6-7
言葉が出なかった。
突然現れた奈津子の姿に、一瞬、呼吸が止まるような感覚を覚えた。
「何してるの?」
奈津子が背後から覗き込むようにして言った。口元は小さな笑みを浮かべているが、その目は決して笑っていない。
「奈津子さん……あなた……」
搾り出すように涼子は口を開いた。
「それって、事故の記事?」
「ええ……あなたは――」
「そう……じゃあ、説明はいらないわね。あの時、あなたも一緒だったの?」
「え?」
「あの事故の時、川渕さんと一緒だったのはあなただったの?」
涼子はゆっくり首を振った。
「違うわ……奈津子さん、まさかあなたが忠志さんを?」
「……」
奈津子は答えなかった。だが、その沈黙にこそ答えがある気がした。
「なぜ? 事故のせいなの? あの事故は忠志さんが起したわけじゃないでしょ?!」
「嘘よ。川渕さんとあなた、あの日、二人で長野に行ったのはわかってるのよ」
「どうしてそんなふうに思うの?」
「涼子さん、川淵さんと付き合ってたんでしょ」
「ずっと前のことだわ」
「でも、まだ好きなんでしょ?」
「止めて!」
思わず声を強めた。「奈津子さん、答えて。あなたが忠志さんを殺したの?」
「そうよ」
静かな口調で奈津子が言った。
「どうして?」
「わかってるでしょ?」
「……」
「川淵さんとあなたがあの事故を起こしたからよ。あの日から私はずっとあなたたちを捜してたの」
奈津子の目が怪しい光を放っている。その目は虚ろでどこか遠くを見つめている。涼子と話しているくせに、その目はその向こう側を眺めているように見える。
「それで私に近づいたの?」
「そうよ、私はずっとあなたたちに近づく機会を捜してた。結婚式の二次会であなたが酔っ払って恵美さんのことを話しているのを聞いた時、チャンスだと思った。でも、あなたのことは知らなかった。てっきり別の女かと思ってた」
「奈津子さん、あなた勘違いしてる!」
「何が勘違いっていうの?」
「あの日、私は忠志さんと一緒じゃなかった」
「嘘つかないで!」
「嘘じゃないわ! それに忠志さんは事故とは関係ないの」
「あの人はあの日、長野に行ってるわ!」
「確かにあの日、彼は長野に行ったわ。でも、彼が長野に着いたのは事故が起きる30分も前のことよ。事故のことはホテルで知ったの」
「どうしてそんなことがわかるの?」
「忠志さん本人がそう言ってたらしいの。忠志さんはその日、仕事で人に会うために長野に向かったの。少しタイミングがずれていたら事故に巻き込まれていたって話したそうよ」
「そんなの……嘘よ」
言葉と裏腹に奈津子の目に動揺が見えた。
「嘘じゃないわ。忠志さんはそんな嘘はつかない」
「でも、でも……ホテルで女性と一緒だったはずよ!」
「そうよ。それが仕事の相手なの。でも、二人で一緒に長野に行ったわけじゃないわ。そのホテルで会う約束をしていたの」
「どうしてそんなことが言えるの?」
「忠志さんがその日、何をしに長野に行ったのかわかったの。忠志さんは事故とは関係ないのよ」
「違うわ……私は間違っていない……だからあの男は死んだんだわ」
「奈津子さん、もう止めて」
「信じない……そんなの信じない」
「奈津子さん――」
涼子はテーブルに手をついて立ち上がろうとした。
「動かないで!」
その涼子の動きを見て、奈津子は声をあげた。素早い動作で手をバッグのなかに突っ込み、何かを取り出した。その手にはナイフが光っていた。
思わず涼子は動きを止めた。
「……何をするつもり? 奈津子さん、あなたが仙台を離れるまえにやらなきゃいけないことって……」
「私は間違ってない。あなたを殺して私も死ぬわ」
「何、馬鹿なこと言ってるの?」
「馬鹿なこと? ふふ……そんなのわかってる。こんなことしたってあの人たちは帰ってこない。あの人たちがこんな復讐望んでいない事だってわかってる。でも……私には我慢できない! あなたたちみたいに他人の不幸など気にもせず、自分が安全なところにいることを笑っていられる人たちが許せないのよ!」
