後日談4
そっと動いたのは、ミエルさんだった。
わずかに息を吐いて落としたトングを拾い上げたあと、私の耳元に囁きを残して奥へ消えて行く。その囁きが、私の鼓動の音にかき消されるようにして耳に溶けていった。
エプロンの肩紐、よれてないかな。頬が引き攣ってる気がする。泣いたから目がぴくぴくする・・・やだな、よりによって、こんなところ。
普通に立ってるけど、痛くないのかな。1人で来たのかな。仕事復帰したのかな。今日はお休みなのかな。
・・・会いに、来てくれたのかな。
ぐるぐる、ぐるぐると言葉が頭の中を泳ぎまわっているのに、その中からどれか1つを口にすることすら出来ずに、私は立ち尽くしていた。
「・・・その髪、」
彼の唇が動いて、静かに言葉を紡ぐ。
それまでずっと当たり前に見てきたことなのに、嬉しい。心は、正直だ。正直でないのは、一体何だろう・・・。
私はそっと、目の前の空色を見つめる。目からいろんな感情が溢れそうなのを、必死に堪えながら。
「誰が・・・?」
言われて、私は指先を耳の上に這わせた。触れたのは赤い花の髪留めで、ここ数日楽しそうに私の髪を結う従姉妹の姿を思い出す。耳の上に花を置くのは、顔色が明るく見えるからだ、と言っていたっけ。
言葉を失ってから乾いてしまった唇を舐めて、私は口を開いた。
・・・上手く喋れるかな。聞いてもらえるかな。私の声、届くかな。
言葉を口にすることに、こんなに不安になるなんて初めてだ。
「・・・お姉ちゃんが・・・。
まだ、1人じゃ綺麗に出来ないから・・・」
煩い心臓を宥めながら言う私に、彼が息を吐き出した。
「そうですか、良かった」
そう言って彼の肩から力が抜けていく様子に、私は小首を傾げる。なんとなく2人の間を流れる空気が緩んだ気がして、一緒になって肩から力を抜いた私は、口を開いてみた。
「退院、おめでとうございます」
お祝いのつもりで口にした言葉に、彼が顔を顰める。まさか気を悪くするなんて思ってもなかった私は、戸惑って視線を彷徨わせた。
・・・心配してたから、普通にしてるところを見て、嬉しいのに。
抱いた気持ちを抑え込んでいると、彼が顔を顰めたまま言った。よく見ると、目の下にうっすらクマが出来ている。
「退院したら、カップケーキを焼いてくれる約束です」
・・・拗ねてる。
小さな驚きと一緒に、なんだか心がふんわり軽くなるのを自覚した私は、思い切って正面から彼の瞳を見つめた。空色がゆらりと揺れて、ほんの少しだけ大きく開く。
「それなら、」
・・・今日だけ、ちょっと強気に出てみよう。
意地悪したい、と思う気持ちが湧き上がって抑えられなかった。
「あと何日かしたら、店頭にカップケーキが並ぶから・・・そしたら買いに来て下さい」
「・・・つばき、」
困ったカオを隠しもしない補佐官殿に、私はなおも言い募る。
「そんなこと、言いに来たの・・・?
