後日談5
交代で店頭に立ったミエルさんが、にやにやしながら手を振ってくれる。私はそんな彼女に苦い顔をして手を振ると、店の外のベンチで待っていてくれたジェイドさんに駆け寄った。
日中は暖かくても、日が傾いてくると吹く風に寒さが滲む。退院したばかりの彼には、寒暖の差やちょっと強く吹きつける風が身に沁みることもあるかも知れない。
「お疲れさま」
こちらが声をかけるより早く気づいた彼が、にっこり微笑んで言葉をくれる。
今までに聞いたことのない響きを含んだ言葉に、なんだかじんわり心が温かくなって、私は頬を緩めて頷いた。
「・・・うんっ」
「なんだか、変な感じ・・・。
つばきが、私の目の届かない場所で働いているなんて・・・」
目の前に立った私を見上げて小首を傾げる彼は、それに対してどう思っているとかじゃなく、ただ、違和感に首を捻っているだけのようで。
「私には、私の世界ってものがあるんですよ~」
ふざけ半分に言いながら、思わず肩を揺らしてしまった。彼の戸惑う姿は新鮮で、私がそうさせたんだと思ったら、ちょっとだけ嬉しくて。もしかしたら、普通に会話出来ていることに浮かれているのかも知れない。
くすくす笑う私に、彼は困ったような微笑みを浮かべて立ち上がる。今度は私が彼を見上げる番になって、空いている方の手を差し出した。
出された私の手を見て、彼がきょとん、としたあとに何度も瞬きをする。
「待たせてごめんね。
かえろ、ジェイドさん」
少しの間をおいてから、手を繋ごう、という意味だと受け取ってくれた彼は、息を吐きながら返事をして私の手を取った。
「ええ、帰りましょうか」
肌寒いからなのか、くっついて歩くのはとても心地良かった。
西日を受けて伸びる2つの影を眺めながら、ほぅ、と息をつく。もう吐く息も白くならない。道端に小さな花がちらほら咲いていて、季節が移り変わったことを知らせている。
歩く速さを私に合わせてくれている彼は、視線が合うたびにそっと目を細めてくれる。まだ数日しか働いてないけど、昨日までは行きも帰りも足が重かった。なのに、今は不思議なくらい足取りが軽い。自分でも現金なものだと思うけど、きっと、気持ちがとっても軽いからだ。
・・・大声出して、すっきりしちゃったのかな・・・。
「ね、ジェイドさん?」
名前を呼ぶ相手が目の前にいる、それだけで幸せだ。ちょっと離れただけなのに、身に沁みて学んだことがたくさんある気がする。
何度も視線が合って微笑んでいた彼が、小首を傾げた。
「ん?」
「さっきの話、なんだけど・・・」
言いながらも視線を落とすと、彼が繋いだ手に力を込める。それを感じて仰ぎ見ると、彼が頬を強張らせていた。
「・・・登録したのは、あなたを保護して数日経った頃でしたね・・・」
「うん・・・」
手を握り返して頷くと、彼が息を吐いた。
「本当に、短絡的でいい加減でした。思い付きを、そのまま実行してしまった。
・・・補佐官の妻ということにしてしまえば、守りやすいと思ったんです」
「・・・そっか」
その理屈は、なんとなく私でも推し測ることが出来そうだ。“補佐官殿の逆鱗”だと指差されるのと、大差ないような気がする。
そう考えを巡らせて頷いた私に、彼はそっと首を振った。
「・・・お互いの合意があれば、それは良い案だったのかも知れません。
でもあの時の私には、気持ちや覚悟など欠片もありませんでした。
それどころか、手間が省けてちょうどいいとすら、思ったんです。
あの頃は、煩いくらいに周りから結婚の話がありましたから・・・本当に困ったら、
もう妻が居ますと公言出来るでしょう?
