4-11
涼子は、恵美のマンションを出てから、一度タクシーで自宅に戻った。
シャワーを浴びてモヤモヤした感覚を洗い流すと、着替えてから改めて会社に向った。
一夜が明け、涼子も冷静を取り戻しはじめている。
事件直後は驚きと悲しさに捕らわれていたが、しだいになぜ忠志が殺されたのかということが気になりはじめていた。
昨日、仙道という刑事は『怨恨による犯行』の可能性があると言っていた。
いったい誰が忠志を殺したいほど憎んでいたというのだろう。そして、忠志はいったいなぜ昨日、会社を休んだのだろう。
そこに今回の事件のポイントが隠されているような気がしてならない。
10時過ぎに会社に着くと、ロッカー室で黒のジャケットとグレーのタイトスカートの制服に着替えた。入社の頃はこの地味な制服は嫌いだったが、時間とともに落ち着いたデザインに慣れてきている。
席に着くと、すぐに浦沢加奈子が椅子を寄せて話し掛けてきた。
「先輩、いったいどうなっちゃってるんですか?」
その言葉が何を指し示しているかはすぐに察しがついた。ここに来る途中、試しに買った新聞でも、小さな記事ではあったがすでに忠志が殺されたことが書かれていた。いや、新聞の記事にならなくても、こういう話はすぐに伝わるものだ。
「私にもわかんないわよ」
話せることなど、涼子にもほとんどなかった。
「警察、来てますよ」
「え?」
いずれ会社にも警察が調べにくるだろうということは想像していたが、これほど早くやってくるとは思わなかった。
「川渕さんの日頃の仕事ぶりとか、いろいろ課長に聞いていたみたいですよ。私もさっきちょっと話を聞かれたんです」
「何を?」
「普段、どんな付き合いしてるかとか……川渕さんが誰かとトラブル起したことはなかったか……とか。あと、課長はウチが防犯カメラを設置している駅近辺お店についても聞かれたみたいです」
「防犯カメラ?」
「このこの会社に犯人がいると思ってるんでしょうか?」
加奈子は自分の身体を両手で抱きしめながら嫌な顔をした。
「警察ってどんな人だったの?」
「えっと……若いけどキツい感じの女の人と、すっごい歳とった感じの人」
やはり昨日の二人の刑事らしい。「川渕さんが昨日、会社休んだってこと話したんだけど……良かったんですかね」
「いいんじゃないの? どのみち誰かが言うだろうし。そんなこと隠したら、あなたが疑われるわよ」
「そうですよね」
涼子の言葉に加奈子は安堵の表情を浮かべた。
その時、背後から涼子を呼ぶ声が聞こえた。
課長がドア付近で手招きしている。
「はい」
席を立って涼子が近づくと、課長はそっと小さな声で言った。
「警察の方が川渕君のことで君に聞きたいことがあるって言ってるんだ。応接室で待ってるから行ってくれるかな」
「わかりました……」
仕方なく涼子はそのまま応接室へと向かった。
応接室のドアを叩くと、「どうぞ」という声がなかから聞こえてきた。これはおそらく年配の橘という刑事の声だろう。
「失礼します」
ドアを開けると涼子は丁寧に頭をさげた。
予想したとおり、昨日の仙道と橘の二人が革のソファに座っている。橘は昨日と同じグレイのスーツを、そして、仙道はブランド物らしいベージュのパンツスーツを奇麗に着込んでいる。
「昨日はありがとうございました」
橘が立ち上がって愛想よく笑ってみせた。「どうぞ座ってください。昨夜は大変だったようですね」
どうやら恵美のマンションに泥棒が入ったことを知っているようだ。
「それも刑事さんたちが捜査されるんですか?」
「窃盗は私たちの担当じゃありません」
手元の資料を見つめたままで仙道が言った。「ただ、川淵さんの事件に関わっているのなら別ですが」
涼子が正面に座ると、はじめて仙道は手元の資料から涼子のほうへと視線を移した。
まるで隙がなく、常に目の前の相手を疑うような目つきを見て、やはりこの女性刑事は苦手だと、涼子は思った。
「事件のこと、何かわかりましたか?」
先制のつもりで涼子は仙道に訊いてみた。
「いえ、まだわからないことだらけですよ」
あっさりと仙道は答えた。「犯人はもちろん、どこで、どういう状況で、なぜ殺されたのか。まるでわかりません。そもそも、わかっていればここにはいません」
