とある昼下がり
こじゃれた街中も少し路地に入れば、まるまる太ったネズミが闊歩する。すすけた雑居ビルの屋上には、周囲に負けないくらい、くたびれた男がひとり。
屋上の縁に足をかけ、空を見上げていた。
雲1つない、見事な晴天だった。
しばらくして、男は首を垂れた。
仕事もできず、なにもやる気になれない、ただ生きているだけの自分には、もううんざりだった。
あぁ、これで。
「――楽になれる。とか思ってんの?」
心無い言葉が背後から投げかけられ、男は振り向いた。
黒のパーカーに黒のパンツ、目深に被ったフードで表情こそ分からないが、口元と口調で面倒そうな雰囲気が伝わってくる。
「そこから飛び降りたら、アンタを知る人がいなくなるまで、ずっと石、積むことになるよ」
1歩、そしてまた1歩。
「どんだけ綺麗に積もうが、おかまいなしに崩してくる。やめることもできなくて」
近づいてくる足取りまで、ひどく面倒そうで。
「子どもじゃないから助けもない。ここよりずっとーー」
それ相応の振る舞い方があるだろう、と男は近づいてくる黒づくめの青年の胸ぐらを掴んだ。
「キミになにが分かるんだっ!!」
男の剣幕に青年のフードが脱げた。
服装とは真逆な、真っ白な髪がなびき、鋭い眼光が男を捉える。
「周りがっ……友人たちが眩しくてしかたがなかったっ……。みんな、好きな仕事ができてっ……俺だけ、できなくてっ。それでも、他のことで頑張っていればっ……いつか報われるだろうって……!!」
常に笑顔を心がけ、懸命に、がむしゃらに働いて。
変わらない現状に、これじゃだめなんだと、男は自らを追い込んだ。
気付けば、身体もココロもボロボロで、なにもできなくなっていた。
「じゃあ、なおさら」
青年が男の腕を掴むと、景色が反転する。
朽ちた看板、寂れた鐘や建物――――さっきまで見ていたものが青年越しに。
そして、
「こっちに来んな」と、男を突き飛ばした。
その勢いで、仰け反る青年。
背後は宙だ。
男は尻餅をつきながら、手を伸ばした。
「ぜってー報われねぇから、シゴって」
青年はそれを掴むことなく、重力に身を委ねた。
慌てふためく男がどんどん小さくなっていく。
青年は口角を上げた。
高層ビルに縁取られた空は、今日も綺麗だった。
*
「悲観することはありません。早すぎる死は神様からのお導きなのです。貴方の御子息も、貴方の恋人も……神の御許に」
周りが寂れているわりには、立派な教会だった。
ステンドグラスから入り込む光が、羽根の生えた女性像の前に立つ人を優しく照らしている。
折り重なった影だけ見ると、教壇に立つ天使のよう。皆、聞き入っていた。
「私たちはそれを嘆くのではなく、粛々と晴れやかなる気持ちで送り出すことを――」
大切な人を失った者たちには救いの言葉かもしれないそれを、窓の外にいる猫たちに分かるはずがなかった。
じっと見つめたって無意味だ。
「にゃーん!!」
「うみゃー!!」
「鳴いても一緒だってば」
話を中断して私たちにごはんをくれるわけがない、と1匹の黒猫がたしなめるが、他の猫たちは鳴くことを止めない。
追い払われる前にこの場を去るのが得策だ。
「……静かにしてもらえるとありがたいのですが」
ほら、言わんこっちゃない。
違ったのは、教会の中からではなく、裏手のブロック塀に腰掛けていたスーツ姿の男から。
パリッとしたスーツでネクタイも緩めずに、こんなところで休憩……しているのだろうか。
表通りのカフェでバリバリ仕事をしていそうな、教会以上に似つかわしくない男は異彩すら放っていた。
「仕方がありませんね」
懐に手を入れる。
銃か。
拳銃、なのか。
それならしっくりこなくもないのだが、生憎ここは銃社会とは無縁な島国だ。
「少ないですが……」
そう言ってばらまいたのは、カリカリ――1食分が個包装になっているキャットフードだった。
皆が夢中になる中、黒猫だけは輪に入らず、距離をとる。その足取りはつたなく、しかし怪我をしているわけではなかった。
へたくそな四足歩行の黒猫に、スーツの男が気づいたその時だった。
そばにあったゴミの山に、黒い塊が落ちてくる。
猫の動体視力が故に、はっきりと見えた、人の形。
ゴミがクッションになっていようが、それなりの衝撃音に猫たちはびっくりして逃げてしまった。
「派手な行動は慎むように」
「視えないんだから大丈夫でしょ」
何事もなかったようにゴミの山から生還する、黒いパーカーの青年に、スーツの男はため息をついた。
「――視えてる、ようですよ?」
男は自分の足下にいる、もう1人の目撃者を紹介する。人間みたいに腰を抜かし、指をさすように前脚を動かす黒猫を。
「なにこの猫」
「あああんだこそ!! なんで無傷っ!?」
「……喋った」
「猫だって喋るわよ!!」
「あ、うん。そう……だっけ?」
「そう、よ――って、分かるの!? 私の言葉っ!?」
黒猫は彼らこそ救いだ、と目を輝かせる。
「お腹すいたのっ、おにぎりが食べたい!」
「猫のくせに、おにぎり?」
「猫のくせにってなによ!!」
埒が明かない、と青年は傍観を貫いていた男に助けを求めた。黒猫を抱き上げ、彼の目線に持ってくる。
「ニクスさん」
呼ばれたスーツの男・ニクスは、黒猫に顔を近づけた。
遠視、なのだろうか。
近い。
近すぎる。
ニクスという横文字めいた名前でだいぶ引っ張られているが、おとぎ話でよくある、キスしたら元に戻る的なことかと、黒猫は身構えた。
ひんやりとした額が、黒猫の小さなおでこに重なる。
「末期、ですかね」
「……シにかけ?」
「えぇ。ひとまず、おにぎりを」
「コンビニなら、あっち」
「ちょっと、死にかけってどういうことっ!?」
物騒なことを口走った2人から、それ以上の説明はなかった。




