八 風沙の中の踏騒
クロウが機兵服に着替え、搭乗準備を整え終えてからしばらくすると、ゴーグルとマスクを身に着けたマディスが戻ってきた。巌の如き男は乱暴に砂塵に塗れたマスクを外すと、その口より罵り声を吐き出す。
「くそったれめっ! こういう時に限って、どいつこいつもいやがらねぇ!」
マディスは憤懣やるかたなしといった風情であるが、これは無理もない話である。
今現在のエフタ市において、現役の機兵として活動しているのはクロウだけであり、他の者はディーン・レイリークのような教習所の教官であったり、マディスのように組合本部に勤めていたりといった具合に、別の仕事に就いているのだから。
そういったことをわかっていても尚、マディスが怒りの言葉を漏らしたのは、これから行う活動……砂嵐の中での捜索活動がいかに難しく危険であるか、承知している為である。
苛立ちを吐き出したマディスは厳しい顔のまま、クロウに告げた。
「エンフリード。こいつぁ、厳しいことになるぞ」
「人手が足りない以上、探せる範囲は減るでしょうし、……時間も限られてる」
「そうだ。どうあっても限界は日没だ。もし、その時までに見つけられなきゃ、誰から何を言われようが、捜索は打ち切りだ。おめぇさんまで、ルディーラの贄にする訳にはいかねぇからな」
マディスが口にしたのは二重遭難の可能性。
ただでさえ、嵐によって巻き上げられた砂塵で光陽の光が減退し、視界が落ちている状況なのだ。夜を照らし出す星光は一切届かなくなるし、装備する光源もまた効力が著しく落ちてしまい、常以上に闇が深くなる。
しかも、人類の天敵たる甲殻蟲と遭遇する可能性は嵐の中であっても残っており、通らぬ視界の中、甲殻蟲に気付けぬまま接近してしまい、ばったり出くわして修羅場になるということも起きうるのだ。
クロウが複雑な表情で先達の言葉に頷くと、当の男もまた言いにくそうな顔で付け加えた。
「ついでにいやぁな、身を削る暑さと強風、それに暗中の恐怖で遭難した馬鹿もんの心身がもたん。前もって準備でもしていたなら話は別だがぁ、話を聞く限り、突発的な行動で軽装のようだしな」
現実を見据えた発言を受け、場に重苦しい空気が漂う。ミソラも状況の厳しさと不始末に巻き込まれた事に苦味を感じながら、話を先に進めるべく口を開いた。
「マディス、捜索のやり方はどうするの?」
「今、考えてるのはぁ、市軍の陣地近くに基点を作って、捜索者を支援する方法だ」
「ふむ。さっき言ってた命綱の保持や延長を、その基点でするって所かしら?」
「ああ、ルベルザードの連中が物を持ってきたら、この回収車で運ばせるつもりだっと、室長よぅ、いまさらだがぁ、こいつを使っても構わねぇよな?」
「ええ、別に構わないわ。で、捜索を開始するとして、マディスはどうするの?」
マディスは無精ひげを無意識の内に撫でながら答える。
「市軍の連中が陣地に展開するまではぁ、基点に陣取って周辺の警戒と回収車の護衛をする。それ以降は、俺も捜索に参加した方がいいわなぁ」
「ん、了解。なら、まずはクロウ一人でってことね」
「そうなる。……エンフリード、それで構わねぇか?」
「ええ、いいです」
まずもって頼られたのが自分である以上、真っ先に自分が動くのが筋だろうと、眉間に皺を寄せたクロウが生真面目に答える。すると、黙って話を聞いていたシャノンが口を挟んだ。
「ですが、クロウ君一人で探すには、あまりにも範囲が広すぎて厳しいように思います。もう少し範囲を絞れるように、さっきの人に、もっと当時の状況を聞いた方が良いんじゃないでしょうか?」
「だなぁ。ある程度、方向だけでも絞れりゃぁ、発見できる可能性が高まるのは間違いねぇな」
マディスの肯定に同調するようにクロウが頷く。それを待っていたかのように、出入口が数回叩かれた。直にクロウが動いて扉を開くと、防塵装備を付けたゴンザと別の人影が一つ、足早に入り込んできた。
新たに増えた人影は女性。ルベルザード土建の社長であり、ルベルザード家の家長でもあるナタリアであった。彼女は取る物も取りあえず、最低限の装備だけで駆けてきたようで、身に纏う白い衣や艶やかな黒髪は赤黒い砂塵に塗れていた。
だが、ナタリアはそういった砂塵を払うこともなく、防塵装備だけを外すと、この場に立つ二人の機兵をしっかりと見据え、頭を下げながら口を開いた。
「エンフリード殿、それに、マディス殿。本当に、この度はうちの者がとんだ迷惑を……」
「ふん、今は急ぎの時だぁ、謝罪なんぞは後で構わねぇ。それよりも、俺が言った物は準備できたのか?」
「はっ、鎖と連結器に加えて、投光器を幾つか手配しました! 直に届きます!」
ゴンザが吠えるように答えると、マディスは軽く頷き、傍らの回収車を顎で指し示して応じる。
「ならぁ、こいつを貸すからよぅ、おめぇさんとぉ、後他に数人は、物が届き次第、こいつに移して、俺達に着いてきな。後、ルベルザードの」
「はい」
「あんたはここで待機だ。その格好じゃぁ、流石に身体がもたねぇだろうからな」
マディスはナタリアに対して固い表情を崩さぬまま言うと、準備をしてくるとだけ言い残して、クロウの家を後にした。それを受けて、クロウもまた表情を動かさぬまま搭乗前の点検を始める。この間、誰も話す者は無く、ただ少年が一連の手順を踏んで点検する小さな声だけが響いた。
マディスが自分の機体をクロウの家に持ち込んだ頃、ルベルザード土建より物や人が到着し始めた。すぐさま、マディスの指示の下、駐機する二機のパンタルに命綱や投光器の取り付けが始まる。
「おぅ、そこだ、左腰にある取っ掛かりだ! そこに連結器を引っ掛けろ! エンフリード、おめぇさんも、取り付けた場所と取り外し方を覚えておけ! たとえ一本でも、かなり動きが制限されるからなっ!」