「どこで殺されたのかわからないんですか?」
「ええ」
「車のナビを調べれば走った経路はわかるんじゃありませんか?」
「あの車にはナビが設置されていたんですか?」
「……はい。そのはずですけど」
「ナビは取り外されてました」
「ナビが?」
「犯人によって盗まれたのかもしれませんね。残っていれば犯行現場を特定することも簡単に出来たかもしれません」
「じゃあ、怨恨による犯罪ということでもなくなるわけですね」
「犯人がナビを盗もうとして川淵さんを殺害したというんですか?」
その仙道の表情は、その可能性をまるで否定しているようだった。
「そういうことも考えられる……かなって」
涼子も、本気でそう思っているわけではなかった。ただ、忠志が誰かに恨まれていたとは思いたくなかった。
仙道は少し考えた後で――
「そうですね。そういう考えもあるかもしれません。ただ、いずれにしても川淵さんがどこにいったのか調べるために、今は車が置かれていたコンビニを中心に周辺を調べるほかないわけです」
「ウチのお客様についても訊いていたそうですね」
「ああ、防犯カメラを設置しているお店のことですね。さきほど課長さんにリストを出していただけるようお願いしました」
「どうしてそんなものを?」
「もちろん捜査に必要だからです。川淵さんの遺体が発見されたコンビニですが、中に設置された防犯カメラではちょうどその車の運転席部分が映っていなかったんです」
「残念でしたね」
「ええ、そこが映っていれば犯人はすぐにわかったはずです。そこでその近辺のお店について防犯カメラが設置されているところを教えてもらおうと思ったわけです。私たちの仕事はどんなに面倒なことでも、一つ一つ確認していかなければいけません。例えば昨日、川渕忠志がなぜ会社を休んだのか……とかね。そういえば、昨日、奥さんに聞いた時には川渕さんが会社を休んだことは言っていませんでしたよね」
「……ええ」
「つまり奥さんにも内緒で会社を休んだってことですね。奥さんはご主人が会社に来たものと思いこんでいたようですから」
「そうですね。ただ、私にそれを言われても困りますけど……」
昨日、意識的に黙っていたせいか、つい弁解するような言い方になってしまう。
「藤井寺さんは、彼が会社を休んだ事をご存知なかったんですか?」
「私は部署が違いますから」
変なところで嘘をつくのは良くないとはわかっていたが、やはり本当のことは言いづらかった。
「藤井寺さんは総務部門でしょう? 把握してないんですか?」
「総務だからって全社員の勤怠は把握出来ません」
少しドキドキしていた。加奈子はどこまで警察に話したのだろう。涼子が忠志の休暇について知っていたことまで話したのだろうか。いくら涼子が総務の仕事をしているといっても、忠志以外の社員の休暇届けまで全て記憶しているわけではない。間接部門だけでも200人近い社員がいるのだから、把握していなかったとしても決しておかしいことではないはずだ。
「まあ、そういうこともあるかもしれませんね」
と橘が言った。「そういえば、こちらの会社はここ以外にも工場を持ってましたよね? 確か……多賀城でしたか?」
「そこは今、倉庫として使ってます。工場は富谷の工業団地にあります」
「ああ、そうでしたか。参考までにお伺いしますが、工場の社員の勤怠はどうしているんですか? こちらの会社はフレックス勤務だと聞きましたが」
「フレックス勤務は間接部門だけです。工場のほうは勤怠管理するシステムがあるので入社時、退社時にIDカードでチェックするようになっています」
「では、逆にいえば、こちらのビルで働いている間接部門の人たちの勤怠というのは100%把握出来ているとは言えないわけですね」
「まあ……そうかもしれません」
確かに橘の言っていることに間違いはなかった。以前、社員が勤務時間中に勝手に抜け出していることが役員にバレて問題になったことがある。それでも間接部門の社員は客先に出向く者もいれば、工場に行く者もいて、完全にチェックすることは出来ないために勤怠は自己申告となっている。
「川淵さんは、昨日どうして休んだんでしょう?」
再び仙道が口を開く。また涼子の身体に緊張が走る。
