考え始めた。
やがて、沸騰する水の中からあぶくが立ちのぼり始めるように、二、三人、またはもっと多人数での議論がさかんに交わされ始めた。
「ああ、まったく、その通りや。クレオンさんの言う通りや!」
「うーん、あいつの言うことも、まあ、もっともではあるわな。せやけど、ちっと、舌鋒が鋭すぎやせんか? 何事も、もうちょっと穏やかな調子で進めるのんが美風とされとったはずやのに、まったく、当節の流行は――」
「クレオンに賛成! クレオンに賛成や! 無能なニキアスは解任してしまえ! それがアテナイの利益になるんや!」
「待てよ、解任というたって、後釜には誰を据えるんや?」
「もう我慢できひん! 何なんや、あのクレオンの態度? 傲慢で、まるで自分だけが正しいみたいな顔して……」
「そうや、そうや! アホな連中には、分かりやすくて人気があるっちゅうんで、デカいツラしとるけどな、あいつは、いっつも口先だけや! 安全な場所で、あれこれ言うだけやったら、ガキにでもできる!」
「いや、クレオンの言うことは正しい! これ以上、同盟の拠出金が浪費される前に、司令官を交替さしてまえ!」
「だから、その後任には、誰が行くねんな……?」
クレオンは、壇上から降りながらにやりとした。
広場じゅうに満ち、今にも火を噴きそうな同意、憤懣、疑問、迷いの渦――
すべて、彼が予定した通りの反応だ。
クレオンは同時に、艦隊の司令官ニキアスに向けて矢継ぎ早に何通もの書簡を送りつけた。
毎回、ニキアスの司令官としての能力をけちょんけちょんに貶し倒したその文面には、傷付きやすい自我の持ち主ならばその場で首を括ってしまいかねないような、辛辣な文句がずらりと並んでいた。
ニキアスは決して感受性の豊かな男ではなかったものの、一向に破瓜のいかない戦況に自分でもうんざりしていたところへ、このような追い討ちをかけられて、すっかりやる気を失くしてしまった。
「おう、おう、現場の状況も見んと、ようもまあ言うてくれるやんけ!? この俺に向かって、ここまで言うたからには、当然『自分やったらやれる』っちゅう自信があるんやろうなァ!?」
ニキアスは、艦隊の指揮を一時、副官に任せ、アテナイに戻ってきた。
民会で、クレオンと直接対決するためにだ。
「クレオン! 確かに、賢いお前の言うとおり、どうやらこの状況は俺の手には余るらしいわ。俺は、許されるならば、もっと上手に艦隊を運用できる新しい司令官に、この任務を譲りたいと思う。さあ、それは誰や? ――なあ、クレオン! あれだけの事を言うてくれたお前なら、もちろん、俺よりも巧みにやることができるやろうな?」
「え、僕!? ……いやいや、ニキアス! いきなり、それは、おかしいやろう!」
ニキアスの発言に、クレオンは驚き、尻込みした様子を見せて口ごもった。
この様子を見たアテナイの民衆はわっと調子づき、口々に大声でクレオンを激励し、ぜひともクレオン自らが現地に赴いてこの由々しき事態を収拾するようにと要請した。
「クレオンさん! あんたが、アテナイの希望や! この戦争に、一気にカタぁ着けたって下さい!」
「よっ、あんたが大将! よろしゅう頼みます!」
「こりゃ、ええわ。口先だけ威勢のええ兄ちゃんが、現場で、どんだけの事ができるんか……お手並み拝見といこうやないか?」
「そうや、そうや! 偉そうに言うとったことが、自分にはほんまにできるんかどうか、証拠を見せろや!」
クレオンは、その場のあまりの盛り上がりぶりに戸惑った様子を見せながら、人々の要請を何度も固辞し、それは決して憶したためではなく、自分の他に、より経験を積んだ適任者がいるはずだからである、と反駁した。
――もちろん、クレオンが尻込みし、断れば断るほどに、人々はいっそう熱心に彼に指揮権を持たせようとした。
「もう、君しかおらへんのや! 決断してくれ!」
「そうや、クレオンさんなら、絶対やってくれる! 信じて任せよう!」
「なあ、ここは、クレオンにやらしてみようや。どっちにしても、儲けもんやで。クレオンが上手くやりゃあ、それでよし。下手こいても、クレオンを厄介払いすることができる、と、こういうことや」
「そら、ええわ! クレオン、行けーっ!」
「あんたに任せる! 思うとおりにやってこい!」
「あんたが大将! あんたが大将!」
「クレオンに、艦隊の指揮権を!」
人々の喚き声が、うねり、まとまり、ただひとつの方向に向けて強力に流れ始めたとき、クレオンはとうとう降参というように両手を広げた。
「静粛に、静粛に! ……分かった、分かりましたよ、市民諸君! 僕が行こう! もしも、それが、民会の総意やと言うのなら!」
人々の爆発的な歓声と、足を踏み鳴らす地鳴りがアゴラを揺るがした。
「クレオン様……」
人々の熱気と、極度の緊張によるものか、大量の汗をかきながら壇上から降りてきたクレオンを、付き人たちが取り囲む。
「お疲れ様です」
「民会がここまで盛り上がるのを、初めて見ました。まさか、こんなことに……」
「……家畜の群れ」
「えっ?」
ぼそりとクレオンが漏らした呟きに、付き人たちは思わず聞き返した。
「家畜の群れを、楽に動かすにはなぁ、コツっちゅうのがあるんやで」
付き人たちが差し出した布で汗を拭い、水で割った葡萄酒を喉に流し込みながら、クレオンは、彼らが思わず背筋をぞくりとさせるほど凄みのある笑みを浮かべた。
「それはな……『こっちに向かうと決めたのは自分たちや』と、奴らに思わせてやることや。君らも、政治家を目指すんやったら、よう覚えときや。そんなふうに、うまいこと思い込ませてやりさえすればな、奴ら、びっくりするほど、こっちの思う通りに走りよる……」
一瞬、しんとした彼らの肩を、クレオンはどかどかと叩いた。
「さあ、主役交代や! これから、死ぬほど忙しゅうなるで。ピュロス行きの荷物の用意を頼む!」