「了解です」
「マディス殿っ、灯光器はどこに!」
「頭頂部に取り付け用の器具があるっ! 規格は合うはずだっ、そこに取り付けろっ! 後、機体側との接続は俺がやるからぁ、終わったら呼べっ!」
「はっ!」
男達が荷の移し替えや装備品の取り付け作業に励む傍ら、女達は自然と寄り集まって慌ただしい準備をじっと見守る。その中には、学園から帰宅した所、一連の事情を聞かされて、物を運ぶ男達に続く形で駆けてきたリィナの姿もあった。
砂塵塗れの外套を纏った少女は不安を隠しきれない様子であるが、急いで準備を進めているクロウ達に声を掛ける訳にもいかず、ただ小さな声で傍らに立つ母親に訊ねる。
「母さん。……兄さん、大丈夫、だよね?」
だが、ナタリアは娘の疑問に答えず、黙然と作業を見守るだけだ。応じないという答えに、少女の表情に浮かぶ不安の色が強まり、中に混ぜ込まれた恐れもまた色濃さを増していく。そんな二人の様子を横目で見ていた小人は頬を一掻きして、独り言のように呟く。
「不安なら懸命に祈りなさいな。ただ、大切な人が無事であることを一心に願いなさい」
小人の発した言葉自体は人が気休めとして使う言葉と同じであるが、その響きにはどこか無視できないものがあった。思わず、リィナがシャノンの肩に立つ小人を見やると、当の小人は光の羽根を背に広げて浮かび上がろうとしていた。
「古来より綿々と、苦難に直面した人々がしてきたように、ね」
そう言い残すと、ミソラは自機への搭乗を始めたクロウの下へと飛び去って行った。
去りゆく小人の言葉を聞いていたシャノンは、魔法を学び始めた時に一番最初に教えられた事を思い出す。それは魔法というモノが成立していなかった以前の、人が魔法という体系を見い出す前の話。
ただ、そこに願いと祈りがあり、それをもって根源の力を動かしていたという話だ。
シャノンが再び視線を傍らに転じれば、リィナは己の足元に跪き、両手で身体を抱きしめて瞑目していた。魔術士ならぬ者から見れば、健気に肉親の無事を祈る姿か、あるいは、自らの不安を癒す為の自己満足にしか見えないだろう。だが、魔術士であるシャノンの目には、ほんの僅かながらも淡い魔力光がリィナの身体にまとわりつくのをが見えた。
それは微々たる量に過ぎないが、確かに魔力を、根源の力を動かしていた。
シャノンは魔法の始原とも言える光景を、先達から伝え教えられただけで実際に見た事が無かった光景を目の当たりにして、ちょっとした感動を覚える。
それと同時に、魔術士でもない少女が魔力を動かせるのであれば、魔術士である自分にも同じことができるはずだとも考えて、これから危地に赴く少年が無事に帰って来れる事を祈るべく、静かに瞑目した。
完璧とまではいかないものの準備を整えたクロウ達は、居残るナタリアやシャノン達に見送られて、捜索の基点とする防御陣地脇へ向かって移動を開始する。
部屋の外、ゼル・ルディーラに包まれた市街は濃厚な砂塵に覆われていた。
天高く輝いているはずの光陽の光は届かず、昼であるのが嘘のように薄暗い。所々に設けられている街灯の、深い闇夜に抗する魔導灯の青白い輝きもほとんど役に立たず、視認できる距離は三リュートを満たない。
クロウ達のパンタルも頭頂部に備えた灯光器の光で、ようやく六リュート先位までがぼんやりと見える程度である。この状態を更に厳しくするように、風に乗って吹き付ける砂塵が展視窓を汚していることもあって、常以上に視野を悪くしていた。
けれども、視覚以上に問題なのが、聴覚である。吹き抜ける風切り音に加え、常時発生している砂塵の細やかな衝突音や擦過音が他の音を飲み込んでしまい、助けを呼ぶ声や甲殻蟲の接近音を聞き逃したりする可能性が高まる為だ。
クロウの機体内は彼の肩口に立つミソラは、一時も途切れない障害音に表情を曇らせた。
「むぅ、この音がずっと続く事を考えると、あまり耳は期待できそうにないわねぇ」
「ああ、耳を頼りに出来ないとなると、遺構に潜るよりも条件が酷いからな」
クロウは先頭のマディスを追う形で慎重に歩を進めつつ、予め身に着けた防塵用のゴーグルとマスクの内側で険しい表情を浮かべる。ミソラは少年の固い声音から彼が緊張している事を悟ると、あえて軽口を吐いて見せた。
「まー、でも、何かと頼りになる私が一緒にいるだけでも、かなりマシな状況でしょう?」
「そう言われてみれば、確かに話し相手がいるだけでも、ちょっとはマシになるなかな?」
クロウが話に乗ってきたと見ると、ミソラは不敵な笑みを浮かべて続ける。
「あら、聞き間違いかしら、ちょっと、なんてえらく過小な表現が聞こえた気がしたわね」
「かなり、なんて表現は、俺が納得するまで働いてもらってからでないと使えないさ」
「まぁ、いざとなった時には安心安定の実績を持つおねーさんに対して、えらく生意気な口を聞くのね」
「あっと、申し訳ない。確かに食い意地の悪さに関しては安心安定の実績を誇ってるよな」
減らず口の応酬を続ける内に、クロウの表情は僅かに和らぐ。それと同時に、前を歩くマディス機の姿から自分一人だけで危地に向かう訳ではない事を実感して、彼の心胆に広がっていた冷たい心細さがゆっくりと溶けていく。
その力が抜ける感覚を認識して、改めて自身の状態を把握したクロウは、ほんと頼りになるおねーさんだこと、という言葉を胸中で呟くと、当初から抱いていた疑問を小さな声で口に出した。
「……にしても、誰が、どうして、こんなゼル・ルディーラが来ている状況で外になんて出るんだろうな」
「さて、どうしてっていうのは、本人に聞かない事にはわからないわ。でも、誰がっていう疑問には答えられるわよ」