渡り人なら親兄弟もいませんし、私の両親だけに話を通せばそれで済みますから」
気持ちが全くなかった、と言われて気分が良いわけはないけど・・・でもその頃は、私だってごっちゃごちゃだった。不安で怖くて、でもお姉ちゃんのことがあるから、しゃんとしてないとダメだと思って・・・。
「私、ジェイドさんの手、煩わせちゃってたし、」
記憶の中に強く残っているのは、髪を結えなくて呆れられたことだ。何も考えずに部屋の外に出たら、物凄い剣幕でベッドに転がされて凄まれた。あの時は確か、“嫌な記憶が残るように”と言われて、犬の躾みたいだなんて思ったんだった。
・・・そっか。何の感情もないなら、ほんとにペットの躾と大差なかったってことか。
「しょうがない、と思うよ・・・。
あの時の私、そういうふうにしか役に立てなかったと思うし・・・」
思い出して呟いた私に、彼がため息混じりに話を続ける。
「つばき・・・あなたに懺悔するつもりで話をしてるんです。
だから、我慢しないで私に怒りをぶつけてもらえませんか・・・?」
「うーん・・・」
困った顔をする彼に、私まで困ってしまう。
打ち明けられても、自分でも可笑しいくらいに落ち着いている。もう、彼の声を聞いているだけで、彼の目が私を見ているだけで満足なのだ。だから、そこで怒りが湧くなんて無理があるような気がする。
確かに、彼のしたことはお姉ちゃんとシュウさんが怒るくらいのことだと思うけど・・・。
「そんなこと言われても私、ジェイドさんが好きなんだもん・・・」
そう呟いた私は、彼を見上げて口を尖らせる。怒れと言われたって、無理なものは無理だ・・・そんな気持ちを視線に滲ませた私に、彼が何も言わずに苦笑いした。
・・・目じりのしわ、一本増えてないか。
「ほんとに、理由が知りたかっただけなの。
聞いたからって、別に怒ったりしないもん。
・・・ジェイドさんのことはずぅっと、好き。何があっても好き。
それはもう覆りません」
最初の最初、ちょっとだけ頭が沸騰しかけたことは黙っておこう。もう自分で消化した気持ちをぶつけても、前には進めない。
素直に言葉を紡いだら繋いだ手が持ち上げられて、目を細めた彼がそっと、そこにキスをひとつ落としてくれる。
静電気が走ったみたいな感覚に戸惑って視線を彷徨わせると、彼がくつくつ笑う声が聞こえてきて、私は顔を上げた。すると、ふたつ目のキスが降ってくる。
「・・・あ、調子にのってる~?」
戸惑う私の反応を面白がっている彼をジト目で見返すと、彼が嬉しそうに微笑んだ。
・・・そこで嬉しそうにされると、微妙だ。
今後のためにちょっとでも不機嫌を装うか、いっそのこと笑い飛ばしてみるかと迷っていると、彼がふいに真面目なカオをして立ち止まった。
私は開きかけた口を閉じて、その言葉を待つ。
「本当に、申し訳ないことを・・・」
手のひらの、彼の唇が付いていた場所が風に当たって肌寒い。
「ダメなんです・・・。
分かっているのに、ここぞという時に限って素直な言葉が出てこないんですよ。
さっきも、ちゃんと謝りたいのにカップケーキの話なんかしたりして・・・。
自分のしでかしたことに向き合うだけの度胸もないくせに、我慢出来なくて会いに・・・」
大通りから外れた場所で良かった。誰にも見られていなければ、私からだって近づける。
「捻くれてるんですよね、全然可愛くないんです。
本当にすみません。ごめんなさい。
あなたを、気持ちが伴わないまま勝手に妻にしてしまいました・・・」
自虐と謝罪の嵐に、自然と苦笑が浮かぶのを抑えることもなく、私は彼に向かって背伸びをした。くしゃくしゃの顔、金色の前髪が目に入ってしまう前にと、私はその頬にキスをする。ちゅ、とわざと音を立てて。
その音で我に返ったのか、彼が目を見開いて私を凝視した。空色がめいっぱい広がって、私を映し出している。
「もう、いいってば」
苦笑しながら静かに囁くと、彼がまた顔をくしゃくしゃにした。
鏡の中の自分に見とれるなんて、生まれて初めての経験だった。
背後に佇んで、ほぅ、と息をついた彼が囁く。
「・・・やっぱり。似合うと思ってました」
紺色の、つるりとした感触の生地で出来たワンピースの裾を翻した私は、その空色の瞳を見上げて口を開く。
「全然違う人みたいになっちゃった」
