『16-2・Guiltless』
16-2
明瀬の冗談めいた言葉に、弘人は首を横に振った。
ゾンビに人間には無い器官があったのなら、取り込んだ食物をブドウ糖以外に変換出来る事が出来るのなら、その点に関して言えば確かに人類より勝っている点なのかもしれない。だが、弘人にはゾンビが人間の進化の先とはどうしても思えなかった。走るゾンビであれば確かに運動能力も向上しているかもしれないが、知能がある様には見えない。一度、コンビニで遭遇した大型ゾンビには多少の知能の向上は確認できたものの、人間には大きく劣っている。進化が必ずしも知能の発達に繋がるものではないが、人類の行きつく先とはどうしてもイメージが出来ない。そもそも、ウイルスによる感染によってこの事態は引き起こされいるのだ。
明瀬は肩をすくめて言う。
「まぁ進化じゃなくて疾患とか呼ぶべきなのは分かるよ。でもさ、原核生物がミトコンドリアの祖先を取り込んで形を変えてきたみたいにさ」
明瀬がそう言いながら、彼女は自身の足をさする素振りを見せた。彼女のスカートから覗く細い足には、古傷の様な跡があるのが見えた。弧を描くような筋が、跡になっている。
「ゾンビ化ウイルスと共生して適合していく途中なのかもしれない」
なんてね、と明瀬は軽い口調で言ったものの、その目は笑っていなかった。
「何でそんなウイルスがあるんだ。人間を滅ぼしに来たみたいだ」
「ウイルスにそんな意思は無いよ。自己複製と感染つまり生息域の拡大。結局やってることは全ての生物と一緒だよ。たまたま、宿主の人間を操って感染を広げようってやり方のウイルスだっただけ。噛み付け、と脳内分泌物を使って本能的に操る。ウイルスが細胞を破壊するタンパク質を作り出して、血管にダメージを与えて大量出血させる。光景がショッキングだから見失いがちになるけど、それは科学の範疇なんだよ。魔法なんかじゃない」
そんな時、香苗が歩いてくるのが弘人の目に入った。周囲に忙しなく目を遣っていた彼女は、弘人達を見つけて声をかける。鷹橋と作業をしていた筈であったが、香苗一人だけだった。
「梨絵ちゃんが居ないの。明瀬さんは一緒じゃなかったのね」
「ちょっと前に、香苗さんの所に行くって言ってましたよ?」
「本当? 私は見てないわ」
「捜すんなら手伝うよ」
そう言って弘人は立ち上がった。明瀬も続いて立ち上がる。それぞれ別れて、フロア中に散った。
2階フロアの広さでは、何処かに隠れられては見つける事が出来ない。だがそれよりも、階段を降りてしまっていることが一番の懸念であった。バリケードを築いた非常階段へと走る。
非常階段のバリケードには問題が無く、梨絵が通った気配はなかった。重たい棚や家具を組み合わせて作っている以上、幼稚園児に動かすことは不可能だろう。念の為にエスカレーターのバリケードにも急ぎ向かったが、やはり問題は無かった。全力で走ったせいもあり、弘人がエスカレーターのバリケードの前で息を整えていると、鷹橋が声をかけてくる。彼はリュックサックを両手に抱えていた。脱出に備えて物資を纏めてくると言っていたのを思い出す。
「どうした、弘人」
「梨絵ちゃんがいなくなって」
「腹空かせたらヒョッコリ出てくるだろ」
「心配じゃないんですか」
「そうは言ってねぇ」
「鷹橋さんの態度って分かりづらいから心配になるんですよ」
弘人はそう言うと、鷹橋は鼻を鳴らす。抱えたリュックサックを抱え直しながら、彼は踵を返して言う。
「結局は、所詮他人って事だ。自分が生きることが一番大事なんだよ、誰もが」
鷹橋がそう言って、駐車場と面している窓の方へ歩いていく。上手く行けば、桜達が戻ってきてもおかしくない時間だ、と言い残していった。成否はともかく、彼女達が戻ってくれば、此方から縄梯子を降ろしてやる必要があった。そこまで考えて、弘人の脳裏を一つの可能性が過る。
「まさか」
弘人は窓の場所まで駆け出す。突然走り出した弘人の姿に驚いて鷹橋もそれを追った。弘人が見たのは、窓の縁に掛かっている縄梯子だった。確かに仕舞った筈のそれが降ろされている。
梨絵が外に降りた可能性があって、弘人は慌てて窓へと駆け寄った。幼稚園児が一人で降りるわけがないと、何処かで思い込んでいた。確かに、どうすれば良いのか、という方法は見ていた筈だった。だが、理由がない。
「マジかよ」
鷹橋が呻く。窓から見下ろした駐車場に、歩いていく梨絵の後姿があった。ゾンビの群れが動き出しているのが分かる。弘人が窓の側に立てかけてあったバットを脇に抱えると、縄梯子へと足をかける。鷹橋へと怒鳴る。
「先に降ります!」
「先に、ってなぁ!」
鷹橋の言葉を聞くより前に弘人は、縄梯子が大きく揺れるのも構わず、飛び降りるようにして勢いよく下っていく。地面に着地すると、弘人は急いで駆け出した。梨絵は乗用車のボンネットを器用に乗り越えていく。弘人はそれを追った。梨絵に追い付いて、その身体を掴んで引き留める。
「梨絵ちゃん! 駄目だ、外に出ちゃ!」
弘人に引き留められた梨絵の表情は明るく。何故か嬉しそうなもので。梨絵は、彼女が向かおうとしていた方角へ指をさす。
「お兄ちゃんがね、あそこに」
その言葉に、弾かれるように弘人は勢いよく顔を上げた。梨絵が指さした先。梨絵が見ている物。乗用車の瓦礫の上。真上に昇りつつあった太陽の陽射しで出来た影。2ヶ月前の記憶が脳裏を過る。あの時と違うのは、この場に桜が居ないことで。弘人の手が震えを抑えきれず、バットが地面に落ちる。乾いた金属音が鳴って。冷や汗が滲む感覚が全身を覆う。
祷の言葉を思い出す。内浦高校はゾンビの襲撃を受けて壊滅した、と。其処から逃れてきたのだと。梨絵の兄もまた、犠牲になったと言っていた。
「まさか」
其処に立っていたのは、大型のゾンビだった。