「誰なんだ?」
「あの女の偉いさんの息子で、後から来た女の子のお兄さん」
「はっ?」
ミソラの答えを聞き、クロウの脳裏に固い雰囲気を纏う一人の青年の姿が浮かび上がる。この思いもよらぬ答えに、再度確認する言葉がクロウの口より飛び出す。
「ミソラ、それは本当なのか?」
「ええ、例の二人の話からの推測だけど、十中八九、合ってると思うわ」
クロウの顔に困惑の色が広がる。件の青年は、生まれ、育ち、立場、将来と、クロウと比較にならない程に恵まれている人物だ。その人物が何故に、という新たな疑問が少年の内で生まれてくるのは自然な流れといえよう。
少年が新たな疑問を発しようとした所、前方のマディス機の歩みが緩くなる。この動きに応じて、クロウも行き足を遅くすると、すぐ近くは五リュート程先の場所に目的地である灯台を備えた市壁がある事を認めた。
覚悟していたとはいえ、酷い視界の悪さにクロウの頬が引き攣った。
マディスは捜索の基点となるエフタ市軍の防御陣地の近くに足を進めると、両手で持っていた大鉄棍を大地に突きたてる。それから、出入口周辺に素早く光と目を向け、異常がないことを確認し、ついでに陣地の様子も探る。市軍の陣地には周辺を警戒する軽装備の歩哨が申し訳程度にいるだけで、まだ機兵隊は展開していなかった。
「ふんっ、市軍の連中もさすがに即時展開って訳にゃあ、いかんか」
マディスが悪態に満たない響きで呟いていると、クロウ機が近づいてきて機体同士を接触させた。
「マ……スさん、いつ……行けます」
クロウの機体から伝わってきた響きを伝声装置が拾い上げ、くぐもった少年の音声を途切れ途切れに伝えてくる。伝えられた内容から少年の士気が落ちていない事を確認し、男は微かに頬を緩めるも声に出したのは注意であった。
「ああ、わかっとる。だがぁ、慌てた様子を見せるんじゃあねぇぞ。この場にいる連中は、皆、俺達を見ていることを忘れるな」
クロウは内に篭った先達の言葉を耳にして、動きを止める。それから、確認するように展視窓越しに周囲を見渡す。砂塵の中、微かに見えた歩哨は確かにクロウ達のパンタルを意識するように頭や身体を動かしていた。
この動きに対応するかのように、伝声管からの声が更に続く。
「俺……慌てると、連中も何……と焦っちまう。だから、できる限り、落ち着い……け」
「わかりました」
クロウが己の機兵という立場を再認識して大きく深呼吸する。ミソラも外の様子を見ながら口を開く。
「魔導機や機兵は人類が天敵に抗う象徴であり、人の精神的な支柱である。よって、その影響力は大きいから人目に注意しろってことか。正直、誇張が入ってると思ってたけど、本当なのね」
クロウよりも目が良いミソラは、歩哨が魔導機を見た時に、ゴーグルの下は、その両目に安堵の色を浮かべるのをしっかりと見ていたのだ。
この事実を認めて、彼女は機兵という存在に、期待や希望という名の負荷がかかり過ぎるのは不味いだろうなという漠然とした懸念を抱き……、ふと気付いた。
以前、マディスが機兵を助ける砲台を作りたいと言っていたのは、この現状を憂いての事だったのかもしれないと。
市軍の現場責任者らしき影と何らかのやり取りをしているマディス機を見つめ、ミソラは一人勝手に納得した様に頷く。
このように小人がちょっとした思いにふける間にも状況は進む。マディスは市軍と話を付けると、クロウや回収車に乗り込む面々を声が届く範囲に集めて指示を出す。
「エンフリード、市軍の連中はあと三十分もすれば展開できるそうだ」
「三十分、ですか」
クロウは反芻しつつ、短いようでいて長くなりそうだと、天を仰いだ。
「ああ、三十分だ。それまではぁ、お前さん一人だけでの探索となる。……いけるか?」
「いきます」
「はっ、いい返事だ。で、目標についてだがぁ、最後の目撃だとぉ、市壁から大凡で百リュート程離れた場所を、北に向かって歩いていたことが確認されとる。よって、まずは、この場より百リュート程度は西に向かい、それから北に向かって目標を探せ」
「了解です」
クロウは俄かに高まった緊張を胸の内に収め、できる限り平静な声で応じる。
「そんでぇ、ルベルザードの」
「はっ」
「おめぇさん達は、命綱の管理だ。さっき教えたように、鎖の残りが少なくなってきたら新しいもんに連結して延長しろ。後、市軍の連中の協力を得られるかもしれんから、予備は多めに用意しておけ」
「かき集めるよう、指示しておきます」
「ああ、そうしておけ。……よぅし、捜索を開始するぞ」
マディスの声を合図に、それぞれが動き出した。
* * *
クロウは一つ大きく息をすると、吹き荒ぶ砂塵に向かって歩き出す。前もっての指示にあったようにまず向かう先は西。閉ざされた視界の中、投光器の光だけを頼りに、一歩二歩と頭の中で歩数を数えながら、慎重に進んでいく。
単機で進む彼の目に映るのは、光の中に浮かび上がる何重にも重ねられた分厚い帳と、申し訳程度に見える地面の瓦礫や石礫。
彼の耳が拾うのは、砂を巻き上げて運ぶ風音に砂塵同士が擦れ合う擦過音、砂粒が機体に当たって弾ける音、動く機体が奏でる動作音、時折聞こえる鉄鎖の金属音、そして、自らの呼吸と常よりも少しずつ早くなっていく心音。
悪環境により周囲への警戒もままならない状況下、少年の緊張は自然と高まっていき、我知らず生唾を飲み込む。既に目視では自らの機位もわからなくなっており、クロウは備え付けの方位計に注意を向けながら、西を目指す。
黙々と機体を操るクロウの邪魔をしないように、静かに沈黙に付き合っていたミソラであったが、唐突に口を開いた。
「ねぇ、クロウ」
「……なんだ?」
「さっきの話の続きっていうか、何か言いたいことでもあった?」
