この世界の坊主とは――治癒術師のことである
とある休日――とある薄暗い空間――
その手前には薄暗い水面が広がる。
その水面には透明な海月のようなものがぬらぬらと漂っており、てらてらとミドリの蛍光色をほのかに放っている。
スノー・ノーザンフィールドは、そんなじめじめした湿度の高い地下ダンジョンの一室にいた。
その周囲には1枚2,300円の屏風が転がっている。
その色は白――
つまり白紙だ。
その後ろでは村人Bとアリスがその様子を面白そうに眺めていた。
「『イラストレーション!』」
スノーはがっくりと膝を落とす。どうやらまた、術式の使用に失敗したようだ。
(ま、また失敗……)
スノーが両手で持っていた屏風はスライムプールに力尽きたようにプールに沈み、スライムによって溶かされていく――
その溶かされた屏風の量は、すでに百数十枚に及んでいた。
そう、彼女らは《神聖魔法》スキルの一つである『イラストレーション』を用いて諺『坊主が上手に屏風に〇〇の絵を描いた』を実現しようとしているのだ。
この世界の『坊主』とは、それすなわち、《神聖魔法》スキルの術式が使えるニンゲンのことを指す――
「スノーさん。大丈夫?」
アリスにプールへと落とされないように警戒しながら、労わるように村人Bが声を掛けた。
その手には蓋を開けられ、ストローが刺さった栄養ドリンク、令和製薬謹製のオミクロンDがある。およそ女性に渡すものではないが、それにはMPを僅かに回復させるポーションの能力があった。そのストローはピンク色で、一部曲線を描いてハート型をしている。
「これは――、本当に成功するのでしょうか??」
スノーの《神聖魔法》スキルレベルは、EXPアッパーで3まで上げた《神聖魔法》Lev.1 のままだ。本来であればもっと高位レベルで習得するはずの『イラストレーション』を使えばその成功率は相当に低い。
そもそも、『イラストレーション』は《神聖魔法》スキルとしては人体骨格などを書くものとして知られ、多くの人が習得していない。つまり使用ノウハウが継承されておらず、その成功率の低下に拍車を掛けている。
《神聖魔法》スキルの中にも流派があり、『イラストレーション』は流派体形の違う術式であることを考えれば、失敗が連続することはある種当然ともいえた。
このあたりは《剣術》スキルの流派で考えれば分かりやすいだろう。
《剣術》スキルと一口に言ってもその剣の流派には、
・赤城御剣流、
・斬鉄次元流、
・夜杖真澄流、
――などと複数に分かれており、その到達点はそれぞれ、
「(経験点の)美味しさは優しさ」
「斬れぬものなどあんまりない」
「最強の剣術とは無手である」
――などとまったくバラバラであるのであれば、中級を超える他流派の術式行使がいかに難しいかなど、容易に想像できるだろう。
「するはず。するはずなんじゃが……。ワシの試算では確率3%じゃな」
「低っ!」
「ちょっと。それを早く言ってくださいよ。覚悟ができないじゃないですか。それなら、やはり先に《神聖魔法》スキルのレベルを上げた方が……」
目の前のスライムプールに飛び込めばレベル20は確実なのだ。
その証拠として、村人Bがいる。彼はレベル20だ。
《神聖魔法》スキルが使えるようになって、それなりに満足してしまったスノーだが、レベルが上げられるものであれば上げたい。そういう欲求はあった。
今にも飛び込みたいが、男の視線――村人Bがいることがスノーの飛び込みに対するブレーキとなっていた。なにしろこのスライムは身体以外の全てのものを溶かす。スノーにはむろん、女性としての羞恥心はあるのである。
「だめじゃ。さっきも言ったじゃろう。こんな強力なスライムが世に放たれたら世界が壊れるのじゃ!」
確かにレベル20ものニンゲンが溢れる世界となれば世の中がどうなるかなんて簡単に予想ができる。かつてあったように侵略戦争が始まるのだ――
「低レベルで『イラストレーション』を成功させれば、その能力も劣化する。でしたっけ?」
「そうじゃ。低レベルで『イラストレーション』を用いて作られた、上座空想坊主練泰絵巻であればプールに飛び込んでも減衰によって3レベルくらいが最大になるじゃろう? だから低いレベルのうちに作らねばならぬのじゃ」
(それは分かっていますが……。成功率があまりにも……)
「がんばって!」 村人Bが励ます。
スノーはそれを見て村人Bから受け取ったスタミナドリンクを一気に飲み込むと、散らかった屏風の一枚を拾って掲げ、スライムプールに再びそれを向ける。ストローはスライムプールに投げ捨てた。一気飲みだ。
「『イラストレーション!』」
ふいに身体からMPが抜けていく感触に気持ち悪さを覚える。
しかし、気持ち悪さを覚えるということは術式自体は発動しているということが分かる。
「お。やったのじゃ?」
「失敗ですけどね。魔力は消費しています」
それでも術式は発動しているのだ。
それはスノーにとって大きな前進でもある。
「その調子! さぁ、どんどんやってみよー」
(そうね……、わたくしもがんばらないと……)
スノーは新たな白紙の屏風の一枚に再び手を掛けるのであった。
……………
……
…
「ひ、酷い目にあった……」
「ようやく3枚なのじゃ」
すっかり自宅のように寛いでいるその部屋は、佐藤湊の自宅であった。
スノーとアリス、それに湊の三人はダンジョンから、湊の自宅にある机の引き出しを通じ、部屋に戻って来ていたのである。
要は時間切れというやつだ。
スノーは学生である。
家住みであり親と同居のため門限というものがある。あまり遅い時間帯まで外で遊んでいるという訳にはいかない。
16:00帰宅開始――。それが家に17:30までに帰ろうとした場合の限界時間であった。
そうなると夜食は一緒には食べられないが、昼はスノーによる手料理が作られ、湊とアリス、それに、ダンジョンから出られないロダンは大いにそれを楽しんでいる。ちなみに昼のメニューは親子丼だった。夜は湊が買ってくるコンビニ弁当の予定だ。
「しかし1枚できた後はかなり成功率が上がっていたのじゃ。あと5-6枚もできたら、スノーのレベル上げでもしようなのじゃ」
結論として、成果は出た。
あと2-3日といったところだろうか。
「あぁ、ついにスノーさんがスライムプールに落ちる訳ですねわかります。ちなみに見学しても?」
「……。お主は阿呆なのじゃ」
スノーのジト目を受けて湊は平謝りするしかない。
「すみませんでしたー」
それはもう見事な土下座であった。
ぴろん♪ ぴろん♪
(あら? わたくしのスマホが……)
――と、そこで自分のスマホに複数の着信が来ていることにスノーは気づいた。
学生間の通話は、ほとんどがウインドウシステムによる通信で済ませているが、大人たちとの通信においてはいまだ電子電気のスマホは健在であった。
そして、そのダイレクトメッセージを見た瞬間――。スノーは青ざめた。
「あ。どうしよう……」
「どうかしたのか?」
「お母さまにバレたみたい。今いる場所を教えろって……」