なんだか気恥ずかしくなって胸元のリボンに指を絡めていると、その手が彼に捕まって、リボンがしゅるると解けていった。大きく開いた胸元が心許無くて、俯いた顔が上げられない。
「顔を上げて、つばき」
頬に添えられた手から伝わってくる、優しくも抗えない力加減に私は落としていた視線を上げる。照れているから俯いていたのに、目を覗き込まれるようにして見つめられたら逃げ場がない。いや、もともと私を逃がすつもりなんかないんだ、この人は。
大通りから外れた場所で話をしていた私達は、ひと段落したところでお姉ちゃんの家に寄り道して、私の荷物を引き取ってジェイドさんのお屋敷に戻って来た。
お姉ちゃんもシュウさんも「後日、うちに事情聴取に来るように」とだけ言って、私を送り出してくれた。また泊まりに来た時に必要になりそうなものは置いていくように、と言ってくれたのは、とても嬉しかった。
すぐにでも泊まりに来る!・・・と勢い込んだ私の肩を、微笑みを浮かべたジェイドさんが、ぎりぎりと力の篭る手で抱き寄せたから、次の約束はして来なかったけど・・・。
ともかく私は久しぶりにお屋敷に“帰って”来た気分で門をくぐり、偶然玄関で顔を合わせた栗鼠さんや熊さんに挨拶をしつつ、ジェイドさんの部屋に半ば連れ込まれるようにして辿り着いた。そこで彼は私に荷物を広げる間も与えずに、問題の紺色のワンピースを取り出してきたのだ。
「可愛いんですから、自信を持って。
俯いてしまっては、私があなたの顔を見られないでしょう?」
完全に自分本位で恥ずかしい台詞を吐く彼は、もはや自虐と謝罪にまみれて顔をくしゃくしゃにしていた面影がなくなっている。いっそのこと、ひと晩くらい冷ややかにしておいた方が私の精神的なリハビリには良かったんじゃないかろうか。
頭の中で言葉を並べていたら、彼の手がリボンを結んでくれる。そして両手をそっと私の肩に置いて、私を鏡と向かい合わせるように促した。
くるりと視界が回転して、鏡の中の自分と目が合う。
紺色のワンピースは少し丈が短くて、膝が少し出ているけどいいんだろうか。こっちに来てから、露出の露の字もないような服ばかりを着ていたから、なんだか心許無くて仕方ない。胸元だって開いてるし、なんだか、なんだか・・・。
「これ、ジェイドさんの好み?」
悔し紛れに疑問をぶつけると、鏡の中の彼がにっこり笑った。その目が若干、肉食獣めいているように思えるのはどうしてだ。
「ええ、もちろん。
もう雛鳥は卒業したんですから、これくらい構わないでしょう?」
言いながら熱の篭った指先で後れ毛をなぞられて、変な声が出そうになってしまった私は、思わず首を竦めてしまう。どれもこれも久しぶりで、過剰反応になってしまうのは仕方ない。
諦めに似た気持ちでため息を吐いて、私は口を開いた。
「いいけどね、いいんだけど。ジェイドさんの好みは大事にしたいんだけど。
・・・今日はちょっと、隠さない?」
お願い、と振り返った視線に思いを込めるけど、それは残念ながら彼には伝わらなかったんだろう。彼は小さく笑って私の頭をぽふぽふすると、おもむろに紙袋の中に手を入れた。
その中から包装されたワンピースが出てきたのを覚えていた私は、何を買ってきたんだろうかと小首を傾げる。その目の前で、彼は取り出した小さな箱を開けた。
ビロードの布で覆われた箱の中に、ちょこん、と鎮座していたのは、空色が綺麗に輝くペンダントだった。
いろいろ聞きたいことがあるのに、上手く言葉に出来ないまま固まった私に、彼が苦笑する。そして、金の鎖を私の首の後ろで留めて、後れ毛を整えてくれた。
「これがあるので、隠すことは出来ないんですよね」
諦めて下さい、と耳元で囁かれた私は条件反射でこくん、と頷いた。
鏡の中の彼の瞳とペンダントの宝石が同じような色を放っているのに気づいた私は、もっとよく見ようと、鏡に近づいてペンダントを覗き込んだ。
カットを施された透き通る水色の宝石が、照明の光を受けて輝いている。石の名前は見当もつかないけど、きっと安物じゃない。
「それは、少し前に注文しておいたものなんです」
「少し前・・・?」
背後からかけられた声に、鏡越しに問い返すと、彼は頷いて教えてくれた。
「ええ・・・ホルンから戻った頃に、街の宝石商で。
あの時、あなたにいろいろ打ち明け話をしたでしょう?