少年は小人へと僅かに注意を割いて答える。
「さっきってのは、遭難した人のことか?」
「ええ」
クロウは歩いた歩数から目標としていた大凡の位置に辿り着いたと判断し、足を止める。そして、機体の方向を北へと変えながら、胸の内にまだ居残っていた疑問を口に出した。
「俺、遭難した人の事、見知ってるんだけどさ。社会での立場があって、将来も有望な人なのに、どうして、こんな馬鹿な事をしたんだろうって思ったんだよ」
「あー、それは当人に聞くのが一番手っ取り早いと思うわ」
「はは、そりゃそうだ」
身も蓋もない答えにクロウが軽く笑って応じると、ミソラもまた肩を竦めながら改めた調子で話し出す。
「まぁでも、私なりに推測すると、こういう突発的な行動をするとなると、多分、何かに悩みでも抱えていたんじゃない?」
「悩み、かぁ。……ああいう人でもあるのか」
「そりゃ当然あるわよ。悩みってのは個々人それぞれによるし、その内容も千差万別よ。ついでに言っとけば、悩みの深さっていうか、深刻さや重大性っていうのは、当人だけが決めるものだから、たとえ、あんたや私、いえ、大多数の人から見たら、その悩みがどれほど馬鹿らしいものであったとしても、当人にとっては至極大問題ってのもあり得るでしょうね」
クロウは甘い声音に頷きつつ機体の向きを調整し、周囲へ光を向けて注意深く目を配る。それから、大鉄棍を前方へと付き出すように両手で持って再び歩き出す。歩を刻む音がゆっくりと規則正しく連なり始める。その拍子に合わせるように、ミソラは言葉を続けた。
「まぁでも、だからって、他人に、迷惑を、かけていい、理由にも、ならない、けどね」
「確かにな。……本音を言えば、何故、こんなことをしないといけないんだろうって思うよ」
「あら? クロウ、自分で言ってたじゃない。人を守るは機兵の役目だって。なら、今してる事は当然のことなんじゃないの?」
どこか面白がる風にミソラが言うと、クロウは微かに眉根を顰めて応じる。
「それが社会から求められている機兵の役目っていうか、ちょっとした特権を認められている代償っていうか、果たすべき義務だしな。まったく知らない状況ならともかく、知らされた以上は知らん顔はできない」
「ふふ、あんたも真面目ねぇ」
「いや、教習所でこわい教官に機兵としての心得を叩き込まれた結果さ」
続けて、真面目ならこんな生き方をしていないと嘯くと、クロウは口を閉ざし、砂塵舞う外界へと一層の注意を向け始めた。
それから、人の大きさ程の盛り上がりや大きな瓦礫の影を探しながら、黙々と歩き続ける事、十数分。
依然として、遭難者を発見するに至らない。このことに加え、機内の温度が上昇し続けている事や視聴覚不良という悪環境下での行動による心身の消耗もあって、クロウの表情は険しい。
今も十度目となる給水を終えると、彼は額より流れ落ちる汗をそのままに小さく呻く。
「厳しい」
「そうね」
ミソラは言葉少なに応じると、展視窓越しにじっと外を見やる。いや、正確に言えば、何かを探すように視線を走らせる。そして、ある一点で目を止めて、静かに語を紡ぐ。
「クロウ」
「……どうかしたか?」
「今から私の言う通りにしてくれる?」
悪条件の中を手探りで捜索する状況に、内々の焦燥感が大きくなる一方ということもあって、少年は即座に肯んじかける。が、ぐっと我慢して一つ言葉を挟む。
「それは、内容による」
「うん、それで結構よ」
いきなり丸のみするよりも健全な反応だと、ミソラは心中で頷きながら続ける。
「今いるここから、うーん、北西、みたいね。そっちに向かってくれない?」
「何か見えたのか?」
「ええ、どうやら届いたみたい」
ミソラが言った言葉の意味が理解できず、クロウは訝しげに首を捻り、確認するように繰り返す。
「届いた?」
「うん、家族の情か、絆って言ったらいいかしらね。とにかく、当てができたわ」
そう宣したミソラの目には、魔力で構成された白く輝く一本の細い糸が砂塵の中を貫いているのが見えていた。
クロウは半信半疑のまま、ミソラが指し示す方向へ向かって慎重に機体を進ませていく。小人が導く先、連綿と続く砂塵でできた暗幕の奥には、折り重なるように積み上がった大きな瓦礫の山があった。
「この瓦礫の裏側よ。たぶん、隙間でもあるんじゃない?」
少年はミソラに言われるままに一際大きな瓦礫の裏側へと回り、周辺を探るように灯光器の光を振り向ける。そこには、三リュート程の高さの瓦礫が互いに支え合う形となって鎮座し、人が立って入れそうな隙間があった。
注意を引かれたクロウがその隙間に近づき、内部を覗き込む。ぼんやりとした光の中、全身が砂塵塗れになった人影が浮かび上がった。
物の見事に遭難者を発見したことになるのだが、あまりにも唐突に、しかもあっさりと見つかった事が俄かには信じられず、クロウは何度か瞬きを繰り返す。そうしてから、ようやく自身の目に映る光景が事実であることを認識して、遭難者を案ずるよりも先に、詰めていた息と共に静かな驚きが彼の口から漏れ出る。
「本当にいたよ」
「ふふん、遥か大昔に使われてた失せモノ探しの方法って奴よ。って、そんなことよりも早く生きてるかどうか、確認した方がいいんじゃないの?」
「あ……、そ、そうだった」
「ちょっと、大丈夫なの?」
「いや、拍子抜けしたっていうか、気が抜けた」
「こら、しっかりなさいっ、男の子っ!」
クロウはミソラの叱咤を受けて、何度か首を振って呆けてしまった頭に喝を入れる。そうやって再び緊張感を取り戻すと、遭難者を風と砂塵から少しでも守るべく、機体を隙間に寄せ、左腕の斥力盾を展開させた。こうして機体と斥力場で隙間に蓋をするような形を作り出すと、遭難者周辺を漂っていた砂塵が若干落ち着き、一部がゆっくりと大地に積もりはじめる。
