72
かくんっ
はっとして、目を開く。ジェイドさんの寝顔を眺めているうちに、船を漕いでいたらしい。瞼が重く垂れてくる感覚に、頬を抓る。
思い切って手首を叩けば一発で目が覚めるような気がするけど、治りが遅くなったらそれはそれで彼に迷惑がかかる。それを思うと、私は自由になる方の手で自分の頬を抓るしかなかった。
じんじんする頬を擦りつつ窓の外へ目を向けると、月がだいぶ傾いてきているのに気がつく。もしかしたら、思っていたよりも長い間意識がおちていたのかも知れない。
「ジェイドさん・・・」
名前を呼んで、そっと頬を撫でる。唇をなぞってみると、吐息が指先に触れて、彼の呼吸が感じられた。あどけなさが映るそこに、こっそりキスをした私は、頬を緩めて息を吐く。
・・・良かった。ちゃんと、息してる。
胸の内で呟いた私は、ひとつ伸びをして深呼吸した。
一体どれくらいの間眠ったのか分からないけど、頭がスッキリしている。しかも散々マイナス思考に陥った反動なのか、ずいぶんと気分が落ち着いている。
傷を見てくれた先生も大丈夫だと言っていたんだから、少しくらい目を瞑っていても彼の身に何か起きることはなさそうだ。
私は息を吐ききってから、目を閉じる。すぐにやって来た眠気に、だんだんと頭が下がってきて、暗闇の中に意識が沈んでいくのが分かった。なんとなく、この長い1日の峠を越えたような、不思議な安堵の気持ちが胸に広がっていく。
コツコツ
突然響いた物音に、深くお辞儀をするようにして沈んでいた頭が、がくん、と揺れた。
私はぼーっとする目を擦って、耳を澄ませる。窓に、小枝でもぶつかったのか・・・それとも、ドアがノックされたのか・・・。
後者でないことを祈りつつ振り返ると、そんな私を見ていたかのようにもう一度、コツコツ、という高くて軽い音が聞こえた。
・・・誰。
血の滴る切っ先が脳裏をよぎって、一瞬心臓が縮み上がる。きゅぅぅ、と軋む音すら聞こえそうなほどに、緩んでいた体が硬直した。
心臓のある辺りをぎゅっと掴んだ私は、呼吸を整える。
・・・こんなことでパニックになってたら、ジェイドさんを守ることなんて、出来ない。
個室には鍵がかけられるようになっている。簡単には押し入って来られないはずだ。
シュウさんは病院の警備にあたっているという騎士に、ナイフから滴っていた血痕を辿って、あの女を捕まえるように命じてくれた。この病院自体は白の騎士団の管轄らしいけど、警備には蒼の騎士もあたっているんだそうだ。一般人が利用する施設だから、と彼は言っていた。
すぐに蒼の団長に報告がいって、あの女の捜索が始まるだろう、とも。
呼吸を整えながら頷いた私は、そっと椅子から腰を上げた。
「ちょっとだけ、待っててね」
まだ眠っている彼に囁いて、ドアの上の方、すりガラスに映る人影へとゆっくりと近づく。廊下が薄暗くなっているからなのか、髪の色がよく見えない。でも、少なくともあの女とは違うみたいだ。
そこに気がついた私は、少なからず抱いていた恐怖心から解放される。あの女に仲間がいない保障はないけど、これまで何も起きなかったんだから、きっとあれは1人でやったことなんだろう。私は、そう思っている。
ノックの返事をするべきか否か迷っていると、ふいにシュウさんが「相手が痺れを切らすまで、少し待ってから返事をしろ」と言っていたのを思い出した。どうしてか、なんて聞いていない。ただ、シュウさんの表情が真剣だったから、とにかく頷いたのだ。
私は言われた通りに少し待ってみることにして、すりガラスの向こうに目を凝らす。
ぼんやり見えていて分かることと言えば、肌や髪の色が濃くないくらいだ。
すると、またノックが響く。今度は少し強めに。
言われた通りに待ってみた私は、その間にずいぶんと冷静になれている自分に気がついた。ノックの音に苛立ちが紛れているのをうっすら感じることが出来るくらい、頭の中が、しん、としている。
相手が声を発するまで、もう少し。
そう思った時だ。ドアの向こうでため息を漏らす気配がした。
「ヴィエッタです。
・・・開けていただけますか」
その声に、私の心臓は何秒か時を刻むのを忘れたんじゃないかと思う。
「兄は、」
私がかちゃりと開けたドアを、彼女が言葉を紡ぎながら、ぐいっと引いた。その勢いに引っ張られた私は慌ててドアノブから手を放して、傾いだ体を立て直そうと足に力を入れる。
・・・出来れば会いたくなかった。
