第1話 おはようございます、ここは奈落の底です
揺れが、止まった。
昨晩から続いていた、天地がひっくり返るような激しい震動。
それが嘘のように消え失せ、不気味な静寂だけが残っている。
「……ん」
私は重いまぶたを持ち上げた。
隣では、ジェラルド様が剣を抱いたまま、浅い眠りについている。
昨晩、揺れが始まってからずっと、私を落下物から守るように抱きしめてくれていたのだ。
「朝……かしら?」
私はそっと寝台を抜け出した。
いつもなら、窓の隙間から鋭い朝の光が差し込んでくる時間だ。
北部の朝は遅いけれど、それでも太陽の気配はあるはず。
けれど、今日は部屋の中が薄暗い。
分厚い遮光の帳の向こうから、何やら「青白い光」が滲み出ている。
嫌な予感がした。
背筋を冷たいものが這い上がる感覚。
私は恐る恐る、窓辺に近づいた。
帳の端を掴み、勢いよく開け放つ。
「…………は?」
言葉が出なかった。
そこにあるはずの光景――白銀の雪原も、遠くに見える針葉樹の森も、何もかもが消え失せていた。
代わりに広がっていたのは、「闇」と「光」の幻想的な世界。
空がない。
遥か頭上には、ゴツゴツとした岩盤が覆いかぶさっている。
そして、眼下に広がる大地には、太陽の代わりに無数の「発光苔」が群生し、青白く、あるいは毒々しい紫色の燐光を放っていた。
遠くには、鏡のように静まり返った巨大な湖。
その水面もまた、底知れぬ闇色を湛えている。
「ここは……どこ?」
夢?
いいえ、頬をつねれば痛い。
それに、窓ガラス越しに伝わってくる魔力の気配が、あまりにも濃密すぎる。
肌がビリビリと痺れるほどだ。
私は寝間着の上に上着を羽織り、部屋を飛び出した。
廊下は静まり返っている。
使用人たちはまだ、自室で震えているのだろうか。
私は玄関ホールへと急いだ。
確かめなければならない。
この屋敷が今、どこに在るのかを。
重厚な大扉の前に立つ。
深呼吸を一つ。
防衛結界の術式が正常に作動していることを確認し、私は閂を外した。
ギィィィ……。
重い音を立てて、扉が数センチだけ開く。
隙間から、外の空気を吸おうとして――止めた。
鼻を突く、腐った卵のような異臭。
瘴気だ。
そして、隙間から「何か」が見えた。
屋敷を包む半透明の結界。
そのドーム状の壁面に、巨大な影が張り付いていた。
体長三メートルはあろうかという、鉄錆色の甲殻を背負った多足の蟲。
それが、無数の脚をワシャワシャと動かし、結界をガリガリと齧っている。
ギョロリ。
複眼の一つが、隙間から覗く私と合った。
『キシャァァァァッ!』
「ごきげんよう、さようなら!」
バタンッ!!
ガチャン、ガチャン、ガチャン!!
私は反射的に扉を叩きつけ、全ての鍵と閂をかけ直した。
心臓が早鐘を打っている。
あれは北部の森にいる魔獣ではない。
文献でしか見たことのない、古代の深層生物だ。
「……確定ね」
私は扉に背中を預け、へなへなと座り込んだ。
ここはヴォルフィード領ではない。
地上ですらない。
昨晩のあの光。地下深層からの呼び声。
屋敷は、空間そのものを跳躍し、どこか別の場所へ移動してしまったのだ。
「ミランダ! 無事か!」
階段の上から、ジェラルド様が駆け下りてきた。
剣を抜き放ち、私の元へ滑り込む。
「敵襲か!? 今、悲鳴が……」
「いいえ、旦那様。……ご近所さんへの挨拶が済んだだけですわ」
私は震える足で立ち上がり、努めて冷静に振る舞った。
ここで私が取り乱せば、屋敷全体が恐慌状態に陥る。
「ジェラルド様。落ち着いて聞いてください」
私は彼の目を見つめた。
「私たちは今、とんでもない場所にいます。……おそらく、地底の深淵。古代文明が封印した、奈落の底です」
「な……!?」
ジェラルド様が絶句し、周囲を見回す。
窓の外の異様な光景に気づき、彼の顔色が蒼白に変わった。
「屋敷ごと、転移したというのか……?」
「ええ。昨晩の『解放儀式』が原因でしょう。……この要塞には、まだ私たちの知らない機能があったようです」
私はドレスの裾を翻し、地下への階段へと向かった。
「参りましょう、魔導管理室へ。状況を把握し、対策を練らなければ」
「あ、ああ。……だがミランダ、大丈夫なのか?」
「何がですの?」
「その……外は化け物だらけ、空気も毒気を含んでいる。……絶望的な状況だぞ」
ジェラルド様の声が震えている。
無理もない。
領地を守る騎士として、守るべき土地を失った喪失感は計り知れないだろう。
でも。
私はニヤリと笑ってみせた。
「あら、旦那様。お忘れですか?」
私は地下室の鉄扉の前で振り返った。
「私は『引きこもり』ですのよ?」
「……え?」
「外が地獄だろうと、魔獣の巣窟だろうと、関係ありませんわ。……この屋敷の中さえ快適なら、私は一歩も外に出ずに生きていけますもの」
そう。
むしろ好都合だ。
面倒な夜会も、王都からの呼び出しも、ここなら届かない。
あるのは、私と、家族と、この頼もしい要塞だけ。
「それに、見てご覧なさい」
私は管理室に入り、動力源となる魔導炉の火を入れた。
ブォン、と低い音が響き、壁一面の映写水晶が輝きだす。
『――魔導中枢、覚醒。全階層、異常なし。空気浄化結界、稼働中』
古代の合成音声が、頼もしく響く。
「水も、食料も、魔力も備蓄は十分。……このヴォルフィード号は、不落の城塞ですわ」
私は制御卓の伝声石を握りしめた。
屋敷中で不安に怯える使用人たちへ、主としての第一声を届けるために。
『おはようございます、使用人の皆さん。当主夫人のミランダです』
私の声が、全館に響き渡る。
『現在、当屋敷は少々遠くへ……そう、地底の果てまでお引越しをしました。窓の外を見て驚かないように』
水晶越しに、侍女たちが抱き合って震える様子が見える。
『ですが、安心なさい。外がどんな環境であろうと、この屋敷の中は、昨日と同じ「日常」を維持します』
私は断言した。
『温かい汁物、ふかふかの寝床、そして安全な職場。……すべて私が保証します。貴方たちはただ、いつも通りに働き、いつも通りに笑っていなさい』
そして、最後に付け加えた。
『ただし、絶対に玄関と窓を開けないこと。……招かれざる客の押し売りはお断りですので』
放送を切る。
ふぅ、と息を吐くと、隣でジェラルド様が苦笑していた。
「……君には敵わないな。この状況で、日常を宣言するとは」
「非日常なんて、疲れるだけですもの」
私は椅子に座り、まだ解析されていない「第五階層」の表示を見つめた。
「さて、旦那様。……これから忙しくなりますわよ」
帰る方法を探す?
ええ、もちろん。王都からの取り寄せ(通販)が届かないのは不便ですから。
でもその前に。
「まずは、この新しい『領地』の調査から始めましょうか」
引きこもり令嬢の、異世界深淵生活。
優雅に、快適に、そして徹底的に、外敵を排除して差し上げましょう。
私の平穏を脅かす者は、深淵の魔獣だろうと許しませんわよ?