「ミソラ、俺は外に出るけど、お前はどうする?」
「うーん、さすがに砂塗れになるのは嫌だし……、あ、胸の物入れにでも入るわ」
「重くて破れたりしないだろうな」
「ま、失礼しちゃうわ。こう見えても、わたくし、空を飛べるほどに軽いんです事よ」
「実際に空を飛べる奴が言う言葉じゃないな」
両者は減らず口を叩き合うも、クロウは大鉄棍を大地に突き差すと機外に出る為の作業を始め、ミソラも素早く動いて物入れに収まる。そして、少年は前面装甲を開き、大して信じてもいない神へ祈りの言葉を口にした。
「外に出る間、何事も起きませんように」
「等と少年は呟くが、その願いは儚くも崩れ去るのであった」
機内に入り込んでくる砂塵の中、調子を合わせて聞こえてきた小人の物騒な言葉に、クロウは面覆いの下で口元を引き攣らせる。
「いや、ミソラ、そういう冗句は勘弁しろって」
「うふふふ、これくらいの冗談は受け流せるようにならないと、イイ男には程遠いわよ」
「……おねーさんが言うイイ男ってのは、普通に人間やめてるだろ」
「かもね。ま、とりあえず、私が周辺を警戒してあげるから安心しなさい」
「ああ、頼む」
緊張で心臓が高鳴るを感じながら、クロウは瓦礫の隙間に降り立つ。隙間は奥行き二リュート程で、吹き付ける砂風よりある程度は身を守ることができた。
上手い場所を見つけた物だと感心しつつ、少年は探し人へと目を向ける。ゴーグル越しに見える遭難者はぐったりとした様子で瓦礫にもたれかかっていた。クロウは遭難者が防塵装備をしていることに生存の可能性を感じながら、水筒を手に近づく。それから、声を掛けつつ片膝をつき、頸動脈の脈拍と呼吸音を確かめた。
「おい、聞こえるかっ? 助けに来たぞ!」
「……ぅ、……」
「どう?」
「間に合ったみたいだ。意識が遠いし、脈も少ないけど息はある。水を飲ませれば気が付くかもしれない」
クロウは遭難者のマスクの脇に隙間を慎重に作ると、筒状になった吸い口を差し込む。そして、口唇らしき感触を得ると、中に差し込んでゆっくりと水筒を傾けた。
水分を欲する身体が反応したのか、口内の調整水を嚥下しようと遭難者の喉が上下に動く。それが数秒程続き、唐突に咳き込んだ。クロウはすぐさま吸い口を抜き出し、咳き込む相手の背中をさする。
しばらくの間、咳を繰り返した後、遭難者ジーク・ルベルザードは薄く眼を開けた。
「ぅ、ぉ、れは……」
「感謝なさい。あなたの同僚や家族に乞われて、助けに来てあげたわよ」
クロウが口を開くよりも先に、物入れより少しだけ顔を覗かせた小人がぶっきらぼうに言い放つ。機先を制された少年であったが、小人の語気や言い口を注意することはない。むしろ、少しだけ胸がすく思いを抱きながら続ける。
「ということで、もうしばらく耐えてください」
そう言って水筒をジークの手に持たせ、機体に戻ろうとした時であった。
「んん?」
「どうした、ミソラ」
「おと……、音が聞こえるわ。定期的に、いえ、断続的に、刻まれる音」
その言葉が意味する事を悟り、クロウは確認の声も上げぬまま、大急ぎでパンタルに飛び込む。即急に臨戦態勢を整えようと搭乗を急ぐが、焦りが表面に出てしまい両足の固定に手間取ってしまう。
焦燥と狼狽のただ中に放り込まれた少年を煽るかのように、耳や身体にも、徐々に大きくなる足音と、それに伴う大地の震えが伝わり始めた。
「ああっ、くそっ!」
クロウは罵声を吐き出しながら、両脚の開放部を閉ざす。
その間にも、荒々しい足音が更に近づく。
「近づいてきてるっ! 来るわよっ!」
小人の警告に歯噛みしつつ、両手に操縦籠手を装着する。
地面の振動が一際大きくなってくる。
後方からの接近音に、クロウは前面装甲を閉ざしている余裕はないと判断し、機体を反転させる。
仄暗い砂塵を突き破り、唐突に表れた蟲の顔。
「ッあぐぅっ!」
前後への痛烈な衝撃と後方からの破砕音。少年の口内に鉄臭い味が広がる。
「クロウっ!」
ミソラの悲鳴が聞こえるが、クロウに構う余裕はない。何しろ、彼の目の前は一リュートも満たない距離に、しかも装甲で隔てられることもなく、甲殻蟲ラティアの無機質な赤い眼群や二対の長大な触角、鋭利な牙が並ぶ口腔があるのだから。
甲殻蟲という現実的な死の気配を面前にした圧倒的な恐怖。
昔のクロウならば、この時点で心折れて諦めていたかもしれない。だが、教練を経て魔導機なる武具を得た少年は恐怖に屈して怯懦することは無く、身体に教え込まれた技術とただ生き残る為に剥き出しになった闘争本能に従って、身体を衝き動かした。
機体に齧りつこうと大きく口を開けたラティアの顔先に、斥力盾を叩き付ける。不可視の力場による圧迫で彼我の距離が僅かに開いた。その間に、右腕を動かして腰の手斧を手にしようとする。
「……ッ!」
しかし、それは叶わない。最初の一撃を喰らった際に、分厚い牙に引っ掛かった右腕は肘より先を半ば断ち切られてしまっていたのだ。
肘より先の反応が帰って来ないことに、思わずクロウの口より舌打ちが漏れる。だが、即座に頭を切り替えると、機能しなくなった右の肘先を一息に振り上げ、蟲の牙を目がけて叩き付ける。
骨格を通して伝わる、確かな手応え。
瓦礫に食い込んでいた蟲の左牙は機体の膂力に耐え切れず、甲高い音を立てて折れた。勢いに乗ったクロウは更に続けて赤い目玉へと右腕を振るおうとする。が、件の蟲は耳障りな高音で一鳴きし、俊敏な動きで後ろに下がった。
クロウは滾る身体の求めに応じて口内のぬめりを飲み干し、二リュート程の距離を取った蟲から視線を切らぬまま、左腕の斥力盾を前に差し出す。それから、ミソラに機体の状態を気迫のこもった声で伝えた。
