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入江の戦い

 味方の艦が一隻、また一隻とアテナイ艦の衝角の餌食になり、波間に沈んでゆく。

 スファクテリア島の高台からその光景を見つめるスパルタの戦士たちに、言葉はなかった。

 彼らの流儀では、戦いに臨んで動揺を露わにすることは、この上ない恥だ。

 たとえ味方の軍勢が目の前で壊滅しそうになっていたとしても、それは同じだった。


「隊長殿……」  


 フェイディアスが絞り出すような声を発したが、レオニダスの耳には届いていなかった。  

 レオニダスは、自分でもほとんど意識しないうちに岩山の斜面を踏みしめて登り、司令官エピタダス将軍よりも前に進み出ていた。

 彼は突然地面が途切れたように見える切り立った崖の突端ぎりぎりで立ち止まり、湾内で繰り広げられる海戦の様子を見下ろした。  


 一方的な掃討戦と呼んだ方がふさわしい戦いは、早くも終幕を迎えようとしている。  

 嵐のように襲来したアテナイ海軍は、その圧倒的な機動で、すでにスパルタ艦隊のほとんどを撃沈してしまっていた。  


 終わりだ、という声がした。  

 それが、果たして自分自身の心の中に湧き起こった声だったのか、背後の部下たちの誰かがそう言ったのか、レオニダスには分からなかった。  


 不思議なことに、悲愴感はなかった。  

 これまで、こうなることを、ずっと恐れていた。

 不吉な運命を予期しながら、それを変える術はなく、ただ、いつかその時が来るのをじっと待ち続けるしかなかったのだ。

 そうだった頃の焦燥感、心の重苦しさに比べれば、今は、どちらかというと気分が軽くなったような気さえする。


『この盾を携えて、さもなくば、この盾に乗って』――  


 今、この島の上に佇む男たちの中に、自らの盾を携えて故郷へ帰る者はおそらく誰もいないだろう。

 そして、仲間たちが担ぐ盾に乗って帰る者もいないだろう。


 運命の女神たちモイライによって敷かれた、引き返すことも逸れることも出来ぬ一本の道が、その途切れるところまで、はっきりと目の前に見えた。


 もはや帰ることはない。

 ここが、自分たちの終焉の地なのだ。

 この島を、敵と自らの血で染め、最後の一人まで戦い、全員がこの島の土の上に横たわることになる――


 不意に、鋭い鳴き声が響き、名も知らぬ海鳥が羽ばたきの音を残して天高く舞い上がっていった。


(ああ……)  


 レオニダスの視線は我知らず眼下の戦いから離れ、遠ざかる鳥の姿を追った。

 その時が、来たら。  

 自分も、地上の軛から解き放たれて、あんなふうに軽やかに飛ぶことができるのだろうか――


「いけない!」  


 突如として響いたその叫びは、レオニダスの意識を鋭く貫き、石と化したように立ち尽くしていたスパルタの戦士たちを正気づかせた。   

 声の主は、クレイトスだ。

 周囲が、何事かと疑問を投げかけるよりも早く、


「艦が!」


 と一声、叫びを発したクレイトスは、急に皆に背を向けた。

 そして、ただ一人、岩山の険しい斜面を猛然と駆け下り始めたのである。  

 この突然の行動を制止する間もなく、全員が数秒、唖然としたままで彼の背中を見送った。


 いけない、とは、どういうことなのか?  

 艦が、とは?


(艦、だと)  


 レオニダスはふと我に返り、アテナイ艦隊の動きをあらためて見下ろした。

 その瞬間、全身を、稲妻のように理解が走り抜けた。  

 クレイトスが何に気付き、何のために、どこへ向かって走り出したのか、彼は悟った。

 同時、弾けるように、身体が動いた。


「艦だ!」  


 呆然としている部下たちに向かって、それだけを叫び、レオニダスもまた飛ぶように斜面を駆け下りはじめる。


「ぼやぼやするな、急げえっ!」  


 自分自身も走り出しながらそう怒鳴ったのは、レオニダスではなく、フェイディアスだ。


「フェイディアス!?」  


 斜め後ろから、パイアキスが慌てて呼びかける。

 彼もやはり走っていた。

 レオニダスが駆け出すと同時、《獅子隊》の戦士たちは皆、指揮官の後に続いていたのだ。


「我々は一体、どこへ向かっているんです!?」


「知らん!」  


 力強く返答したフェイディアスの横顔に、一切の迷いはなかった。


「隊長殿の行くところが、俺たちの行き先だ! 皆、隊長殿に続けえっ!」  



   