「どうしてわかってくれないの?」
「うるさい!」
悲鳴に近い声で奈津子が叫ぶ。「……もう何も聞きたくない!」
ナイフを握る手が震えている。そして、その瞳からは大粒の涙が零れ落ちていく。
(だめだ)
奈津子はすでに感情を抑えられなくなっている。理性的な人間だからこそ、自分が犯した罪に耐え切れなくなっている。
どうしていいかわからなかった。
その時、キッチンのほうで小さく音がしたことに涼子も奈津子も気づかなかった。
「奈津子さん……落ち着いて」
涼子は奈津子を落ち着かせようと声をかけた。
「……どうして……どうして……? 康平さん……晋平ちゃん……」
「もうやめようよ、ねえ、奈津子さん」
涼子はゆっくりと立ち上がると、奈津子に向って手を伸ばした。ナイフを取り上げなきゃいけない。奈津子にもうこれ以上犯罪を重ねさせてはいけない。
だが、その涼子の動きを見て、奈津子はすぐにナイフを構え直した。
「来ないで!」
ナイフの先端がまっすぐ涼子に向けられている。
思わずごくりと唾を飲んだ。
奈津子が自暴自棄の状態になっていることは、涼子にもはっきりと伝わっている。涼子を殺す事が、死んだ二人の復讐になると信じきっている。
(どうすればいいの?)
奈津子にわかってもらいたい。
自分が……そして、忠志がそんな人間ではなかったことを理解して欲しかった。
「奈津子さん、落ち着いて」
言葉を選びながら、涼子は必死に声をかける。
だが、その声はまるで奈津子に届いていないように見えた。
奈津子の表情が歪んでいく。
「私はいったい何をしてきたっていうの?
相変わらず右手に握られたナイフは涼子に向けられていたが、奈津子は左手で頭を掻き毟った。涙がボロボロと瞳から零れ落ちていく。
「奈津子さん!」
「嘘……嘘……嘘…嘘! そんなの嘘よ!」
ギラリと目を光らせ両手でしっかりとナイフを握り締める。「もうおしゃべりは終わりよ!」
その時だった。
リビングのドアがすっと開き、一つの影が飛び込んできた。そして、奈津子が振り向く間もなく、その影はドンと奈津子の背中にぶつかっていった。
「恵美!」
涼子ははっとした。奈津子もゆっくりと振り返り、その姿を確認した。
「恵美……さん……」
奈津子の身体が、その場に崩れて落ちて行く。その腰の部分に包丁が深々と突き刺さっているのが見えた。
「恵美! なんてことを……」
目の前で起きたことに、涼子は身体が震えた。
「忠志さんを殺したのはあなただったのね」
恵美は冷たい目で奈津子を見下ろしている。奈津子は苦しそうに顔を歪めながら恵美を見上げた。
「恵美さん……あなた……」
「あなたの復讐を認めてあげる。でも、私も彼の復讐をさせてもらうわ。あなたが旦那さんや子供を想うように、私だって忠志さんのことを愛してたのよ」
恵美は冷たく言った。
「そう……ね……しかたないわ…私は間違ったんです…もの」
「奈津子さん!」
涼子は奈津子の身体を抱き起こした。べっとりとした血が奈津子の身体を濡らしている。「恵美! 救急車を呼んで!」
だが、恵美はぼんやりと見下ろしているままで動こうとしない。
涼子は左手で奈津子の身体を抱いたまま、右手でバッグを探って携帯電話を取り出した。
「う……」
「しっかりして……あなたにはちゃんと生きて欲しいの! 死なないで!」
その言葉に奈津子は弱々しく首を振り、涼子の手をぎゅっと握った。
「ううん……私はもう楽になりたいの…」
「何言ってるのよ!」
「もういいのよ……あの日……あの人を失ってから……私はもう死んでいたの。康平さん……私の晋平ちゃん……」
まるでそこに死んだ二人の姿を見るかのように、奈津子は力のない目で空を見た。
「奈津子さん! だめよ! 死んじゃだめ!」
生きて欲しい。生きて寂しさから立ち直って欲しい。心からそう願った。
涼子の腕の中で、奈津子の力が消えていく。




