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音もなく引き戸が閉まって、薄暗い廊下に立ち尽くす。
ふわりと揺れた服の裾から覗いていた、鈍く光を反射するあれは確かに、ナイフの切っ先だった。刃物に敏感な私が見逃すはずがない。
自分の呼吸する音だけが、耳元で聞こえている。鼓動が早鐘のように打ち付けていて、それが小走りに駆けてきたせいではないことも、十分分かっていた。
・・・怖い。
そう感じた途端に、全身が凍り付いた。膝が笑う。
脳裏に翻ったのは、赤と黒のコントラスト。床に散らばった黒を、鉄が錆びたような匂いのする赤、毒々しいほどの赤が飲み込もうとしている場面。
クリスマスのオーナメントと、グラスの破片が散らばった床。狂気をばら撒いた手が、その破片を突き刺して・・・。
息が上手く出来ない。気が遠のく。視界が急に狭くなって、目の前がよく見えない。悲鳴を上げたいのに、喉が塞がって声が出ない。助けて欲しいのに、手を伸ばすことが出来ない。もう解放して欲しいのに振り払うことも、出来ない。
記憶と現実の境目が曖昧になった私は、足元がぐらついて咄嗟に壁に手を付いた。リュケル先生に手当てしてもらったばかりの、手を。
手が壁に付いた刹那、体重を支えるつもりで出した手を激痛が走っていった。無遠慮に、いっそのこと気持ちがいいくらいに痛い。
でも、直前まであの日のことがフラッシュバックして声が出せなくなっていた私は、悲鳴を上げる代わりに息が止まって、頭も痛くなって。そして、いつの間にか狭間を漂っていた意識がはっきりしていることに気づいた。
きっと、ジェイドさんが思い切り掴んだ時の手首の痛みが、私を現実に引き戻してくれたのだ。
・・・すぐ傍にいなくても、私は十分守られてる。
心のどこかでそう感じた私は、そっと息を吐いて呼吸を整える。
・・・大丈夫、大丈夫。
深呼吸をしながら、目を閉じて何度も胸の中で唱える。
・・・もう、大丈夫。自分の足で立って、って言われたんだ。
そう自分に言い聞かせた私は、長めの瞬きをしてから記憶を引っ張り出す。
・・・あの人・・・あの女の人は、給湯室に入っていった。ナイフを持って。
切っ先を思い出すだけで、足元がぐらぐら揺れそうになる。足の裏に力を入れて、思い切り踏みしめる。
このドアの向こうは給湯室・・・もしかしたら、そこから果物ナイフを借りた人なのかも知れない。使い終わったから、返しに来ただけなのかも知れない。入院生活の定番だ。林檎の皮むき。だから、もしかしたら・・・。
再び這い上がってきた恐怖を打ち消そうと、楽観的な捉え方をしてみる。けど駄目だった。考えれば考えるほど恐怖が増してきたのを自覚した私は、ひくつく喉にも力を入れる。
・・・抜き身のナイフを持って歩くなんて、やっぱり普通じゃない。この時間に、診察時間も面会時間もとっくに終了してるこの時間にだ。
・・・どうしよう、どうしよう・・・どうしたら・・・。
シュウさんを呼んだ方が賢いと分かっているのに、この場を離れている間にジェイドさんの身に何か起きたら・・・そう思うと、足が動かない。でも、迷っている時間はない。分かってる。
・・・ドアの向こうで何かが起きていても、ドアの前に居ても何も出来ないくせに・・・。
じわりと染み出た思いに、私は自由が利く方の手を握り込む。確かに私のこの手には、ジェイドさんみたいに掴んだ何かを砕くほどの力はない。
その自覚があるならやっぱり、シュウさんの所へ全力疾走した方が良さそうだ。
私は記憶の残像のように居座る恐怖感を振り払うために、勢いよく踵を返そうとした。
その、刹那。
ガシャン!