素直な気持ちが表情に出てしまいそうになった私は、それを寸でのところで堪えて、平静を装って病室へ入り込んだ彼女に告げる。
言葉は選ばない。選ぶ余裕なんかないからだ。
「腕を、ナイフで・・・でも、内臓は傷ついてないそうです。
お医者さまは、適切に過ごせば良くなると仰ってました」
・・・咄嗟に出た敬語は、就活の賜物か。
私は彼女の背を見ながら、ドアに鍵をかける。彼女と密室で向かい合っていることよりも、外からあの女が忍び込むことの方が恐ろしかった。
理由の分からない悪意や敵意なんかより、はっきりした悪意や敵意の方が向き合える気がする。
彼女は私に背をむけたまま、何も言わない。ただ、静かにベッドに横たわる彼のことを見つめているようだった。
沈黙が、痛い。
ちらりと視線を走らせれば、窓の外が少しずつ明るんできているのが分かって、私はそろそろジェイドさんが目を覚ますような気がした。・・・いや、どちらかと言うとそれは希望だ。
彼が、私と彼女の間に入ってくれたらいいのに、と思う。いつだったか補佐官の執務室に、鉄子さんの制止を振り切って押し入られた時のように。
・・・いけない。
むくりと起き上がった甘えに気づいた私は、小さく首を振る。
「だから言ったのに・・・」
彼女の呟きが、沈黙を破った。重く、低く、その外見とは程遠いくらいの、硬い声。地を這うような気配に、私は一歩後ろへ退いた。
おもむろに、彼女が私を振り返る。
彼と同じ色の瞳なのに、全く優しくない。
・・・それはそうか。彼女にとって私は、愛するお兄様に纏わり付く野良猫なんだから。
まだ何も言われていないのに、自分が責められているような気持ちになって、私は視線を落とした。
白の騎士団副団長を務めているだけあって、その立ち姿には神々しいくらいの威圧感がある。シュウさんが時々放つものとは、何かが違う気がして気圧された。
私は強い視線に晒されて速くなる鼓動を宥めながら、必死に冷静さを保とうとしていた。
指先が震えるから、ぎゅっと握り込む。唇を噛んだ後、深呼吸する。
しっかりしなくちゃ、と閉じた瞼の裏に浮かんだのは、やっぱりジェイドさんの顔だった。
それに後押しされるように視線を上げた私は、再び彼女の放つ強い視線に晒される。鼓動は速いままだけど、それでも正面きって彼女と対峙しようと決めた。
すると、彼女は片方の眉を跳ね上げて口を開く。
「・・・あとのことは、私が」
責められるのかと思っていた私は、ぶつけられた言葉の静かさに耳を疑った。
・・・あとのことは、私が。
心の中で繰り返した私は、その言葉の意味を理解した途端に沸々と沸きあがる気持ちを自覚して、口を開く。
「私もここに、」
飛び出た言葉に彼女は目を吊り上げて、遮るように言い放つ。
「あなたがここに居る必要はありません。
どうぞ、お引取りを」
「ここに居ます」
それには負けず、間髪入れずに言った私に彼女は苛立ちを隠さずに。
「もう、」
「嫌です。ここに居ます。
ジェイドさんがちゃんと目を覚ますまで、傍に居ます」
・・・望んでいるのは彼の、特別になること。いなくなったら息も出来ないくらいの、必要不可欠になりたい。
真っ直ぐに見据えた青い瞳が、小さく揺れる。
凛とした立ち姿が一瞬だけ霞んだ気がして、私は息を整えた。そして、口を開く。
自分の思いを口にするのが、こんなに勇気の要ることだとは思わなかった。伝わるなんて思わないけど、それでもぶつけなければ。
「傍にいるって、決めたんです」
突いて出た言葉は、自分が思っているよりも重かった。重いから、口にしたらスッキリした。胃にぶら下がっていた重りがなくなったみたいに、体が軽い。
私は何かに突き動かされるようにして、気がついた時には言葉を並べていた。
「誰に許してもらわなくてもいいです。
ジェイドさんが選んでくれたら、それで。
・・・だから、傍に居ます」
駄目押しでもう一度繰り返した私に、彼女は大きく息を吐いた。長めの瞬きが、気迫を纏う。
青い瞳に怯みそうになりながらも、なんとか視線を交えていた私は、視界の隅で彼女の手が動いたことに気がついた。
「ならば、」
白くて綺麗な手が、腰の脇に伸びる。
その仕草はとても洗練されていて、私は半ば見とれるようにして手の動きを見ていた。
すらり、と控えめな、金属の擦れる音がして、脳裏にいつかの記憶が蘇る。
・・・あの時も、彼女は同じように剣を抜いたのだ。