 すでに戦闘が終わりつつある湾内から、静かに海峡部を抜けて、アテナイの三段櫂船が数隻、スファクテリア島の外洋側へと回り込みつつある。  

 鏡を利用した光信号によって、彼らは司令官ニキアスからひとつの命令を受け取っていた。


『スファクテリア島の浜辺に引き揚げられているスパルタの艦を略取せよ』  


 この任務のために選ばれたのは、豪胆で鳴らした猛者ぞろいの艦ばかりだった。

『艦を略取する』と言葉で言うのは簡単だが、それはつまり、自分たちの手で敵艦にロープをかけ、曳航してくるということである。

 そのためには、島に上陸して作業することが不可欠であり、スパルタ人との戦闘になる可能性は充分に考えられた。

 臆病者には務まらぬ仕事だ。  


 作戦遂行において、アテナイ側に有利な点を挙げるとすれば、今、スパルタ人たちの注意は、湾内における海戦の状況に引きつけられている可能性が高いということだった。

 スパルタ人たちの多くが、湾内の状況を見下ろすために島の高台に集まっているとすれば、外洋側の浜の警備は薄くなっていると考えられる。  


 だが、いくらスパルタ人が脳みその代わりに間違えて海綿を詰め込んできたような馬鹿者揃いであるとしても、そうそういつまでも負け戦を見下ろしてぼんやりしているはずはない。  

 仕事は、迅速に果たすべきであった。

 

 アテナイの兵士たちは、これまでの人生で今ほど急いだことはないと思うほどの素早さで波打ち際に降り立つと、しぶきを踏み散らし、先を争って砂浜を駆け上がっていった。  

 そこに、スパルタ側の三段櫂船が引き揚げられている。

 船体を安定させるために、下に何本もの丸太が挟み込まれていた。

 

 アテナイの兵士たちは大きな獲物に群がる蟻どものように船体に取りつくと、その各所に手際よく鉤を引っ掛け、食い込ませてゆく。

 鉤はすべて丈夫なロープに繋がっており、その先は、海上で待つアテナイの三段櫂船の船尾にまで伸びていた。


「ようし、こっちは――」  


 鉤の固定を終え、片手を挙げて仲間に合図をしようとした兵士が、不意に血を吐き出し、白目を剥いた。  

 砂の上にくずおれたアテナイ兵の背後から姿を現したのは、血塗れの剣を手にした若者だった。  

 血に染まり、怒りに燃えていてもその顔は驚くばかりに美しく、周囲のアテナイ兵たちは一瞬、目を奪われた。

 だが、若者がまとう深紅のマントを見た瞬間、彼らはたちまち自分たちの任務を思い出した。


「出やがったかああぁ!」


「殺せぇ!」  


 あるいは鉤を放り捨て、あるいは握ったままの鉤自体を武器として、アテナイ兵たちは一斉にクレイトスに襲い掛かる。  

 彼らの目の前で、深紅のマントが花のようにひらめいた。  

 その紅はすぐに、飛び散る血潮のもっと鮮やかな赤に染まっていった。  

 クレイトスは立て続けに三人を斬り倒すと、たちまち身をひるがえし、ぴんと張ったロープを次々に叩き切っていった。


「殺せぇ!」  


 側にいた兵たちがどっとクレイトスに群がったが、もっと離れた他の艦に取りついて作業をしていたアテナイ兵たちは、野次馬に加わって貴重な時間を無駄にするほど愚かではなかった。


「終わったァ! 曳けぇーい!」  


 海上で待つ味方の三段櫂船に向かって怒鳴り、手信号を送る。

 手信号を送るのに、なぜ怒鳴る必要があるのかというと、必要は別にないのだが、今のこの状況に立たされれば、誰でも間違いなく最大の声量で怒鳴ってしまうだろう。そういうものだ。  