「休暇届けには『風邪』とありました」
「休暇届け? あなたは川淵さんが休んだことを知らなかったんじゃないんですか?」
「あ……さっき休暇届けを確認したんです」
咄嗟に涼子は言い訳をした。
「準備が良いですね」
「それは……昨日の事件のことがありましたから」
「けれど、実際には風邪というのは嘘だったようですね。普段、川淵さんの出勤状況はどうでした? 休むことは多かったですか?」
「いえ、滅多に休むことはなかったと思います」
「それも事前に確認してきたんですか?」
「確認しなくても、誰がよく休んでるかはわかっているつもりです」
涼子は少しムッとして答えた。
「ふぅん」
と仙道は小さく頷き――「ちなみに藤井寺さんは、昨日、ずっと会社にいらしたんですか?」
「え? あ……はい」
突然、自分の行動への質問に、涼子はまごついた。
「それを証明してくれる方は?」
「私が疑われてるんですか?」
「確認ですよ」
と橘が柔らかい口調で言った。「皆さんに嫌がられるんですが、事件となると、我々としては関係者全員の行動を出来る限り把握しなければいけないんです」
納得出来たわけではないが、それでも涼子は昨日のことを思い出しながら口を開いた。
「昼は浦沢さんと一緒でした。あとは……多くの時間、席にいたので課長や浦沢さんと一緒でした」
「他の社員の方たちについてはどうです? 外出を把握出来るようなものはありませんか?」
再び仙道が訊く。
「もちろろん外出する社員には届けを出してもらうようになっています。でも、基本的には自己申告ですよ」
自己申告のところをわずかに強調して、涼子は言った。届けなしのままで外出する社員も少なくはない。
「では、後で昨日の届けが出ているものを見せていただけますか?」
「わかりました。課長に確認します」
涼子は素直に頷いた。そして――「一つ聞いて良いですか?」
「何でしょう?」
「昨日、川淵さんが自殺する可能性がないかと聞きましたね。どうしてそんなことを? まさか警察は川淵さんが自殺したと考えているんですか?」
昨日からそのことがずっと気になっていた。
「まさか」
仙道はすぐに否定した。「川淵さんの死因は絞殺です。現場の状況から考えて、他殺と見て間違いないでしょう」
「じゃあ、どうしてあんなことを?」
「車内に練炭が残されていました」
「練炭?」
「さらに車内にはガムテープで目張りしたかのような跡もありました。まるで自殺でもするかのようにね。なぜ、そんなものが残っていたのか、それがわからなかったので、過去に自殺でも計ったことでもあるのかと思ってお聞きしました。ちなみに川淵さんはキャンプとかはされましたか?」
「いえ……そういうことはしなかったと思います」
「そうですか。じゃあ、なおさら練炭があるはずがありませんね」
「自殺に偽装工作されてたってことですか?」
「いえ、練炭は少し残っていただけで目張りも外されてました。偽装工作というものではありません」
「どういうことですか?」
涼子の問いかけに、仙道は少し首を傾げただけだった。そして、仙道は涼子に違う質問を投げかけた。
「川渕さんは結婚されたばかりだそうですね」
「ええ」
「ご夫婦の仲は良かったんでしょうか?」
あからさまな質問に涼子は思わず眉をひそめた。
「どういう意味です?」
「そのままの意味です。川渕忠志と恵美さんの仲はどうだったんでしょう? うまくいっていたと思いますか? お二人をご存知のあなたの意見を聞かせてもらえますか?」
「恵美を疑ってるわけじゃないでしょうね」
涼子は仙道を睨んだ。
「いえいえ、そうじゃないんですよ」
穏やかな口調で橘が口を挟んだ。「我々はいろんな面から事件を取り扱わなきゃいけない。先入観で物を考えちゃならんのですよ。そのためにはいろんな可能性を考え、一つ一つ潰していかなきゃいけないんです。ぶしつけな質問で申し訳ないんですが、お答え願えないでしょうか?」
「……仲は良かったと思います」
仕方なく涼子は答えた。
もちろん警察に協力しないつもりなどなかった。早く犯人に捕まって欲しいと心から思っている。ただ、仙道のように人の心の隅を突つくような物言いは不快だった。
