6-4
通りの向こう側から自分を呼ぶ声に気づき、奈津子は足を止めた。
それが誰なのかはすぐにわかった。
「安村さん」
安村とは食事会の時に一度会ったきりだったが、その大柄な身体つきは印象深く見間違うようなことはなかった。
ベージュのチノパンに無地のTシャツとラフな服装の安村は、先日のスーツの時とは若干印象が違って見えた。
「えっと山辺さんでしたね」
安村は走りよってきて、人懐こい笑顔を見せた。
「安村さん、どうしたんですか?」
「いや、別に……ちょっと暇つぶしに映画を観に行こうかと思って来たら、上映時間間違えちゃって。映画って途中から観るのってもったいないから帰ろうかと思ってたんです」
「今日はお一人なんですか? 浦沢さんは? 恋人なんでしょう?」
「彼女、友達と遊びに行くって言ってました」
ちょっと照れるように頭を掻きながら安村は答えた。
「それじゃ、ちょっとお茶でも飲んでいきましょうか?」
「え?……はい」
奈津子からの突然の誘いに驚きながらも安村は素直に頷いた。相手が誰であろうと年上の言葉には従うのが礼儀と思っているのかもしれない。
安村に出会ったのはほんの偶然だったが、これも一つのチャンスかもしれない。
昨日、仙道に会ったことで、奈津子は少し焦り始めていた。まだ警察は自分と忠志との関係に気づいてはいないだろう。だが、自分もまた、忠志と一緒にいた女について何の手がかりも得ていない。
警察が事件の真相に気づく前に、早く女を見つけ出さなきゃいけない。
二人は近くのコーヒーショップに入った。
奈津子の正面に座った安村は、ほんの少し緊張しているように見えた。
「安村さんはお仕事はじめてどのくらい経つんですか?」
奈津子は、とりあえず当たりさわりのなさそうな話題から口にした。当然、その先には川淵忠志の人間関係を聞ければと考えてのことだ。
「2年です」
「ずっと設計のお仕事をしてるんですか?」
「はい、僕の教育係が川渕さんだったんですよ」
懐かしむように安村は言った。いつものように背筋はピンと伸ばしている。その姿勢がさらに安村の身体の大きさを際立たせて見える。
「それじゃ川渕さんとは親しかったんですね」
安村の口からその名前が出たことに奈津子は喜んだ。安村がどこまで忠志のことを知っているのかはわからないが、何かヒントだけでも掴みたいものだ。
「ええ、川淵さんには何から何までお世話になりっぱなしで……本当に良い人だったんです」
安村は悔しそうに言った。
「川淵さん、人気あったんでしょうね。女性にもけっこうモテたんじゃないですか?」
亡くなったばかりの人の話題にはふさわしくないかもしれないと思いつつも、奈津子は話を忠志の女性関係へと振ってみた。
「そうですね」
「付き合っていた人も多かったんですか?」
「人気はあったけど、川渕さんには涼子さんがいましたから」
「え? 涼子さん?」
奈津子は驚いて安村の顔を見た。「それってどういうことです? ひょっとして川渕さんと涼子さんって付き合ってたんですか?」
「はぁ……これ、僕が言ったって言わないでくださいね」
「本当に川渕さんと涼子さんは付き合っていたの?」
奈津子は念を押した。
「一年くらい前まで。僕が入社する前から付き合ってたみたいだから、結構長かったんじゃないですか」
「それじゃどうして恵美さんと結婚したの?」
「さあ、その辺の事情のことは僕にはわからないけど、なんか家の事情みたいです。その後、恵美さんから川渕さんにアプローチして付き合ったって聞きました。でも、別れても本当はお互いに好きだったんじゃないかって思うときがありましたよ」
「それって本当?」
奈津子の頭のなかに、一つの可能性が浮かび上がっていた。
あの事故の時、忠志と一緒にいたのは涼子かもしれない。
忠志にとって涼子がそこまで大切な存在だったとすれば、あの時、彼女を何があっても守ろうとしたのも理解出来る。
「もちろんただの想像です。でも、二人はずっと相思相愛って感じの付き合い方してたし、それに別れたのだってお互い嫌いになったわけじゃないと思うんですよ。そういうのってなかなかお互いの気持ちをふっきるのって難しいんじゃないですかね」
すでに安村の声は奈津子には聞こえていなかった。
(確かめなきゃ……)
まだ喋り続ける安村を無視するように、奈津子はすっくと立ち上がった。