 一方、


「曳けえーっ!」  


 海の上でも、やはり同じように怒鳴っている男がいた。

 ニキアスの誘いを受け、その旗艦に乗り組んで出向いてきたデモステネスだ。


 彼は、危ないと止める護衛の兵たちの声も聞かず、揺れる船上で思わず身を乗り出し、がんがんと船べりを叩いて漕ぎ手たちに怒鳴った。


「おい、何してる、はよ曳けーっ! スパルタ人どもが、どんどん駆けつけてくる前にーっ!」  


 その声が聞こえたからというわけでもないだろうが、アテナイの三段櫂船の櫂が一斉に動き出した。

 まるで、巨大な百足が海上を歩き始めたかのようだ。


 スファクテリア島の浜辺で、ぎいいぎいいと軋むような音がいくつも上がる。

 スパルタの艦の船底が、固定のために下に挟み込んだ丸太と擦れ合う音だ。


「よし、よし! うまいこといきそうやないか、ええ?」  


 デモステネスの隣で、ニキアスが満足げに両手をこすり合わせる。

 やがて、一隻の艦が、ゆっくりと丸太を乗り越え、波打ち際に向かって動き出した。  

 奮戦のさなかで、クレイトスもまた、その光景を見た。


(しまった!)  


 一瞬、気を逸らしたことが、大きな隙となった。

 横手からアテナイ兵が突き出した槍が、クレイトスの脇腹に突き刺さる。

 よろめいたクレイトスの身体は、背中から、背にしていた船体に叩きつけられた。


 がはっ、と短い息が漏れる。

 脇腹は鎧に守られていたために、串刺しは免れた。

 だが勢いよく突き出された槍の穂先は鎧の板金をわずかに貫き、内側に食い込んだ金属が肉を傷つけていた。

 槍の柄を掴み、動きを止めてしまったクレイトスを、いくつもの切っ先が取り囲む。


「綺麗な顔、してるな」  


 脇腹を突いた槍を握る兵士が、兜を押し上げて浅黒い顔を見せながら、馬鹿にしたように笑った。


「いくらだ、お嬢ちゃん?」  


 下卑た冗談に、クレイトスは言い返すこともできず、ただ絶望的な思いに打ちのめされていた。


 命令違反だ。

 いや、命令を待たずに、独断で行動した。

 アテナイ艦隊の動きから、寸秒を争う事態だと直感して思わず駆け出したが、せめてレオニダス様にきちんと報告し、皆で動いていれば。


 ああ、駄目だ。

 駄目だった、僕は、最期まで――


 自覚はしていなかったが、クレイトスは、今にも泣き出しそうな顔をしていた。

 美しい青年の悲嘆の表情に昂ぶるものでもあったのか、男がにやりと唇を釣り上げて口を開く。


 その首が、兜ごと、高々と宙に舞った。

 クレイトスの顔に、新たな血のしぶきが点々と跡を残した。


(あ……)  