カップケーキを作れ、って・・・?」
・・・ダメだ。気持ちの浮き沈みに、思い切り振り回されてる・・・。
嬉しいのに悲しくて、ほっとしているのに、やるせない。
そして、ちょっと意地悪するつもりの言葉が、跳ね返って自分を追い詰める。言ってみて悲しくなった私は、言い終わる前に思わず俯いてしまった。
「すみませんでした、本当に・・・ごめんなさい」
聞いたことがないくらいの、言葉を噛み締めるような言い方に私は視線を上げる。目が合ったのは、痛そうに歪む空色の瞳。
「怒ってますよね、だから、帰って来なかったんですよね・・・?」
ショーケースに手を付いて、身を乗り出しそうにしながら俯く彼が呟いた。
「どうしたら許してもらえますか。
・・・もう、戻って来てはもらえないんでしょうか・・・?」
頼りなく呟く彼の姿に、私は気がついたら首を振っていた。
「怒ってない・・・」
「・・・本当?」
戸惑った様子で窺うように確認されて、私はこくんと頷く。
「怒ってなんか・・ただ、ちょっと、」
気持ちを言葉に変換しながら、私は自分の胸に手を当てた。彼の顔を見たら、言葉に詰まってしまうような気がして、ほんの少し視線をずらす。
「びっくりして、どうしたらいいか分からなくて・・・。
咄嗟に家出しちゃったから、会いたくても帰りづらくて・・・。
・・・だから、あの、」
「じゃあ、」
必死に言葉を探して話している私を遮って、彼が言う。額に手を当てて、目を覆い隠して。
「離婚は、しなくても・・・?」
「りこん・・・」
彼の掠れた声に、私は呆然と呟いた。初めて聞いた単語のようで意味が理解出来なかった。
「まだ、一緒にいてもらえますか・・・?
情けないんですが、」
耳が、勝手に彼の声を拾う。
「1人だと、眠れないんです・・・」
「安眠のため・・・?」
口が勝手に言葉を紡ぐ。
・・・もっと、はっきりした言葉が欲しい。
「何を口に入れても、美味しくないです」
「食事のため?」
「仕事になりません」
「他に有能な雑用がいっぱい、」
「つばき」
はた、と我に返った私を、語気を強めた彼が真っ直ぐに見据えている。
「あなたがいないと、生きていけなくなりました。
それ以上の理由が見つかりません・・・あとは、愛しているくらいしか・・・」
これ以上ないくらいの分かりやすい言葉を放った彼は、言い終わって視線を彷徨わせた。私もよくやってしまうから分かる。これはきっと、本音をぶちまけたという証だ。
それが分かって、私はやっと、何かから解放されたような気持ちになった。またしても、視界を涙が邪魔をする。
でも、ちゃんと見えないからこそ、素直になれる気がした。
「私も、ジェイドさんがいなくちゃ・・・」
「つばき・・・」
やっと紡いだ言葉に、ショーケース越しに伸びてきた指先が頬を撫でる。久しぶりの体温は、いくらか熱が篭っているような気がした。
「・・・やっと、触れられました」
甘さを滲ませた眼差しを向けられて、私は思わず俯く。久しぶりにそんなカオを間近で見てしまって、耳まで熱くて仕方がない。誤魔化し半分で、真面目な話をしようと口を開く。
「ちゃんと、理由を聞かせてくれる・・・?
私がどうして、知らない間にジェイドさんと結婚してたのか・・・」
「もちろんです。でも・・・」
そっと紡いだ言葉に、彼が頷いた。
心なしか、自分の頬が緩んでいるような気がして口元を引き締める。すると、彼が困ったような微笑みを浮かべた。
「ここでは、ちょっと距離がありすぎますね」
ちらりとショーケースに視線を落として言った彼が、ふふ、と声を漏らす。その声が耳に心地良くて、私は目を細めた。
「今日は、仕事が終わったら屋敷に戻ってくれますか?」
「うん」
迷わず頷いた私に、彼も目を細めてくれる。
「なら、終わる頃に迎えに来ますね。
・・・それまで、少し買い物に出て来ますから、」
やっと会話らしい会話を交わすことが出来るようになったところで、ふいにドアベルが鳴った。
彼の手が離れて、頬が急に冷えてゆく。吹きさらしになったようで寂しくて、思わずその手を見つめてしまった私の耳に、2人の声が入ってきた。
「・・・あら」
「あ」
ほぼ同時に聞こえた2つの声に、私は振り返って・・・。
「こ、こんにちは。先ほどはどうも・・・あの、どうされました・・・?」
咄嗟にそんな台詞がついて出た私を、誰か褒めてくれないだろうか。
蜂蜜色の髪をしたご婦人が、また店にやって来たのだ。
「あ、あなたねぇ・・・!」
少し前に来店してケーキを買って帰ったはずのその人は、買い忘れでもあったのか、と私が言外に滲ませた瞬間に、目を吊り上げた。
どういうわけか、ジェイドさんに向かってだ。
・・・まさか。
そして思い出す。彼女が、再三にわたって私を息子の嫁に、とスカウトしてきたことを。しかも今日は、その人と別れればいいのよ、だなんてのたまって帰っていったことを。
私は咄嗟にカウンターから飛び出して、ジェイドさんと彼女の間に立つ。背後のジェイドさんは、戸惑ったように私を見ていた。
「あの・・・!」
思い切って声を出すと、彼女の視線が私に向けられる。
・・・ごめんなさいミエルさん!