「ミソラ、右腕をやられた! 装備が使えないっ!」
「わかった! 私が潰すわっ!」
少年の声に応じたミソラは物入れより飛び出して、背に羽を展開させ、クロウを守るかのように浮かび上がる。そして、中空に何かの紋様を描くようにうっすらと翠色に輝く手を動かし始めた。
小人の動きに応えるかのように、彼女の前面に小さな黒い球体が現れ、風巻きながら大きくなっていく。五秒も経たぬ内にミソラ程の大きさになった球体は、紫色を帯びた雷電を漏らし出す。
これに危険を感じたのか、蟲は更に一鳴きし、触角を頻繁に動かしながら巨大な頭部をもたげ、何かを吐き出した。だが、その何かは左腕の斥力場に阻まれて、機体の脇の瓦礫へと付着する。付着した何か……黄色い液状物はじゅっと音を上げると瓦礫の表面に泡を立てて染み込んでいく。
ここに至り、クロウは目の前の蟲がただのラティアではなかったことに気付いた。彼の記憶が正面切って向かい合う天敵の情報を、教習所で教えられた情報を浮かび上がらせる。
ソド・ラティア。
外観はラティアと同じだが、より大きい身体を持つ上位種。一般種と異なり、口腔近くの毒腺より強力な酸を吐き出す為、真正面で対峙するのは危険。長期にわたる生態観測により、巣の防衛や一群を率いる役目を持つと考えられている。
と、ここまで思い出して、クロウは眉間に皺を寄せた。
彼の脳裏に、目の前の蟲が率いる一群いるかもしれないという、なんとも嬉しくない想定が浮かんだのだ。
クロウがついさっき祈りを捧げた神に対して、盛大に恨み節や文句でも言ってやろうかと考えた所で、ミソラが身動ぎし、上げていた両手をソド・ラティアがいる方向へと一気に振り降ろした。
瞬間、一際強烈な紫紺の輝きが黒い球体より奔り出る。
直後、短くも場を圧する破裂音。
クロウは眩すぎる閃光に顔を顰めた。が、その注意はまだ油断なくソド・ラティアへと向けられている。彼が両目を細めて見守る中、全ての眼球を破壊された蟲は眼孔より暗緑色の血を吹き出しながら、胴体より崩れ落ちた。
大地に沈んだソド・ラティアはピクリとも動かないが、それでも十数秒待ち、少しの動きも見られない事を確認して、ようやくクロウは安堵の息を吐き出す。途端、マスク越しに入り込む生体が焼け焦げる臭いと鼻を突く刺激を感じ取り、眉間に刻まれていた皺が少し深くなった。
漂う臭気を不快に思いながらも、クロウは当面の脅威を取り除いた事に微かに緊張を緩め、やや砕けた声でミソラに話し掛けた。
「助かったよ、ミソラ。今回は、本当に助かった」
この声に振り返った小人は軽やかに笑って一つ頷いて見せると、胸の物入れへと戻って来て中へと飛び込む。
「ぷはっ、よゆーよゆー、でも、ほんと酷い環境ね」
「ああ、酷いもんだ」
「うん。だから、私も詠唱で口の中に砂が入るのは嫌だったし、久し振りに刻印式を使ってみたんだけど、まぁ、上手くいって良かったわ」
クロウは後半の物騒な言葉は聞かなかったことにして、つい先程思い至った、状況が悪化するかもしれない可能性を伝えることにした。
「それでミソラ、今潰したそいつなんだが、蟲共の一群を率いる奴だったはずだ。もしか……し、たら……」
「あー、それ以上言わなくてもいいわよ。あんたの言いたいことは、自分の目でよくわかったから」
「そ、そりゃあ、良かった」
「ええ、正直に言うと、今の状況で良かったもなにもないと思うけどね」
ミソラはクロウの言葉に皮肉気に応じる。
彼らの視野には、複数の赤い目やざわざわと蠢く触角が多数映りこんでいた。
クロウ達が新たな脅威を前に更なる闘争に備える一方で、その背後ではジークが朦朧とした意識の中、乾き切った喉と思い通りに動かない身体に苦しめられながらも、必死に立ち上がろうとしていた。砂を掴みながら身体を支え、瓦礫に身体を寄せて、ままならない足に力を込める。
砂嵐の神に呑み込まれ、砂塵風と乾いた熱の歓迎を受けて意識を失い、一度空虚になった彼の心を満ちているのは、生きている喜びでも感謝の念でもなければ、反省でも自嘲でもない。家に帰り、家族の下に戻りたいという強烈な渇望。ただ、それのみである。
そんな青年の耳目に、先程、視聴覚が感じ取った以上の閃光と轟音が襲い掛かり、耐え切れなかった彼は無様にも倒れ込む。だが、それでも尚、顔を上げ、ぼやけた視界に映りこむ魔導機の、背面装甲の大部分を砕かれ、右腕を半ば失いながらも、しっかと屹立している姿を見つめて、再び立ち上がろうとする。
その魔導機が自身を家に返してくれること信じて。
ジークの面前で展開される修羅場は、クロウ達とラティアの一群が睨み合う膠着状態に陥っていた。
ミソラが襲い掛かってきた数匹のラティアを雷の魔術こと雷霆でまとめて撃ち殺した結果、必殺の一撃より逃れた数匹が警戒するように距離を取った為だ。
もっとも、ラティアはただ退いた訳ではなく、クロウ達をこの場に釘付けにする為か、絶え間ない足踏みをしながらも砂塵の中より顔を覗かせて引いてといった行動を繰り返し、同時に周囲の仲間を呼び集めようとしているのか、甲高い鳴き声を引っ切り無しに上げている。
「んもぅっ! あの足踏み、あの鳴き声っ! 忌々しいわね!」
クロウの右肩に乗って襲撃に備えたミソラが憤懣に満ちた声を吐き出す。状況が状況だけに、身体や口の中が砂塵塗れになるのを受け入れたのだ。
「まったくだ。しかし、連中、あの見た目に反して、連携はいいな」
クロウが疲れ切った声で応じる。ゴーグルの下にある彼の目は眼窩に沿って落ち窪み、充血している。元々の悪環境に加え、いつ何時、ラティアが襲ってくるかわからない状況で、前面装甲を閉ざすことができないこともあって、少年の消耗はより一層激しいものになっているのだ。