だから、これをプレゼントして、戸籍のこと、謝ろうと思ってはいたんです・・・」
いろいろ起きて出来ませんでしたけど、と鏡の中で呟いた彼が俯いたのを見て、咄嗟に駆け寄る。そして、思い切り抱きついた。半ばぶつかるような衝撃があったけど、お互い一応怪我人だけど、もしかしたらジェイドさんが痛かったかも知れないけど・・・そんなことはお構いなしだ。
正面から思い切り抱きしめるなんて、どれくらいぶりなんだろう。久しぶりに嗅いだ彼の匂いが嬉しくて、一瞬言おうと思っていたことを忘れてしまった。
すると、何かから立ち直ったらしい彼が口を開く気配がして、私は顔を上げる。
「星の石の指輪だと、まだ荷が重いかなと思ってそれにしたんですけど・・・」
「荷が重い・・・?」
「ええ・・・あなたには、まだ重いかと思って。
・・・ともかく、気に入ってもらえたなら、」
「気に入りました!すごく、とっても!」
くい気味に言葉をぶつけた私に、彼が苦笑して頷いた。
「・・・ありがとうジェイドさん、ほんとに、ありがと・・・」
体を離して、ペンダントを眺める。金色の鎖も水色の石も、とっても綺麗だ。見ていると不思議と落ち着くのはどうしてだろう、と考えた私は、すぐに思い至って腑に落ちた。
・・・これ、ジェイドさんの髪と目の色だったんだ・・・。
「あれ、なんか私、マーキングされてる・・・?」
ぽつりと零した呟きに、彼が困ったような微笑みを浮かべて囁いた。
「・・・ばれてしまいましたか」
寝る時とシャワーを浴びる時以外は、肌身離さず付けておいて下さいね・・・なんて付け足した彼に、私は苦笑しながら頷いた。
ドアの前で足を止めて、赤い花の髪留めの位置をもう一度整えたジェイドさんが頷いた。緊張を隠しきれないままその顔を仰ぎ見た私と同じように、いつもよりも上等な服に身を包んでいる彼は、何も言わずにそっと微笑んでくれる。
よくよく考えたら、髪を結ってくれたのは彼だ。髪留めもワンピースも、ペンダントも靴も全部彼が用意してくれたものばかりだ。彼で塗り固められた自分に気がついて、私はなんとか頬を緩めた。
「さ、行きましょう」
ぽふぽふ、と私の頭で手を弾ませた彼がドアノブに手をかける。私は自分の鼓動が跳ねた気がして、そっと胸に手を当てた。
・・・こんなんで、食事が出来るとは思えない。
そんなことを漠然と考えた私は、せめておかしなことを仕出かさないようにと、気を引き締めてドアが開くのを見つめていた。
やって来たのは食堂で、いつだったかもシュウさんと教授と4人で、話をしながら食事をとった場所だ。ルルゼと団長も加わって、6人でということもあった。
ちなみに、団長のお屋敷の準備が整うまでこのお屋敷に滞在することになっているルルゼは、今夜は団長が迎えに来て、王宮で陛下たちと食事をすることになっているんだそうだ。どうだったか、明日になったら絶対に聞こうと思ってるけど・・・。
ともかく、私が緊張して食堂にやって来たのには理由があるのだ。
「リジーはやっぱり可愛いなぁ」
「やだもう、またそんなこと言って・・・」
「赤くなった君も、食べちゃいたいくらい可愛らしいよ~」
「ディアード、ここじゃダメよぉ」
・・・なんだこれ。
心の中で呆然と呟いた私は、目の前でいちゃいちゃしている2人を凝視していた。隣の彼を一瞥すると、沈痛な面持ちでため息を吐いている。そのため息に含まれているものも気になるけど、そんなことよりも目の前で繰り広げられている光景の衝撃が大きすぎて・・・。
教授が椅子に腰掛けたまま、女性を膝に乗せているのだ。