もう、この人が店に来なくなっても構わない。ミエルさんには申し訳ないけど、私に同情してくれていたくらいだから、きっと許してくれる。許してもらえなかったら、その時はその時だ。
・・・今は、ジェイドさんが一番大事なんです・・・!
店長に向かって心の中で懺悔してから、呼吸を整えて思い切り言葉を放つ。
「私、お客様の息子さんとは結婚しませんから!
彼のことが世界で一番大事で、特別なんです。一緒にいるって約束したんです」
両手を握り締めたら手首が、ちり、と痛む。今は、その痛みが私を励ましてくれているような気すらしていた。
放った言葉に嘘はない。この世界から引き剥がされそうになって、彼が世界で一番大事で特別な人なんだと、思った。身を持って、思い知った。
だから、咄嗟に家出なんかして途方に暮れた。数日でも、離れるなんて無理だと分かった。だって、好きだから。
彼女は目を見開いて私と、その向こうのジェイドさんを見つめている。
もう、言葉をぶつけられたくなかった。彼の前で、一緒にいるところを否定されたら耐えられないと思った。
「だから、何度言われても絶対、絶っ対に別れたりしませんから!」
久しぶりに大きな声を出して目に力を入れて見据えている私に、彼女は呆然と立ち尽くしている。
そりゃそうだ。焼き菓子店で店員に大声で言葉をぶつけられるなんて、誰だって思いもしないに決まってる。それくらい、とんでもないことをしてしまった自覚は、私にだってある。
・・・ああミエルさん、ごめんなさい・・・。
だから、店長に心の中でもう一度懺悔した。決して、彼女にはしないと決めて。
どれくらい、視線をぶつけていただろう。
ふいに、背後から腕が回されて、引き寄せられた。ぐらりと体が傾いて、ジェイドさんの顔が肩に乗せられる。締め上げられる寸前まで、彼の腕に力が込められた。こんな時まで、痛いくらいでちょうどいいだなんて、私は可笑しいのかも知れない。
「・・・あ、あの?」
静かな店内で、私が間抜けな声を上げる。すると、彼女がくつくつと笑い出した。
「何ですか」
むっとして問う私に、彼女は微笑む。頬に手を当てて、小首を傾げて。
その表情は、私を気に入ったと話してくれた時のことを思い出させた。決して、言葉をぶつけられて怒りを感じているわけではなさそうだ。
それが腑に落ちなくて、私は絡み付いている彼の腕をほったらかしにしたまま、彼女の顔を呆気に取られて見つめてしまう。
「ケーキの個数が足りなくて、買い足しに来たのだけれど・・・。
・・・あと2つ、あなたが選んでね」
「え?」
言われた内容が理解出来ずに問い返すと、彼女は肩を竦めて踵を返す。
「あの?」
あと2つ、ケーキを買うんじゃないのか。
当然の疑問を浮かべた私が引き止めると、彼女は背を向けたまま目だけで振り返って微笑んだ。そして、そのまま何も言わずにドアを開ける。
彼女が出て行って、カランカラン、とドアベルが鳴る。それきり、店の中が静かになった。
「・・・なんなの・・・?」
静寂の中、わけが分からず混乱する私の耳に、背後からきつく腕を回し続けている彼が、そっと口を寄せる。そして囁いた言葉に、私は絶叫した。
正しくは、絶叫しようとした私の口をジェイドさんが塞いだから、私は心の中で思う存分絶叫したのだった。




