第5話 執事の正体
深夜の回廊は、冷たい静寂に包まれていた。
カサ、カサカサ……。
足元を、無数の「黒曜の蜘蛛」が這い回る音だけが響く。
私は手提げの魔導灯を手に、屋敷の巡回を行っていた。
ジェラルド様には休んでいただいた。
彼には明日、また外の魔獣狩りを頼まねばならない。
屋敷の中の鼠狩りは、女主人の仕事だ。
「……見つかりませんわね」
私は溜息をついた。
蜘蛛たちが送ってくる共有された視界には、怯える使用人たちの寝顔しか映っていない。
侵入者の影はない。
まるで、最初から煙のように存在しなかったかのようだ。
「私の感知網をすり抜けるなんて……」
焦りが募る。
その時だった。
「――お探し物ですか、奥様」
不意に、背後から声をかけられた。
私は心臓が跳ね上がるのを抑え、ゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは、初老の執事だった。
白髪交じりの髪を撫で付け、背筋をピンと伸ばした、見覚えのある男。
確か、先月雇ったばかりの新人……名はヴァルガスといったか。
「……ええ。少し、害虫が紛れ込んだようで」
私は平静を装い、微笑んだ。
だが、内心では警鐘が鳴り響いている。
私の背後には、護衛用の蜘蛛が二匹いたはずだ。
なのに、彼が近づく気配を、蜘蛛たちは感知しなかった。
「それは難儀でございますな」
ヴァルガスは恭しく一礼した。
その所作は完璧だ。
しかし、彼の足元――魔導灯の光が落とす「影」が、どこか不自然に揺らめいているように見えた。
「しかし奥様。足元の虫ばかり気にしていては、もっと大事なものを見落としますぞ」
「……どういう意味かしら?」
「例えば」
彼は顔を上げ、私の目を真っ直ぐに見つめた。
その瞳は、使用人のものではない。
獲物を狙う猛禽類のような、冷徹な光を宿していた。
「地下最深部。……『第五階層』への封印が、解けかかっていること、とか」
ドクン。
心臓が嫌な音を立てた。
第五階層。
それは、この異界へ転移した直後、地下から信号を送ってきた未解析領域。
ジェラルド様にすら、まだ詳しくは話していない極秘事項だ。
なぜ、一介の使用人がそれを知っている?
「……貴方、何者ですの」
私は魔導灯を床に置き、懐の魔導短銃に手をかけた。
足元の蜘蛛たちが、殺気を感じてヴァルガスを取り囲む。
「おや、物騒な」
ヴァルガスは薄く笑った。
そして、彼に向けて飛びかかろうとした蜘蛛の一匹を、素手で――いいえ、彼自身の「影」から伸びた黒い手で、空中で鷲掴みにした。
バキッ。
黒曜石の堅牢な装甲が、飴細工のように握りつぶされる。
「ご挨拶が遅れました。……ガレリア帝国諜報局、特務官ヴァルガスと申します」
彼は粉々になった残骸を払い落とし、胸に手を当てた。
「以後、お見知り置きを。ヴォルフィード夫人」
「帝国……!」
最悪の相手だ。
隣国ガレリア帝国。
我が王国とは表向き不可侵条約を結んでいるが、裏では古代技術の覇権を争う敵対国家。
その密偵が、まさか私の屋敷に入り込んでいたなんて。
「何の用です? まさか、ただの観光ではないでしょうね」
「ええ。単刀直入に申し上げましょう」
ヴァルガスは一歩、私に近づいた。
影が鎌首をもたげる蛇のように、彼の背後で蠢く。
「我々に協力していただきたい。……この『次元潜行船』を、元の世界へ浮上させるために」
「潜行船……?」
「おや、ご存じない? この屋敷はただの要塞ではありません。古代人が滅びの災厄から逃れるために建造した、次元の海を渡る箱舟です」
彼は愛おしそうに、壁の石材を撫でた。
「我々帝国は、長年の研究により、この船の起動術式を解析しました。しかし、肝心の『鍵』――テックライン家の血統認証だけが手に入らなかった」
「だから、私を監視していたのですね」
「左様。……ですが、貴女が誤って転移術式を暴走させるとは誤算でした。おかげで私も、このような奈落まで付き合う羽目になりましたが」
彼は肩をすくめた。
余裕綽々だ。
この絶望的な状況下で、彼だけが楽しんでいるようにさえ見える。
「取引をしましょう、ミランダ殿」
ヴァルガスが手を差し出した。
「貴女だけでは、この船を制御しきれない。第五階層にある『次元跳躍炉』を動かすには、古代の専門知識が必要です。私にはそれがある」
「……条件は?」
「簡単です。元の世界へ帰還した後、この屋敷の『所有権』を帝国に譲渡していただきたい。貴女とご家族の身の安全、そして貴族としての地位は、我が皇帝陛下が保証しましょう」
甘い毒のような提案。
協力すれば助かる。
断れば、この地底で野垂れ死に。
そう言いたいのだろう。
私は彼の手を見つめた。
節くれだった、冷たい手。
その手を取れば、私はこの屋敷の――私の「絶対安全圏」の鍵を、他国に売り渡すことになる。
「……お断りします」
私は顔を上げた。
迷いはない。
「私の家は、私の国です。誰かに譲るつもりも、指図されるつもりもありません」
「ほう。……死ぬとしても?」
「死にませんわ。……私の屋敷は、貴方が思っているよりずっと、居心地が良いのですから」
私が拒絶の言葉を紡いだ瞬間、ヴァルガスの目が細められた。
人の好い執事の仮面が完全に剥がれ落ち、そこには冷酷な敵の顔だけがあった。
「残念です。……『交渉決裂』ですね」
彼の影が、爆発的に膨れ上がった。
廊下を埋め尽くすほどの闇が、私を飲み込もうと迫る。
「ならば、力ずくで頂くのみ。……第五階層の支配権を奪えば、貴女など不要だ」
「させるもんですか! 拘束術式、展開!」
私は床に手を叩きつけた。
あらかじめ廊下に仕込んでおいた魔法陣が輝き、光の鎖がヴァルガスを縛り上げる。
「無駄だ」
ヴァルガスは嘲笑った。
彼の身体が、液状の闇となって溶け崩れる。
拘束をすり抜け、影は床を滑るようにして私の脇を通り抜けた。
目指す先は――地下への階段。
「待ちなさい!」
私が振り返った時には、影はすでに階段の闇へと消えていた。
「第五階層へ……!」
行かせてはならない。
あそこには、まだ私も知らない屋敷の心臓部がある。
もし彼に奪われれば、この屋敷は私の言うことを聞かなくなる。
「リリア様! 起きて!」
私は伝声石に向かって叫んだ。
「総員、第一種戦闘配置! 屋敷の中に、敵がいます!」
平和な夜は終わった。
ここからは、同じ屋根の下で行われる、熾烈な陣取り合戦だ。
私の城を乗っ取ろうとする不届き者に、大家の恐ろしさを教えてやる。
私はドレスの裾を蹴り上げ、黒い影の後を追って走り出した。