・・・いや、もともと教授の家なんだから、どこで何をしても文句を言うつもりはない。ないけど・・・ここは食堂だ。しかも、私とジェイドさんは呼ばれてここにやって来たわけで。
・・・ドアが開く時に、何も音がしないのがいけないんじゃないか。だからお互いのことしか見えてないと気づかないのだ、見られているということに。
「・・・よし」
隣の彼が、唐突に硬い声を発して頷いた。
私はその声に思わず彼を仰ぎ見る。すると彼は私の肩を掴んで、ぐるっと体を捻らせた。
「なかったことにしましょう」
「ちょっ、お待ちなさい!」
勢いよくいちゃつく2人に背を向けた私達に、女性の声がかかる。
「・・・こっち、いらっしゃいな」
「なら、」
彼が振り向きざまに、言葉を放つ。
「2人で1つの椅子には座らないように。
言いましたよね、前回。
・・・次壊したら、もうあなた達の座る椅子は用意しませんからそのつもりで」
「・・・前回?」
思わず尋ねた私に、彼が渋い顔をして頷いた。
「前科があるんです。もう何脚も壊されてるんですよ。
彼らには、椅子は向かないんでしょうね・・・」
・・・沈痛な面持ちと、あのため息には、いろいろと複雑な感情が含まれていたわけだ。
ジェイドさんは、きっと生まれついての苦労性なんだと思う。・・・なら、私は苦労させないように気をつけなくちゃ。
緊張感に尻込みしていた自分を叱咤して、私は目の前の2人を見据える。すると、教授が蜂蜜色の髪をした女性の頬にキスを落として、そっと隣の椅子へ移るように促した。女性はほんのり頬を染めながら、1人で椅子に座って咳払いをする。
「前科だなんて、酷いじゃないの。ほんとにもう、親に向かって・・・。
可愛くない子だわ」
「・・・他に言うことないんですか」
つん、とそっぽを向いて呟いた彼女に、ジェイドさんが肩を落とす。たぶん、この台詞も何度も聞いてきたんだろうな。
「リアちゃん、」
女性に呼ばれた私は、考えを巡らせながら彼に向けていた視線を剥がした。そして、ゆっくりと蜂蜜色の髪をした彼女へと目を向ける。
「・・・はい」
1人で椅子に腰掛けて、テーブルの上で手を組んでいる彼女は、教授といちゃいちゃしている時とは全く別の顔をしていた。真剣な表情に、しっかりしなくちゃと決めた心があっさり降参しそうになる。
かろうじてまともな返事が出来たのは、きっとジェイドさんの体温を背中に感じているからだ。
「いろいろ、ごめんなさいね」
「え、っと・・・」
言いよどんだ私に、彼女は苦笑いして小首を傾げた。よくよく見れば、その仕草や表情はジェイドさんにそっくりなのだ。疑いもしなかったことが不思議なくらい、よく似ている。
「私、勘違いしていて。
・・・つい、突撃してしまったわ」
「私が店に居合わせて良かったですね」
皮肉っぽく言葉を吐いたジェイドさんのことは、とりあえず無視してみることにして、私は首を振った。彼女が何者なのかを知ってしまったら、自分の取った態度のあれこれに頭を抱えたくなる。
「いえ、あの、私もあんな大声出しちゃって・・・」
「・・・私が、ジェイドの母親だと名乗れば良かったのよね」
その言葉に、ジェイドさんがため息混じりに口を開く。
「ちゃんと紹介しましょう。
・・・つばき、座って」
そう言った彼の手に促されて、私は彼らと向かい合って椅子に腰掛けたのだった。
「じゃあ、紹介するね~」
その場のなりゆきを見守っていた教授が、隣に座っている彼女に目を向けて微笑んだ。
「僕の奥さんの、リディルです」
蜂蜜色の髪をした彼女が、私に向かって微笑みを浮かべている。ミエルさんの焼き菓子店に連日やって来ていた彼女は、教授の奥さん・・・つまり、ジェイドさんの母親だったというわけだ。