「あなたは川渕恵美さんとは仲が良いんですか?」
再び仙道が口を開いた。相変わらず高圧的な口調は変わらない。その脇で橘はポケットからタバコを取り出し、吸ってもいいかと涼子に確認を取ってから口に咥えた。
「恵美は親友です」
「付き合いはどのくらいですか?」
「短大に入った頃からです。もう7年ですね」
「長いですね……ずいぶん仲が良い」
橘がタバコに火をつけながらつぶやいた。
「彼女が結婚するまでは一緒に暮らしていたそうですね」
仙道の目は相変わらず鋭く涼子を観察している。
「ええ……」
涼子が恵美と暮らしていたことは会社の人の多くは知っている。今更、隠すつもりもなかったが、プライベートのことに入りこまれるようであまり心地よくなかった。
「彼女と喧嘩したことは?」
「そりゃ、何度か喧嘩したことはありますけど――いったい何が聞きたいんです?」
思わず涼子は口調を強くした。
「さっきも言ったでしょう。いろいろな可能性ですよ」
「恵美が殺した可能性? それとも私が殺した可能性ですか?」
「そんな怒らないでください。別にそんなことを言っているつもりはありませんから」
仙道は一応宥めるような言い方をした。だが、それはむしろからかっているようにも見えて不愉快だった。
「別に……怒っているつもりはありません」
自分の声の強さに恥じ入るように、涼子は視線を落とした。
「ところで……あなたは川渕忠志さんとも親しかったんですか?」
その質問が何を意味しているか、涼子はすぐにわかった。
会社のなかには涼子と忠志が付き合っていたことを知っている人も少なくはない。誰かが警察に喋ったとしても不思議ではなかった。
どう答えるべきか迷った。
「……え……ええ」
「どんなお付き合いをされてました?」
やはり忠志とのことを既に誰かから聞いて、そのうえで質問しているようだった。さすがに答えづらかった。
黙っている涼子に向って、仙道はさらに言った。
「川渕さんとは以前、交際されていたんですよね」
「そんなことまで話さなきゃいけませんか?」
「参考までにお伺いしたいですね」
仙道は表情を崩さなかった。まるで機械のように表情を変えることなく、涼子の一挙一動を監視している。
「ええ、彼とは以前付き合っていました」
覚悟を決めてその一言を口にした。
「どのくらいの間ですか?」
「……去年の春まで。四年間です」
「なぜ別れたんですか?」
「それは……お答えしたくありません」
そう言って涼子はぎゅっと口を閉じた。
さすがにこれ以上は話したくなかった。忠志を失ったことが改めて心のなかに重くのしかかっていた。
涙が溢れそうになるのを必死に我慢した。
その瞬間、ふと恵美の姿が思い浮かんだ。恵美が昨夜、涼子の前で涙を流さなかったのは、今の自分と同じような気持ちだったんじゃないだろうか。
(私の前で弱さを見せたくなくて……)
涼子は唇を噛んで仙道を睨んだ。
それでも仙道はきっと重ねて訊ねてくるだろう。涼子をじっと見る仙道の視線が怖かった。心の中を全て見透かされている気がする。
だが――
涼子を気遣ったのか、意外にも仙道はそれ以上追及しようとはしなかった。
「わかりました。では結構です。ありがとうございました。いろいろ失礼なことをお訊ねして申し訳ありません」
「い……いえ……」
涼子は立ち上がった。
少しでも早くここから立ち去りたかった。だが、ドアノブに手をかけた瞬間、背後から仙道が声をかけた。
「またいずれお話を聞かせていただきたいのですが、その時はご自宅のほうへお伺いさせていただいてよろしいですか?」
「……なぜです?」
恐る恐る振り返って仙道の顔を見た。
仙道はソファに座ったまま涼子を見上げている。
「あなただってこの事件について真実を知りたいんじゃありませんか?」
真実。その言葉に涼子は不思議な感覚を憶えた。
(この人は何を考えているんだろう)
仙道はさらに付け足した。
「人が人を殺す理由というのはさまざまです。真実を見つけるためには被害者にまつわるあらゆる情報が必要なんです。あなたにとっては辛いことかもしれませんが、ぜひ協力をお願いします」
その時、あらためて自分が容疑者の一人として見られているのだと実感していた。