 目の前で、深紅のマントがひるがえる。

 駆けつけざまに男の首を刎ねたレオニダスが、アテナイ兵の身体を横手へ蹴り倒した。

 脇腹に突き立っていた槍の圧力がなくなった瞬間、クレイトスは、その場に膝をついていた。  


 辛うじて顔を上げたクレイトスの目の前で、《半神》の剣が閃く。

 まるで神話の中の出来事を目の前に見るようだった。

 レオニダスの動きには一切のよどみがなく、敵兵は皆、彼の刃に血と肉を差し出すためにその場に飛び込んでくるかのようだった。

 すべての斬撃が確実に腕を、脚を、首を斬り、一瞬で敵兵を戦神への捧げ物に変えてゆく。  


 音すらも遠ざかった世界の中で、魅入られたようにその光景を見つめていたクレイトスは、ふと、その刃の軌跡に身を投げ出したい衝動に駆られた。  

 その方がいい。  

 それとも、自分のような役立たずには、過ぎた死に様だろうか――


「美少年、ぼうっとするなあああ!」  


 急に遠くから怒鳴りつけられて、クレイトスははっと正気を取り戻した。  

 フェイディアスだ。


「動けるなら手伝ってください、クレイトス! 急いで!」  


 そして、パイアキスの声。

《獅子隊》の仲間たちが到着していた。  


 彼らは縦横に浜を駆け回り、慌てて逃げ惑うアテナイ兵たちを容赦なく殺し、鉤付きのロープを次々と叩き切っていた。  

 だが、高いところにとり付けられたいくつかの鉤は外すことができず、残ったロープに曳かれて、艦はなおもじりじりと波打ち際に向かって進み続けている。

 スパルタの戦士たちは、続々と船体に取りつき、手をかけ、肩を押し当て、何とかその前進を止めようとしているのだった。


「馬鹿者どもが、これを使え!」  


 朗々と轟いた声は、エピタダス将軍のものだ。

《獅子隊》の面々が雪崩のように斜面を駆け下り始めたときには仰天した将軍だったが、アテナイ艦の動きを見て、すぐに敵の狙いを悟った。

 だが、老練な将軍は、若い者たちのように浮足立って走り出したりはしなかった。

 残った者たちに適切な指示を下し、必要なものを持たせた上で《獅子隊》の後を追わせたのである。


 将軍に従って後からやってきた戦士たちが、携えてきたロープを、次々に仲間の手に放った。

 彼らはそれを船体の突起部に引っ掛け、巻き付け、一本につき数人がかりで、渾身の力で引きはじめた。


 クレイトスとレオニダスも、すぐさまその列に加わった。

 だが、相手は二百人の漕手を乗せた三段櫂船だ。

 こちらの三段櫂船そのものの重量と、船底が砂に食い込む抵抗を加えてもなお、分が悪い。


 握り締めた手の中をずるずると粗いロープが滑り、手のひらの皮膚を削られた男たちの口から軋るような唸りが漏れたが、彼らは決してロープを手放しはしなかった。 

 まるで極限の綱引きのようなこの状況で、一人でも力を抜けば一気に勝負が傾いてしまうことが、全員に分かっていたからだ。  


 驚いたことに、砂に船底を食い込ませながら浜を滑っていた艦が、今、再び、動きを止めていた。

 ロープを引くスパルタの戦士たちの合力と、アテナイ艦の推力とが拮抗したのだ。


「死んでも、艦を奪われるなあああぁ!」


「うおおおおお!」


「引けーっ! 引けえーっ!」  


 一方、曳航しようとするアテナイの艦の前進も止まっている。


「こんな……」


 この様を目の当たりにしたデモステネスは、漕手たちを叱咤することも忘れて目を見開いていた。

 隣では、ニキアスが聞くに堪えない罵詈雑言を撒き散らしていたが、今のデモステネスの耳には入らなかった。


「こんな、どえらい状況……生きてるあいだに、二度とは見られるもんやないで……」  


 彼らの眼前では今、有史以来なかったであろう奇妙な、しかし凄まじい戦いの光景が展開している。

 海上と、陸上とで、艦を奪い合う壮絶な綱引きが行われているのだ。


 スパルタの戦士たちは獣のように歯を剥き、砂に足を食い込ませながら、肩に掛けたロープを渾身の力で引き返す。


「木じゃ! 木に、結わえ付けよ!」  


 砂浜で、エピタダス将軍の指示が飛んだ。

 使い切れなかったロープを持ってうろうろしていた従卒たちがとっさに走り寄り、手持ちのロープの先端と、戦士たちが必死に引くロープの末端とを慌てて結び合わせようとする。


「馬鹿、代われ、俺たちと代われ! ここに入れ! いいか、絶対に手を放すなァ!」  


 放したら殺すぞ、と物騒なことを叫びながら従卒たちと入れ代わったのは、船上の経験のある戦士たちだった。

 どれほど固くゆわえても、結び方が間違っていれば、ひとたび張力が加わった瞬間に結び目が解けてしまうのだ。

 この場で、そのような失態は、絶対に許されない――


 訓練に裏打ちされた手際の良さでたちまちロープを結び合わせた男たちは、長くなったロープの先端を持って先を争うように走り、最も近い木に結わえ付けてゆく。  

 海上のデモステネスたちも、その様子を見ていた。


「ありゃりゃ……これ以上は、意味なさそうやな、ニキアス君?」


「くそったれが! ……しゃあない。一旦、出直しや! 退けぇ!」  


 三段櫂船の船尾で、次々とロープが切られ、垂れ下がる。  

 アテナイ艦五隻は、そのままスファクテリア島から遠ざかった。


「ふん、まあ、ええわ!」  


 今にも額の血管を破裂させそうな顔で、ニキアスが唸る。


「今この時から、船団を組んでこの島の周囲を巡回させ、徹底的に警備する! たとえ奴らに艦があったかて、逃がしはせえへん。ちょっとでも海上に出てきよったら、海の藻屑に変えたるわ!」  