しかしながら、これも仕方がない措置である。なにしろ、クロウが左手一本で手斧を操ったとしても、ミソラの魔術程の戦果は期待できないし、別れて別行動しようにも時折吹きつける突風でミソラが流されたり、今後の状況次第では互いの位置を見失う可能性がある以上、別行動もできないのだから。
今も砂塵の中に、ラティアの触角が蠢く。それを目に止めて、クロウは咄嗟の動きに構えようとする。だが、疲労した身体の動きは鈍く、機体の動きもまた遅い。幸いにして、触角は直に見えなくなったものの、今の反応は少年に自身の限界が近づいている事を悟らせるに十分であった。
そして、その事は当然の如くミソラにも伝わる。小人は少年と現状を慮り、努めて気楽な声で訊ねた。
「で、クロウ、これからどうすんの?」
「できれば逃げ帰りたい所なんだが……、マディスさん達が来るのを待つ。この状況で背中を向けたら、また不覚を取りそうだし、蟲がいる中を、一人でルベルザードさんを抱えて逃げるなんて、危険すぎてできればしたくない」
「うーん、隙をついたらいけない事もない気がするけどなぁ」
「どうだろう。教習所の教官が言うには、事が起きたら悪い方向に向かってだけは流れやすいらしいからな。できるだけ慎重に動きたいんだよ。現実、機体も損傷してるし」
「おぉ、確かに、今起きていることを考えると、言い得て妙だわ」
今のクロウには笑うに笑えない言葉である。その為、彼は口元に苦笑いを浮かべて応じた。
「そう言われると返しようもないな」
「でしょうね。それで、具体的な案は?」
「後十分位はここで粘る。それで救援が来なかったら、自力で逃げ帰る方向で行こう」
「わかった。元々、私は助っ人だし、あんたの判断に従いましょう」
「助かる」
そう言って一度語を切った後、クロウは視線を周囲へと向けて続ける。
「実際の所、俺がこうして落ち着いていられるのも、頼りになるおねーさんがすぐ傍にいてくれてるお陰だ。もし来てくれてなかったら、今頃、どうなってたことか」
「ふふん、そーでしょうそーでしょう。ま、待つにしろ逃げるにしろ、この私に任せておきなさい。少々流れが悪い方向に流れたとしても、良い方向に引き戻してあげるから」
「ああ、頼りにしてる」
ミソラは少年の言葉を聞いて不敵に笑う。身に纏った白衣や整った顔が返り血を浴びたかのように赤黒い砂塵で汚れている事もあって、これまでにない凄味が滲み出ていた。
そして、十分という短くも長い時間が流れ……、場の状況は悪化していた。
時折、顔を覗かせるだけであったラティアがゆっくりと前進してきて、包囲の輪を形成したのだ。
一陣の強い突風が吹き抜けて砂塵が薄まった際、ほんの一瞬だけ確認できた蟲の数は、大凡で十匹。それらがクロウの隙を窺うように、また、得物を逃さぬように、三重の包囲網を築き上げていた。
己の決断が、甘い状況判断が生み出した結果に、少年の表情は苦い。そんな彼の思いを見透かしているのか、小人がからかいの色が強い声音で話しかけてきた。
「さて、クロウ、現状に対する感想は?」
「あー、悪い方の想定の範囲内だって、言っとくか」
「まぁ、それは大変結構なことね」
クロウとミソラ、両者共に危地であることを忘れたかのような明るい声だ。もっとも、小人のそれが己の能力に裏付けされた余裕から来ているものであるのに対し、少年のそれは開き直りから来たものである。
とにもかくも、ここに至って腹をくくったクロウはミソラに自身の考えを告げた。
「ミソラ、連中に大きなのを一撃ぶっ放してくれ。で、連中が混乱した隙に逃げる」
「りょーかい。できれば、殲滅できたらいいんだけどね」
「そう願いたいな」
と簡単に言葉を交わした所で、第三者の声が聞こえてきた。
「か……えり、……たい。いえ……に、か……ぇりた……い」
それは力なくしわがれた、か細い声。
それがジークの声だと気付いたのは、クロウとミソラ、ほぼ同時であった。しかし、示した反応はそれぞれに異なった。少年はどこか沈鬱さを感じさせる顔になり、小人は表情を厳しい物に変え、きつい声音で言い放った。
「だったら、最初からっ、こんな馬鹿なことをしでかすなっ! あんたを探す為にっ、命を懸けなきゃならないこっちはとんだ迷惑よっ!」
この怒りの声はミソラ自身が抱く本音であり、クロウも胸の内で燻る思いでもあった。けれど、少年は同調することはなく、静かにミソラをたしなめる。
「ミソラ、そういうのは戻ってからにしよう。それよって、今度はなんだッ!」
クロウの言葉を遮るように、俄かに生じた衝撃と焼成材装甲が割れ砕ける音。ついで、跳ね上がったままの前面装甲がきしみを上げる。
「後ろかっ!」
クロウが驚いて見上げると、装甲の中程に食い込んだラティアの牙が見えた。
そう、蟲と人の睨み合いが行われる間に、一匹のラティアが背後へと回り込み、ジークが逃げ込み、クロウ達が背にしていた瓦礫の上によじ登っていたのだ。
思ってもなかった事態にクロウが戸惑っている間にも、蟲の牙に力が加わり、装甲や骨格を切り砕く金切音を上げる。更に、機体が上げる苦しげな悲鳴は更なる動きを招く。
「クロウっ! 前からも来るわよっ!」
「くそっ、前の連中を潰してくぅっ!」
「わきゃっ!」
蟲の力に耐えきれなくなった装甲が上下に別たれ、腹部装甲と共に大小の破片がクロウ達の傍に降り注いだ。結果、二人の注意が散り、致命的な隙が生じる。少年が撒き散らされた破片より意識を戻すまでの僅かな間に、一匹のラティアが躍り掛かってきたのだ。
急速に迫り来る眼。大きく開いた口。閉じていく牙。
「あ……」
遅くなった体感の中、クロウの口から呟きにも似た声が漏れた。