店では会話に精一杯だったから、彼女がジェイドさんの母親だなんて微塵も疑わなかったけど、よくよく見たら、なんとなく似てる所がある。小首を傾げた時の雰囲気や、困ったように微笑む時の目の雰囲気。他にも時間をかけて探したら、いろいろ見つかりそうだ。
「リアです」
改めて名乗って会釈した横から、ジェイドさんが息を漏らすのが聞こえた私は、そっとその表情を窺おうと振り返る。目が合った彼は、綺麗な笑顔を浮かべて言った。
「私の妻ですよ」
「・・・ジェイドさんっ」
あっさり言うから、一瞬言葉の意味が分からなかった。慌ててその腕を掴んだ私に、全く悪びれもせずに「だって本当のことです」と肩を竦める彼。
「でもそれ、戸籍上は、ってことでしょ?」
教授がため息と一緒に言葉を吐き出す。
そのひと言に、私はなんとなく胃に重りがぶら下がったような気分になって、両手を膝の上で握り締めた。
・・・私がしたことではないけど、勝手に妻の欄に居座っていたことを、よく思ってはいないのかも知れない。温厚な教授でもジェイドさんの父親なんだから、思うところはあるだろう。親なんだから、それは当然のことだと思うけど・・・。
教授の表情を見ていられなくて視線を落としていると、膝の上にジェイドさんの手が伸びてきた。握り締めた手を親指の腹で擦っている。
「僕はさ、息子の君も可愛いんだけど。
リアちゃんのことも大事なんだよね。洞窟にも一緒に行ったし、さ。
・・・なし崩しって、良くないと思うなぁ・・・」
ぽつりぽつりと教授が言葉を零す。私はそのひと言を聞いて、咄嗟に口を挟んでいた。
「ジェイドさんがどうしてそうしたのかは、ちゃんと聞きました」
顔を上げた私を、教授が困ったように眉を八の字にして息をつく。
「怒ってないの?」
呆れたように尋ねられて、私は少しの間口を閉じた。
怒ってないのかと言われれば、最初の最初は怒りを感じていたのだ。それが、だんだんと萎んで会えないことの方が辛くなって・・・。
そうやって、戸籍の写しを見た時のことを思い出していたら、ジェイドさんの親指の動きが止まった。彼の指から腕へ、腕から肩へとそっと視線を這わせながら上げていくと、空色の瞳がゆらゆらと揺れているのが目に入る。
私はそれに微笑んでみせてから、教授へと視線を戻してしっかり頷いた。
「もう怒ってないです」
私の言葉に、教授は額に手を当ててため息を吐く。
その仕草は、やっぱりジェイドさんとよく似ていると思う。そんなことを思っていられるのはきっと、教授が私のことを心配してくれているんだと分かったからだ。
「本人が不快に思ってないなら、僕らが口を挟むことじゃないとは思うんだけど・・・」
「そうね。
すっかり忘れてたけど、ジェイドもいい大人なのよねぇ・・・。
こんな小姑みたいな子、貰ってくれるならありがたい限りだし」
リジェルさんが何度も深く頷くのを見て、ジェイドさんがため息を吐く。
「・・・私がこうなったのは、あなた方の素行が大きな原因だと思うんですけどね」
・・・椅子の件か。他にも何かあるんだろうな・・・。
「とにかく。
・・・こういう言い方もどうかと思いますが、離婚はしません」
考えを巡らせていた私は、彼の硬い声に我に返る。
「戸籍は今のままにしておいて、これからのことは時間をかけて話し合います。
・・・と、思っているんですが・・・つばき?」
小首を傾げて私を見つめる彼にそっと頷き返して、気がついた。
甘い何かが滲んでいる空色の瞳が、さっき膝の上にリジェルさんを乗せていた教授のそれに、よく似ていることに。