 気を取り直し、うははははは、と笑いはじめたニキアスの隣で、デモステネスは複雑な表情を浮かべていた。


(まさか、あの状況で粘り勝ちしよるとは……やっぱりスパルタ人ちゅうのは、アホはアホでも、そこらのアホやあらへん。ええ根性しとるわ。この仕事、思ったよりも、長引くかもしれへんなぁ……)


   


 一方、スファクテリア島の砂浜では、スパルタの戦士たちが勝利の雄叫びをあげて互いの肩を叩きあっていた。  


 急にロープが切られた瞬間には全員がそろって引っくり返り、押し潰された最後尾が泡をふいて気絶するなどの一幕もあったものの、とにかく、一隻も失うことなく艦を守り抜くことができたのである。


「いやはや、とんでもない戦いでしたな、隊長殿!」  


 全身、水をかぶったように汗と血にまみれてやってきたフェイディアスが、がははと笑う。


「さすがの俺も、これまで経験したことがなかったですよ。まさか、アテナイの糞野郎どもと、海と陸とで綱引き合戦をすることになろうとは!」


「本当に!」  


 その傍らで、パイアキスが大きく頷く。


「それにしても、危なかった! 本当にぎりぎりのところでしたね。我々が駆けつけるのが、あと少しでも遅れていたら、間に合わずに艦を奪われてしまうところでした。クレイトスに感謝しなくては――」  


 そのときになって、遠ざかるアテナイの三段櫂船を眺めて立ち尽くしていたレオニダスが、はっと目を見開いて振り向いてきた。


「クレイトスは」


「え? ああ、さっきまで、私たちと一緒に」  


 ロープを引いていました、と言おうとしながらそちらを振り返ったパイアキスの目に、何やら、人だかりができているのが飛び込んでくる。

 集まった男たちは一様に気遣わしげな表情で、口々に呼びかけていた。


「急に倒れたぞ」


「大丈夫か、おい?」


「美少年! 返事をしろ!」  


 えっ、とパイアキスがそちらへ一歩踏み出すよりも早く、レオニダスは、駆け出していた。

 仲間たちを突き飛ばさんばかりにして、その場所に近づく。  


 人だかりを掻き分けた真ん中に、クレイトスが倒れていた。  

 一見して息があることは分かったが、その呼吸は速く、唇も顔もひどく蒼ざめている。  

 下半身が血に染まっていた。  

 鎧の板金が内側に折れ込み、脇腹に食い込んだ傷から流れたものだろうか。


「クレイトス!」  


 名を呼びながら、その傍らに膝をつく。

 力なく投げ出された腕を掴んで、レオニダスは驚いた。

 ひどく熱い。


「小僧を日陰に運び、鎧を脱がせてやれ!」  


 エピタダス将軍が怒鳴った。  

 老将軍もまた、鉄のように黒光りする顔を汗にまみれさせている。

 もちろん、先ほどの綱引きにも、当然のように加わっていた。


「体に熱がこもったのじゃ。日陰で、水を飲ませよ。休ませてやれ。皆も水を飲め! 余力のある者は、死体を浜の隅に並べておけ!」  


 部下の介抱と水分補給と死体の回収を一続きに命令し終えると、エピタダス将軍は、先ほどのレオニダスとまったく同じ表情を浮かべ、遠いアテナイ艦隊の影を見つめた。  

 彼らはそれ以上遠ざかろうとはせず、こちらを見張っているのが分かった。


(まずいのう)  


 艦を守り切った喜びに沸く部下たちの様子とは対照的に、じわりと締め付けられるように不吉な胸苦しさがある。


(我らは……牧場に放された、牛の群れのようなものか)


 鎖に繋がれてもいず、牢に入れられてもいないが、彼らは今や、まぎれもなく囚われの身であった。

 同盟海軍は壊滅し、自ら漕ぎ出してゆけば、待ち受けるアテナイ艦隊にたちまち撃沈されてしまう。  

 彼らは完全に包囲されていた。

 この島自体が、彼らを閉じ込める巨大な牢獄なのだ。




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