そして、突然の閃光が目を焼く。
直後に爆炎と衝撃がクロウの機体近くはラティアの群の真ん中で生じ、爆風となって周囲の物を薙ぎ倒す。外縁にいたクロウ機にも斥力場で殺し切れぬ衝撃波が押し寄せた。瓦礫の欠片や蟲の断片が衝突し、機体もまた激しく揺さぶられる。
最早、何が何だかわからぬ状態であるが、転倒だけは何としてでも避けようと、固定具にきつく圧迫されながらも必死に機体を制御する。
その間にも二度三度と地響きと共に爆発が重々しく続き、唐突に何も聞こえなくなる。
強制的に生み出された静寂の中、クロウは瓦礫に機体を押し付ける事で何とか安定を取り戻す。気持ちの悪い酩酊に似た感覚と酷い耳鳴りに顔を顰めながら、ミソラを探す。
「お、おぉぅ。ゆ、ゆだんしたわ」
幸いにして、小人は機外に放り出されることもなく、クロウの胸にしがみ付いていた。そのことに安堵した所で、今度は周囲を見渡す。
つい先程までクロウ達を脅かしていた蟲の影はどこにも見当たらず、砂塵の中に硝煙の臭いと蟲が焼ける臭気、それに名残火らしき炎が少々残っているだけであった。
ここまで見て、クロウは今の攻撃が市軍ないしマディスの救援だと気付く。あまりにも乱暴すぎる救援にげっそりとするが、それで助かった以上は文句も言えないなと溜め息をついた。
そうしてから、自身の背後にいたジークを探す。ジークは隙間の前で尻もちをついていた。起き上がろうと動いている事から生きていると判断すると、クロウの肩から力が抜けた。
その途端に、少年の胸の内に、死の恐怖から解放された嬉しさ、生き残れた喜び、人を守れた達成感、乱暴すぎる救援のおかしさといったものが広がっていき、それらと疲れ切った身体が生み出す高揚感から笑いがこみあげてくる。
「おうぃっ! エンフリードぉっ! 生きとるかぁっ! 生きとったら返事せいっ!」
「ほら、馬鹿みたいに笑ってないで、さっさと帰るわよ」
マディスやミソラの声が聞こえてくるまで、クロウは心向くままに声を上げて笑い続けた。
* * *
帰りは行き道と異なり、市軍機兵隊が損傷したクロウ機とジークを担いで運ぶマディス機の周囲を固めたこともあって、非常に速やかに為された。視野が悪い中を互いの位置を把握し、連携を取りながら進む機兵隊の姿は練度の高さを窺わせる。
そんな十機近いパンタルの巧妙な動きを、つい先程まで死地にいたことを忘れたかのように、クロウが感心をもって見つめる間に、エフタ市の港湾出入口に辿り着いた。砂塵や蟲の体液、油圧の油といった物で汚れ、右腕や前面装甲を半ば失い、表層を覆う焼成材装甲の大部分を失った機体に、警戒を行う歩哨達や支援を行っていたルベルザード土建の面々が驚きで目を丸くする。
その中、マディス機が空いた手で魔導機回収車を指し示した。
「エンフリード、この馬鹿は俺が責任を持って届ける。おめぇさんは回収車に乗れ。そのまま整備場に直行だ」
「わかりました」
もとよりクロウに否は無く、言われるままに荷台に乗り込む。そうして所定の位置に収まると、一人の男が顔を覗かせた。この場に残り、回収車の指揮を行っていたゴンザであった。
彼は砂塵や緑血といった物で汚れたクロウを認めると、深く頭を下げ、様々な感情が飽和した震える声で礼を述べた。
「エンフリード殿、感謝を」
「今回、生きている内に見つけることができたのは、ミ……、いえ、運が良かっただけです。そういうことにしてください」
「……はっ」
クロウの声に頷きと共に応じて、ゴンザは砂塵の中に消えていく。
それからしばらくして、回収車が動き始めた。
いつのまにやらクロウの頭上に寝そべっていたミソラが笑み含みの声で話しかけてくる。
「運が良かったんじゃなくて、私が活躍したんだけど?」
「わかってる。ただ、なんていうか、心配のし過ぎかもしれないけど、ミソラの大活躍をそのまま伝えると、好事家や魔導研究者辺りにも伝わりそうな気がしてな」
「ふふ、そう。なら、配慮してくれてありがとうって言っとくわ」
そう笑いながら言ってから、ミソラは話を転じる。
「それにしても、今回は災難だったわね」
「機兵って役目柄、答えかねるって言っとく方がいいんだろうけど、実際、おねーさんがいなかったら帰って来れなかった可能性が高い、もう、ほんと運が良かったとしかいいようがない」
「つまり?」
「二度とごめんだ」
「あはは、そうでしょうね。蟲に囲まれた状況で、巻き込んでくれた当人から、かえりたい、だなんて言われた時なんて、この温厚な私でもさすがに切れたもの」
クロウはミソラが口にした温厚という言葉の意味が間違っているか、用法違いではないかと指摘したかったが、疲れた心身では舌戦に太刀打ちできないと判断して聞き流す。その代わりに嘘偽りのない、己の心情を伝えた。
「俺は、その言葉を聞いた時に、羨ましいって思ったよ」
「そう?」
「ああ、俺の家族は、とっくの昔に、蟲に食い殺されたからな」
「……そっか」
クロウの生い立ち、その一端に触れて、ミソラの返事も少ない。自然と生まれた湿っぽい沈黙。その空気を吹き飛ばそうとするかのように、クロウはわざとらしく溜め息をつき、大げさに天を仰いで嘆く。
「しかし、身体はくたくた、機体もぼろぼろ。俺、明日から仕事なのになぁ」
「あらあら、それは大変ねぇ。……でもさ、悪い気はしてないんでしょ?」
そう指摘したミソラの声はどこまでも柔らかい。クロウは己の思いをミソラに見透かされた事に苦笑し、ただ肩を竦めて応えてみせたのだった。
3 少年は悲喜劇で踊る 了
あとがきめいた作者の感慨
書こう書こうと思いつつ、気が付いたら年が明けていたでござる。
じかんはかってにすぎさるものであることを、みにしみたす。




