第9話 敗者の末路と、青すぎる帰還
地下牢の冷たい石畳の上で、男が目を覚ました。
『……っ、ここは』
帝国の密偵、ヴァルガス。
彼は頭を振って起き上がろうとし、手足が魔導の手錠で拘束されていることに気づいた。
「お目覚めですか、お客様」
鉄格子の向こうから、私の声に反応して彼が顔を上げる。
私は優雅に扇子を開き、彼を見下ろした。
隣には、目をキラキラと輝かせた義妹、リリア様が控えている。
『……殺せ。敗者に情けは無用だ』
ヴァルガスが掠れた声で吐き捨てる。
あら、古風なこと。
「殺しませんわ。貴方には、壊した屋敷の修繕費を払っていただかないと」
私はニッコリと笑った。
「金貨ではありませんよ? 貴方の頭の中にある『帝国の古代技術情報』。……全て吐いていただきます」
『断る。拷問になど屈しない』
「拷問? 野蛮なことはしませんわ。……リリア様、お願いします」
「はい、義姉様!」
リリア様が一歩前に出た。
彼女の手には、羊皮紙の束と、筆記用具が握られている。
その笑顔は、純粋な好奇心に満ちちていた。
『あのっ、ヴァルガスさん! 先ほどの「影渡り」の術式構成、すごく興味深いです! 影の質量をどうやって魔力変換しているんですか? あと、第五階層への強制介入の際に使った裏呪文の文法、あれは第三王朝期のものですよね?』
矢継ぎ早な質問攻め。
ヴァルガスがたじろぐ。
『な、なんだこの娘は……』
「彼女は私の自慢の弟子ですの。……これからは彼女の『研究協力者』として、その知識を余すことなく教えて差し上げてください」
寝る間も惜しんで。
食事の時間以外は、ずっと。
『……ま、待て。殺してくれ。いっそ殺してくれぇぇぇ!』
ヴァルガスの絶叫を背に、私は地下牢を後にした。
彼のような手合いには、肉体的な痛みよりも、知的好奇心旺盛な少女による精神的追求の方が効くはずだ。
心中、お察ししますわ。
◇
魔導管理室。
私は第五階層から戻り、制御卓の前に座っていた。
「準備完了。……動力炉、臨界点まで充填」
術式盤の表示は、かつてないほどの輝きを放っている。
動力源は、あの地底竜の心臓――人の背丈ほどもある、巨大な魔石だ。
これだけのエネルギーがあれば、次元の壁どころか、大陸の一つや二つ吹き飛ばせそうだが。
「ジェラルド様。総員に退避命令は?」
「ああ。全員、衝撃に備えて部屋で待機させている」
隣に立つジェラルド様が頷く。
彼もまた、緊張した面持ちだ。
「ミランダ。……本当に帰れるのか?」
「計算上は完璧ですわ。地底の座標から逆算し、元あった北部の領地へ転移します」
私は座標設定のルーン文字を指でなぞった。
地脈の緯度、星辰の経度。
すべて入力済みだ。
「では、参りましょうか。……さらば、地底世界」
私は起動紋を叩いた。
「次元跳躍、開始!」
ブゥゥゥゥゥン……!
屋敷全体が重低音と共に振動する。
窓の外、地底湖の風景が歪み、光の粒子となって溶けていく。
重力が消失する感覚。
胃の中身が浮き上がるような、強烈な浮遊感。
視界が真っ白に染まる。
光のトンネルを、巨大な質量が猛スピードで駆け抜けていく。
「くっ……!」
ジェラルド様が私を椅子ごと抱きしめ、衝撃に耐える。
長い、長い数秒間。
ドンッ!!
唐突に、衝撃と共に屋敷が着地した。
振動が収まる。
光が消え、元の静寂が戻ってくる。
「……着いた?」
私は恐る恐る目を開けた。
術式盤の表示を見る。
『転移完了。座標……誤差あり』
誤差?
私は眉をひそめた。
まあ、次元を渡ったのだ。数メートルや数百メートルのズレは仕方ないだろう。
屋敷の敷地内なら問題ない。
「ミランダ、窓を」
ジェラルド様に促され、私は映写水晶を操作して、外部監視の映像を呼び出した。
「ただいま、懐かしき北の……」
言葉が、途切れた。
そこに映っていたのは、白銀の雪景色ではなかった。
針葉樹の森でも、曇天の空でもない。
抜けるような青空。
白い入道雲。
そして、眼下に広がる、エメラルドグリーンの海と白い砂浜。
『ザザァ……ン』
波の音が、集音機から優雅に流れてくる。
海鳥が、気持ちよさそうに空を飛んでいる。
「…………」
「…………」
私とジェラルド様は、顔を見合わせた。
そして、再び画面を見た。
海だ。
どう見ても、南国の保養地だ。
「……ミランダ?」
「……地底の磁場が、計算式を狂わせたようですわね」
私は冷や汗を拭った。
北と南を間違えるなんて、どんな誤差よ。
王国の領土内であることは確かだが、ここは最北端ではなく、最南端だ。
「ど、どうする? もう一度跳ぶか?」
ジェラルド様が慌てる。
私は術式盤を見た。
地底竜の魔石は、今の跳躍で九割方を消費してしまっていた。
残量では、屋敷の維持はできても、再度の長距離転移は不可能だ。
つまり。
「……魔力切れですわ」
私は椅子に深くもたれかかった。
しばらくの間、私たちはここから動けない。
絶望?
いいえ。
私は画面の中の、美しい海を見つめた。
雪かきのいらない温暖な気候。
新鮮な魚介類。
そして、窓を開けても凍えない風。
「……悪くないかもしれませんわね」
私はニヤリと笑った。
「ジェラルド様。北の冬は厳しいですが、ここは常春の楽園のようです」
「そ、そうだが……領地を放っておいていいのか?」
「緊急避難ですもの、仕方ありませんわ。……幸い、通信機能は生きています。王都へ連絡し、『屋敷ごと静養に来ました』と報告しておきましょう」
「静養……」
ジェラルド様が頭を抱える。
でも、その口元は少し緩んでいた。
彼もまた、北の厳しい寒さよりは、この陽気の方が嫌いではないはずだ。
「それに、見てください」
私は画面の端を指差した。
砂浜の向こうに、見覚えのある豪奢な別荘が見える。
王家の紋章が入った旗がはためいている。
「お隣さんは、王家の方々のようですわ。……退屈はしなさそうです」
引きこもり令嬢の、新たな生活拠点。
雪国から南国へ。
環境が変わっても、やることは変わらない。
私は制御卓の伝声石を手に取った。
『総員に通達します。……当屋敷は無事、地上へ帰還しました。ただし』
私は悪戯っぽく告げた。
『外は常夏です。厚手の外套は脱ぎ捨てて、遊泳着の準備をしなさい』
ワァッ! と使用人たちの歓声が聞こえてくるようだ。
地底の闇を抜け、辿り着いたのは光の楽園。
災い転じて福となす。
これもまた、私の「強運」の為せる技かもしれない。
「さあ、ジェラルド様。……新しい引きこもり生活の始まりですわよ」
私は夫の手を取り、青い海に向かって微笑んだ。