迷いなく向けられた切っ先の向こうで、青い瞳が細められる。さらにその向こうでは、やっと夜が終わろうとしていた。空が明るくなってきている。
そして私は、剣を向けられて冷静でいられる自分に心底驚いていた。
手を伸ばせば、私の指は斬り落とされるだろう。それくらいの距離で、私は剣を突きつけられているというのに、だ。
「お願いしましょうか・・・退いて下さい。」
押して駄目なら引いてみろ、ということなのか。言葉は丁寧なのに、それはお願いじゃなかった。私の知っている限りの言葉に変換する。これは脅しだ。
親の敵を見ているかのような眼差しに、一瞬言葉を失った。でも、あながち間違ってもいないから、こんなにも強く私を睨みつけているんだろう。
今までの私だったら、きっとここで挫けていた。過去の記憶がフラッシュバックして、気絶するくらいの恐怖に襲われていただろう。
でも、もうダメだ。変わらなくちゃ。じゃなければ傍には居られない。もっとちゃんと大人になって、隣に並びたい。
あの血塗れた記憶を乗り越えられるくらいの強い気持ちを持たなければ、“いっそのこと自分も”と、暗い夜空に吸い込まれることを選んで、手を離さずにいてくれた彼にはつり合わない。
この鼓動の速さが緊張や恐怖からなのか、それとも自分の中に揺るがないものを見つけた興奮からくるのか分からない。けど、私は思い切り息を吸い込んで彼女を見据えた。
「彼の傍に居ます。
気に入らないなら、その剣で傷付ければいい」
一気に言い放った言葉に一瞬息を詰めた彼女は、さらに表情を険しくして握り締めた剣の切っ先を、私の鼻先に近づけた。
それに反応して喉が絞まってしまいそうになる私は、声を押し殺す。
「でもそれで、私の気持ちをどうこう出来るなんて、思わないで・・・」
啖呵を切った割りに、本当に剣が振り下ろされる瞬間を想像して、足が竦む。
どれくらい睨み合っていただろうか、ふいに剣が下ろされた。
解放された安堵感に、私は息を吐く。急に呼吸が楽になったのが分かって、私は思っていたよりも自分が緊張していたことを知った。
「・・・謝罪を」
ため息と一緒に聞こえた言葉に、時間が止まった気がした。私が気持ちをぶつけても、それすら謝れというのか。
怒りを超えたやるせなさを覚えて、絶句する。次に切っ先を向けられたら、足元から崩れられる自信がある。頑張れたのはほんの一瞬だけで、結局私はそんなに強くないのだ。
途方に暮れた私が俯いていると、彼女が再び言葉を紡いだ。
「謝罪します。
・・・私は、間違っていました」
はっとして、顔を上げる。そこには、表情もなく私を見つめる彼女の姿があった。
「え・・・?」
・・・私に謝罪を求めていたんじゃ、なかったの。
咄嗟に何も言えなかった私を見て、彼女は苛立ったのかわずかに顔を顰めて、剣を収める。そして、一歩踏み出す。思わず体を強張らせた私の横を通り過ぎて、そのまま病室を出て行った。
「・・・あぁ・・・」
心臓が煩い。耳元で鼓動の音がして、私は軽く頭を振った。息を吐きながら鍵をかけて、椅子に腰掛ける。
窓の外、朝日が昇る気配を漂わせる空に、ちゃんと時間が過ぎていることを実感した私は、彼の胸の上に伏せた。
わけが分からないままだけど、彼女は私を残して去って行った。彼の傍にいると言った私に、謝罪すると言って・・・。
・・・理解出来なくても、もういいや。疲れたもん・・・。
心の中で呟いて目を閉じる。すると、次の瞬間頭が揺れた。いや、彼の胸が揺れた。
「くっ・・・」
喉の奥で声を震わせる音に、勢いよく顔を上げる。
連日寝不足で、疲れが限界すれすれのところまで達している私は、頭がくらくらするのにも構わずに目を見開いた。
「ジェイドさん!」
「・・・お疲れさま」
驚いて声を上げた私を、彼の空色の瞳が映している。それを見たら、もうダメだった。
「はい、泣かない泣かない」
普段ペンを握って戦っている手が、私の目じりをなぞっていく。繰り返し、繰り返し。
苦笑交じりなのは、いつも通りだ。それが、嬉しい。
「あの子に非を認めさせるとは、大したものですねぇ」
「あの子・・・?」
泣いたせいなのか、声を喉から先に出すまでに時間がかかる。
呟くように小首を傾げた私に、彼はまた苦笑した。
「ヴィエッタですよ。
あの頑固な彼女に謝罪させるなんて・・・つばきは強いんですねぇ」
「・・・起きてたの?