重い何かの割れる音がドアの向こうから聞こえて、私は一瞬息を飲む。
突然の音に驚いたのと、何か嫌な予感がしたのとで鼓動が速まる。一気に恐怖に飲み込まれそうになった自分を叱咤して、私はじっとドアの向こうの気配を窺った。
すると、ドアが音もなく開く。引き戸になっているそれが全部開くまでの時間が、私には、とてつもなく永く感じた。
そして、開いたドアから出てきたのは、1人の女性だった。
「あ・・・」
思わず声を漏らしたのを聞いた彼女は、目の前を通り過ぎるほんの一瞬だけ、私を一瞥する。白い両頬に挟まれた口元が、弧を描いていることに気がついた私は視線を上げて、そうして、ふいに重なった視線の強さに、咄嗟に目を伏せた。
ふわり、と彼女の服の裾が翻って、私に背を向けて歩き出す。
目を伏せた私の視界に飛びこんできたのは、赤い点だった。
最初は、1つ。彼女の足があった場所に。
その次は、もう少し遠く・・・彼女が一歩踏み出した場所に。
次は・・・と、赤い点を目で追った先に見つけたのは、血の伝う、刃の切っ先だった。抜き身のナイフから、血がぽたりぽたりと垂れては、白い廊下に鮮やかなドットを残していたのだ。
頭で理解するより早く、吐き気がこみ上げる。
彼女の浮かべた笑みが脳裏に蘇って、心臓を鷲掴みにされた。痛いくらいに鼓動が速くなる。
そして、あの血は誰のものかに考えが及んだ。
「・・・や・・・」
その瞬間、自分が何を思ってそう呟いたのかは分からない。何も考えていなかったのかも知れないし、戦慄に勝手に口が動いたのかも知れない。
ただ、私は無我夢中でドアの向こうにいるはずの彼の元へと、飛び込んでいた。
金色の髪が、床に散らばっている。熱湯が入っていたらしいポットが、少し離れた場所で割れていた。簡易キッチンでは薬缶のお湯が沸騰したまま、蓋を持ち上げようとカタカタと不規則なリズムを刻んでいて・・・。
「ジェイドさんっ!」
悲鳴のような声が、耳を裂いた気がした。違う、裂かれたのは、私の胸の奥の方だ。
駆け寄って、頬に触れる。熱い。なのに、彼は震えていた。
「ジェイドさん・・・?!」
覗き込むと目が開いているのに、私を見てくれない。
怖くなって腕を揺すると呻き声がして、同時に自分の手がぬるっとした何かに触れたのが分かって、咄嗟に手を離す。
自分の手が、真っ赤に染まっていた。
・・・血だ。
視界いっぱいに広がった鮮やかな赤に、息が出来なくなる。目の前がチカチカして、眩暈がした。ぐらぐら揺れる視界がだんだんと白けていって、気が遠のくのが分かる。
・・・怖い。嫌だ。怖い。
カードの表と裏を入れ替えるようにして、脳裏をその2つの単語が代わる代わるよぎった。
「ジェイドさ、嘘、やだ、やだ・・・!」
自分の口から出てくる言葉の意味が分からない。
錆びた鉄の匂いに、吐き気がする。
・・・誰か、助けて。
そう祈るようにして目を閉じた私は、意識が急激に沈んでいくのを感じる。ふわりと解けそうになった次の瞬間、瞼の裏に浮かんだのは、煩い、と私を一喝した時の彼のカオだった。
その刹那、私の意識が急に現実に引き戻される。気が遠のいて大きく傾いた体を支えようと手を付いた私は、肩まで突き抜けていった痛みに、思わず呻く。
彼に叱られたような気持ちになった私は、思わず言葉を紡いでいた。
「・・・ごめんねジェイドさん・・・」
また、逃げてしまうところだった。
乱れた呼吸を整えながら、横たわって浅い呼吸を続けている彼に言う。
「私も、守るから」
・・・あんな女の思い通りになんか、絶対にさせない。
子どもの頃に遭遇した、理不尽な暴力と重なったのかも知れない。私は憎悪と言ってもいいくらいの強い気持ちを持って、壁に備え付けられていた非常用の呼び出しボタンを、思い切り、力の限りに叩き割った。