もしかして、聞いてた?」
打ち身の酷い背中にクッションを挟んで起き上がった彼は、痛みに顔を顰めた後、目を細めて私を見つめる。
私は彼が痛いのを相当我慢してるんじゃないかと疑って、その視線を半分受け流しながら、彼の言葉を待っていた。
「意識がはっきりしたのは、彼女が剣を抜いた音が聞こえた時です。
・・・あなたが、また怖い思いをしているんじゃないかと思って。はっとしました」
握った手に、力が込められる。
彼も執務室にヴィエッタさんが押し入った時のことを、忘れてはいなかったらしい。それが嬉しくて、つい頬が緩む。
「なんか、大丈夫になったみたい」
照れ隠しに鼻先を掻いた私に、彼が微笑んだ。
「・・・成長したでしょ?」
「ええ、頑張りましたね」
つい、褒めてもらいたいという甘え心が湧き上がって、私は彼の手を自分の頬に添える。じんわりと温かいはずの手は、ほんの少し熱かった。
「・・・熱、あるね」
そっと囁くと、彼が小さく笑う。
その気配すらいとおしく思えて、自分の表情が自然と和らいでいくのを自覚する。やっと、呼吸が楽になった気がした。
「お医者さま、呼んでくるね」
「なら、その前に・・・」
「うん?」
立ち上がりかけた私の手を引いて、彼が指を絡める。
ほんのり漂う、どこか湿った空気に気がついた私は、鼓動が速くなるのを感じて息を飲む。空色の瞳が、私の目を捉えているのが分かって、視線を泳がせる。
腰を浮かせたままの私に、彼が言った。
「キス、して下さい」
「えっと・・・」
突きつけられた要求に、顔が熱くなるのを抑えられない。私は右往左往しながら、曖昧な言葉を紡いでしまった。
そんな私に、彼は囁く。
「つばき」
催促しているような、懇願しているような。不思議な響きを纏って自分の名前を囁いた唇に、私は引き寄せられるようにして近づいて、そっと目を閉じる。
眠っている時とは違う、意思をもった吐息がかかって、私は触れるか触れないかのキスをした。
その瞬間、絡められた指に力が込められる。
瞼の向こうが明るくなったのを感じた私は、絡められた指を握り返して、かろうじて重なっていた唇を何度か啄ばんで目を開けた。
その瞬間、視界一杯に広がった空色の瞳に、我に返る。
「・・・目、開けてたでしょ・・・」
「ばれました?」
悪戯が成功した子どもみたいな表情で、彼が小首を傾げた。そして、微笑む。
「・・・おはよう、つばき」
そのひと言で、私は今日が終わりを迎えたことを実感した。
人生で一番長い1日。終わらないんじゃないかと思うくらいに、長い1日だった。
「おはよ、ジェイドさん」
新しく始まる1日も、引き続き課題をたくさん抱えているけど・・・それでも、なんとかなるような気がする。そのために、頑張ろうと思える。
絡めた指を、ぎゅっと握った。
・・・こうして絡めていれば、きっと簡単には離れない。
その空色の瞳に近づきたくて、私はもう一度目を閉じた。