月明かりが差し込む病室で、彼の寝顔を眺めていた。
胸の辺りがゆっくりと上下して、呼吸をしているのを確認していたら、彼が目覚めるまでちゃんと続いているのを見届けたくなってしまったのだ。
非常用の呼び出しボタンを叩き割ってから、すぐに看護士さん達が駆けつけてくれて、ジェイドさんは担架で運ばれていった。
処置をしてくれた医師によると、腕を刺されていたから、数針縫ったそうだ。腹や背中を刺されたわけではないから、内臓を傷付けられたわけではないし、安静にして消毒をきちんとすれば、すぐに良くなると教えてくれた。
それを聞いた私は足元から崩れてしまって、一緒にいてくれたシュウさんに抱きかかえられて、今腰掛けている椅子まで運んでもらったわけだ。
夕方、お姉ちゃんを呼び戻すために集まったあたりから張り詰めていた緊張の糸が、あの時に大きな音を立てて切れたような気がする。
シュウさんは、私を運んだ後すぐにお姉ちゃんの病室に戻って行った。
徒歩で病院に向かっていた団長やルルゼも来て、リュケル先生の問診を受けたそうだ。今は、空いている個室を使って休んでいる。
教授はシュウさんからの頼まれごとがあるからと、私とジェイドさんを病院に送り届けてすぐに、シュウさんの家へと向かった。
窓の外に見える空は、研究室で見上げた夜空よりも明るい。月が照らす街は静まり返っていて、時折猫の鳴き声や酔っ払いか何かの鼻唄らしきものが聞こえてくる。
1日が終わって、朝を迎える。そんな日常が、窓の向こうにはあるんだろう。
私は変わらず上下し続けている彼の胸に、視線を落とす。呼吸が浅いわけでもなく、苦しそうなわけでもない。鎮痛剤が効いているみたいだ。
歳の割りに寝顔が子どものように可愛くて、思わず頬が緩んだ。
もともと肌は白い方だと思うけど、今は少し青白くさえ見える。心配ないと医師は言っていたけど、不安になってしまう。
本当に、彼は目を開けてくれるんだろうか。
何度目になるか分からないため息が漏れて、私は彼の頬にそっと触れる。熱が高くなっているんだろうか、ほんの少し熱い気がした。
彼が傷と戦っている証拠だ、と自分を納得させて、涙が零れそうになるのを堪える。
・・・あの時、私が早くドアを開けていればよかったのか。
・・・シュウさんの所に、もっと早く行っていればよかったのか。
・・・いや、でもその間にジェイドさんは刺されたかも知れない。
・・・それなら、最初から私が給湯室に行けばよかったのか。
すでに決まってしまった現実は変えようがない。仮定しても、仕方ない。
そう思うのに頭の中は後悔でいっぱいで、考えていないと、どうにかなりそうだった。
「ジェイドさん・・・」
思わず呼んだ彼の名前が、静かに毛布に沈んでいく。
応えてくれる声がないことが、こんなに堪えるものだとは思わなかった。私の呼びかけに、彼が答えないことがあるなんて、思いもしなったから。
静まり返った個室で、2人きりだ。2人でいるのに、私は独りぼっちにされたような、言いようのない寂しさを感じて唇を噛み締める。
今日、同じように唇を噛み締めた時には、彼の温かい指が私の唇をなぞったはずなのだ。そして、零れた涙を拭ってくれた。
それを思い出しながら手を伸ばして、彼の金色の髪にそっと指を絡ませる。
出会った頃よりも髪が伸びていることに気がついて、私は息を吐いた。いつもきちんとしている彼が、自分の髪を切るだけの時間も割いてくれていたのだと思うと、なんともいえない気持ちになる。
「私・・・甘えてばっかりだね・・・」
紡いだ言葉は、自分に向けたものだった。
こんなに夜を長く感じたのも、夜明けを切望したのも、生まれて初めてかも知れない。




